根本 康広(ねもと やすひろ、1956年1月31日 - )は日本中央競馬会 (JRA) の元騎手で現在は調教師美浦トレーニングセンター所属。

根本康広
ベゴニア賞パドック(2023年11月26日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都[1]
生年月日 (1956-01-31) 1956年1月31日(68歳)[1]
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 東京→美浦・橋本輝雄(1977年3月 - 1989年3月)
→美浦・フリー(1989年3月 - 1990年6月)
→美浦・橋本輝雄(1990年7月 - 1993年2月)
→美浦・フリー(1993年3月 - 1996年12月)
→美浦・高市圭二(1996年12月 - 引退)[1]
初免許年 1977年
免許区分 平地
騎手引退日 1997年2月28日
重賞勝利 14勝
G1級勝利 3勝
通算勝利 2633戦235勝[1]
調教師情報
初免許年 1997年(1998年開業)
経歴
所属 美浦トレーニングセンター
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1977年に騎手デビュー。当初は障害競走で活躍し、1981年までにバローネターフ、ナカミショウグンといった騎乗馬で中山大障害3勝を挙げる。1985年秋の天皇賞においてギャロップダイナに騎乗し、「皇帝」と称されていた本命馬シンボリルドルフを破り、GI競走初制覇。1986年にはメリーナイス朝日杯3歳ステークスを、翌1987年には東京優駿(日本ダービー)を制した。1997年に騎手を引退し、1998年より調教師として美浦トレーニングセンターに厩舎開業。

経歴 編集

1956年、東京都北区堀船に生まれる[2]。実家は現在の都電荒川線梶原停留場の目の前に位置する古書店「梶原書店」(停留場は上中里に位置するが、書店は堀船に位置。2021年閉店)を営んでおり[3]、父親は競馬好きな人物であった[4]場外馬券売場で騎手候補生を募集していることを知った父親が、身長・体重が条件に適っていた根本に騎手を目指すことを勧め、1971年に中央競馬の騎手養成長期課程に22期生[5]として入所した[4]。同期生には加藤和宏木藤隆行[4][6]佐々木晶三西園正都田所清広池添兼雄小西一男など11人がいた[5]

騎手免許試験には3度落第し[2]、デビューは21歳となった1977年まで延びた[7]。養成所時代は同期生のうちで障害飛越が最も下手だったが、1979年に騎乗馬バローネターフで障害の最高競走・中山大障害の春秋連覇を達成する[2]。1981年にもナカミショウグンで中山大障害(春)を制した[2]。しかしその活躍とは裏腹に、障害競走への騎乗数はキャリアを通じて僅か44回に留まっている。

1985年、天皇賞(秋)において13番人気のギャロップダイナに騎乗し、それまでGI競走5勝を挙げ「皇帝」と称されていたシンボリルドルフを破る番狂わせとなる大金星を挙げる[8]。ギャロップダイナはバローネターフを手がけた矢野進の管理馬で、それまで騎乗していた主戦騎手の柴崎勇が他馬に乗ることとなり、また過去に騎乗していた岡部幸雄東信二田村正光も他の馬への騎乗依頼をすでに終わっていた後だったため、急遽根本に手綱が任されたものだった[8]。根本自身勝てるとは思っておらず、競走前には同期の加藤と「万が一勝ったら、賞品の車をトンカチで叩き潰そうや」と軽口を叩いていたという[8]。この年、同期の木藤が桜花賞を、同じく同期の加藤が日本ダービーを制したことから、馬事公苑騎手養成長期過程22期生の当たり年となった。

翌1986年には師の橋本輝雄が管理するメリーナイスで関東の3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスを制する。なお、このとき根本は最後の直線で風車のように鞭を使うヨーロピアンスタイルの騎乗スタイルを披露したが、その姿はあまり良いものではないと判断され、周囲からは「却って馬に負担を掛けてしまっている」と苦言も呈された。根本はこのとき左足を負傷しており、それを隠して朝日杯に出場するために「ヨーロピアンスタイル」を口実に、負担の少ない乗り方を模索した結果だったと後年明かしている[9]

翌1987年には同馬とのコンビで日本ダービーに臨み、競走史上3番目の着差となる6馬身差での優勝を果たした[10]。橋本は史上3人目の記録であった騎手・調教師双方でのダービー制覇を達成。根本は後年、この競走を回顧し次のように述べている[11]

「橋本先生が定年になれば、ぼくはフリーになる身。だけどフリーになって、上位を狙える馬にどんどん騎乗依頼が来るようなジョッキーではないことは、自分でわかっていました。メリーナイスだってトップジョッキーに乗り替わっても仕方がないところなのに、先生のおかげでずっと乗ってきて、ダービーにも出られる。ぼくにとっては最後のダービーだと思いました。橋本先生は騎手時代にダービーを二度勝っていますが、調教師になってからはない。ここは先生のためにもダービーを勝ちたいと、そう思っていたんです」

その後、根本・メリーナイスはセントライト記念の勝利を経て、クラシック三冠最終戦・菊花賞で単枠指定馬となり、1番人気に支持されたが、最外枠の18番枠だったのが影響し9着、年末のグランプリ・有馬記念では3番人気の支持を受けながら、スタート直後に落馬して競走中止という結果に終わった。なお、競馬を題材にした映画『優駿 ORACION』の撮影が当年のダービーより始まっていたことから、これに優勝したメリーナイスが主人公馬「オラシオン」に擬せられることになり[12]、根本もその主戦騎手・奈良五郎として映画に出演した[13]

1997年2月、調教師免許を取得し騎手を引退[14]。通算2633戦235勝[1]、うちGI競走3勝を含む重賞14勝。

翌1998年より美浦トレーニングセンターに厩舎を開業している。2007年には往年の騎手を集めて行われたエキシビション競走・ジョッキーマスターズにメリーナイスの勝負服色で出場。結果は最下位9着であったが、競走後には「思い出の勝負服を再び着られて嬉しかったです。風車ムチもできました」などと感想を述べた[15]。なお、この競走の実現には根本の尽力が大きかったという[16]。翌年行われた第2回競走には解説者として参加した[17]

2016年3月、16年ぶりのJRA女性騎手藤田菜七子が根本厩舎に所属したため厩舎所属騎手が3人となった。これはフリーになる騎手が多く出ている中で、厩舎所属騎手が少なくなっている状況および厩舎所属騎手は多くても2人までが一般的である近年では、3人およびそれ以上の騎手が厩舎に所属するのは極めて異例の部類となっている[18][19]。その後、2024年には同年に騎手免許を取得した長浜鴻緒が所属となっており、門下の丸山元気野中悠太郎、藤田菜七子も引き続き所属していることから、根本厩舎は所属騎手が4人の大所帯となっている。

根本は2016年の競馬界を盛り上げたことが高く評価され、弟子の藤田や歌手・馬主の北島三郎(大野商事代表取締役社長)らとともに、その枠を超えて話題を提供した競馬関係者に与えられる特別表彰の対象となり、12月21日に品川プリンスホテルで開催された有馬記念フェスティバルの席上において実施した記念品贈呈式に出席した[20][21]

人物 編集

騎手時代から明るい人柄で知られた。同期生の加藤、木藤と仲が良く「美浦のひょうきん族」とも呼ばれた[22]

騎手としては、ときに人気薄の馬を上位に導いてくる、俗にいう「穴騎手」であった。作家・競馬評論家高橋源一郎直子夫妻(当時)の周辺では「根本を軽んずる者は根本に泣く」「根本を重んずる者は根本に泣く」という格言が作られたという[23]

騎手成績 編集

1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率
平地 226 220 247 2589 .087 .172
障害 9 8 5 44 .205 .386
通算 235 228 252 2633 .089 .176
日付 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1977年3月5日 - ビゼンアカマツ 14頭 - 12着
初勝利 1977年3月19日 - エドリュウ - - 1着
重賞初騎乗 1977年6月5日 東京障害特別 フジノショウグン 8頭 3 2着
重賞初勝利 1979年4月8日 中山大障害(春) バローネターフ 8頭 1 1着
GI級初騎乗 1979年11月25日 天皇賞(秋) バローネターフ 13頭 13 11着
GI初勝利 1985年10月27日 天皇賞(秋) ギャロップダイナ 17頭 13 1着

重賞勝利馬 編集

  1. 出典:『日本調教師会50年史』資料編・重賞競走成績
  2. 括弧内は根本騎乗時の優勝重賞競走。太字はGI競走。

GI競走優勝馬

ほか重賞競走優勝馬

調教師成績 編集

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初出走 1998年3月1日 1回中京2日5R 5歳上500万下 ミランフォルテ 15頭 14 11着
初勝利 1998年6月27日 1回函館5日4R 4歳未勝利 ノアウィッシュ 16頭 5 1着
重賞初出走 1999年3月6日 1回阪神3日11R チューリップ賞 ワンダーガール 14頭 6 7着
GI初出走 1999年4月11日 2回阪神6日11R 桜花賞 ワンダーガール 18頭 11 16着

主な厩舎所属者 編集

※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 日本中央競馬会公式サイト・調教師名鑑「根本康弘」
  2. ^ a b c d 鶴木(1991)pp.123-128
  3. ^ 「五輪から五輪まで、切りがいい」…都電荒川線の停留場前の古書店が来年閉店へ - 読売新聞オンライン、2020年12月7日15時配信
  4. ^ a b c 『競馬コーフン読本』pp.109-118
  5. ^ a b 木村幸治『調教師物語』p.684
  6. ^ 後に木藤は調教助手として根本の下で働くこととなり、同厩舎に所属することとなる。
  7. ^ 『競馬コーフン読本』p.121
  8. ^ a b c 『優駿』1985年12月号、pp.124-126
  9. ^ 小林(2000)p.161
  10. ^ 『優駿』1987年7月号、pp.130-131
  11. ^ 『優駿』2000年6月号、p.92
  12. ^ 『優駿』1988年3月号、pp.55-56
  13. ^ 競馬を愛した人々 #18宮本輝”. 日本中央競馬会 (2012年11月24日). 2016年2月20日閲覧。
  14. ^ 『優駿』1997年4月号、p.67
  15. ^ 第1回ジョッキーマスターズ”. 日本中央競馬会. 2016年2月20日閲覧。
  16. ^ ジョッキーマスターズ出場者・根本康広調教師”. 日本中央競馬会. 2016年2月20日閲覧。
  17. ^ 【ジョッキーM】(東京)〜河内洋騎手が2年連続勝利”. 競馬実況web (2008年11月9日). 2016年2月20日閲覧。
  18. ^ 藤田菜七子を預かった根本調教師の“ホースマンとしての意地”(東スポWeb 2016年3月10日21時1分発信。2016年3月11日閲覧)
  19. ^ a b c d e 優駿2016年8月号 YUSHUNノンフィクション -3人のジョッキーを抱えて 人も育てる根本厩舎の志
  20. ^ 競馬界の盛り上げを評価してJRAが藤田菜七子を特別表彰 - 競馬ニュース.TV、2016年12月26日閲覧
  21. ^ 藤田菜七子、貴重なスーツ姿 「来年は結果にこだわって騎乗したい」ページ内写真および写真説明 - ZAKZAK、2016年12月26日閲覧
  22. ^ 鶴木(1991)p.103
  23. ^ 高橋(1991)pp.130-131
  24. ^ 『優駿』2014年11月号、143頁。 

参考文献 編集

  • 鶴木遵『スーパージョッキー - 格闘する表現者たち』(コスモヒルズ、1991年)ISBN 978-4877038069
  • 高橋直子『競馬の国のアリス』(筑摩書房、1991年)ISBN 978-4480812957
  • 小林常浩『騎手という稼業―勝負と仁義のはざまで』(アールズ出版、2000年)
  • 『競馬コーフン読本』(宝島社、1988年)ISBN 978-4796690744
    • 鶴木遵「ジョッキー座談会・GIトリオが行く」
  • 『優駿』 2016年8月号(日本中央競馬会、2016年)「YUSHUNノンフィクション -3人のジョッキーを抱えて 人も育てる根本厩舎の志」

関連項目 編集