水無瀬親具

安土桃山時代の貴族。権大納言・高倉永家の次男。正四位下、右兵衛督、左近衛中将

水無瀬 親具(みなせ ちかとも)は、安土桃山時代貴族権大納言高倉永家の次男。堀河家の祖。

 
水無瀬親具
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文21年(1552年
死没 寛永8年12月24日1632年2月14日
改名 親具
別名 堀河親具
号:鉄斎、一斎
戒名 法名:親留
官位 正四位下右兵衛督
主君 後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇
氏族 高倉家水無瀬家堀河家
父母 父:高倉永家、養父:水無瀬兼成
兄弟 増鎮、貞海、高倉永相親具ほか
中條出羽守娘
堀河康胤樋口信孝、娘
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経歴 編集

権大納言高倉永家の四男として生まれるが、権中納言水無瀬兼成の養嗣子となる。

天文23年(1554年)、叙爵し、永禄6年(1563年元服して従五位上・侍従に叙任される。

永禄10年(1567年)、正五位下左近衛少将に叙任された。

元亀2年(1571年)、兼成が実子・氏成を儲けたために家中で不和が生じ、天正4年(1576年)に織田信長の調停を受けている。

天正3年(1575年)、左近衛中将、天正8年(1580年右兵衛督と武官を歴任し、天正9年(1581年)に正四位下に至った。

天正10年(1582年)、山崎の戦い後の混乱に乗じ、安土城下に出仕して、織田信孝に接近する。これに乗じて、兼成が安土へ送った家人2名と中間1名を殺害し、さらに兼成を宿所で襲撃した。兼成派の家人による親具の毒殺計画が発覚したためという。これらの狼藉で勘を蒙り、兼成との対立もますます深刻化したため、信孝を頼って美濃国へと下った。

天正13年(1585年)、親具は帰洛し、徳川家康の庇護を得て堀河家を立てた。

文禄4年(1595年)、氏成を立てるために再び自身の毒殺をはかった家人を殺害し、これを家康に訴えて出家し伏見に移る。

寛永8年(1632年)12月24日、卒去享年80。

人物 編集

養父と同じく能書家としても知られ、関白豊臣秀次から将棋の駒の作成を依頼されたという(水無瀬駒)。

官歴 編集

諸家伝』による。

系譜 編集

系図纂要』による。

  • 妻:中條出羽守娘
  • 生母不詳の子女
    • 男子:僧 - 随心院家宝幢院
    • 女子:将軍家女房

脚注 編集

  1. ^ 『系図纂要』

参考文献 編集

先代
 - 
堀河家
初代
次代
堀河康胤