長崎は今日も雨だった

日本の内山田洋とクール・ファイブの楽曲

長崎は今日も雨だった」(ながさきはきょうもあめだった)は、1969年2月1日に発売された内山田洋とクール・ファイブのメジャーデビュー曲にして、最大のヒット曲。グループ脱退後、ソロ歌手となった前川清の代表曲でもある。

長崎は今日も雨だった
内山田洋とクール・ファイブシングル
B面 涙こがした恋
リリース
録音 ビクター築地スタジオ[1]
ジャンル ムード歌謡
時間
レーベル 日本ビクターRCAレーベル[注 1]
作詞・作曲 永田貴子(作詞)
彩木雅夫(作曲)
ゴールドディスク
チャート最高順位
  • 週間2位 (オリコン)
  • 1969年度年間8位(オリコン)
  • 内山田洋とクール・ファイブ シングル 年表
    長崎は今日も雨だった
    1969年
    わかれ雨
    (1969年)
    テンプレートを表示

    解説 編集

    内山田洋とクール・ファイブは長崎市内のグランドキャバレー『銀馬車』の専属バンドで、ラテンジャズなど幅広いレパートリーを有していた。一方、競合店『十二番館』の専属バンドは中井昭・高橋勝とコロラティーノで、「思案橋ブルース」で1年早く世に出た。

    1968年佐世保ナイトクラブ歌手として頭角を現わした前川清をリードボーカルに迎え、チャーリー石黒の推薦で日本ビクターのプロモーションで売り出す計画が始動した。自主制作盤「涙こがした恋」に続くメジャーデビュー曲には、前川と同じ佐世保でギター流しをしていた尾形義康の持ち歌で、地元民放局や有線放送でヒット中だった「西海ブルース」が当初予定されていたが、プレス直前に尾形が翻意し破談になったため、『銀馬車』の音楽監督だった吉田孝穂が自ら急造した詞を、当時北海道放送でディレクターを務めていた彩木雅夫に手渡して曲が完成した。吉田による原詞には「雨」は使われておらず、完成度も低かったため彩木が大部分手直しをした。メロディも石原裕次郎の「夜霧よ今夜も有難う」にヒントを得て適当に作ったと後に証言している[2]

    お蔵入りした幻のデビュー曲「西海ブルース」は、内山田洋とクール・ファイブが大御所に成長した1977年、歌詞を吉田が補作した上で改めて吹き込まれている。

    発売約4ヶ月後にオリコンBEST10入り。森進一の「港町ブルース」(年間第2位)や、森山良子の「禁じられた恋」(年間第6位)に阻まれて2位止まりとなるが、年間売上第8位のロングセラーになった。同年11月に発売されたアルバム『長崎は今日も雨だった』も年間30万枚を超える大ヒットとなったが、最高位は2位だった。

    累計売上は約150万枚に達するミリオンセラーになった[3][4]

    この曲のヒットで同年の第11回日本レコード大賞新人賞を受賞、「第20回NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、クール・ファイブは一躍全国区に名乗りを上げた。

    紅白では他にも、前川のソロとして2000年の「第51回NHK紅白歌合戦」と2006年の「第57回NHK紅白歌合戦」でも歌唱されている。2006年・第57回は前川のソロとしての出場ではあるものの、その年亡くなった内山田への追悼を込め、クール・ファイブのオリジナルメンバーが20年振りに揃い一夜限り(当初)の再結成を果たし、コーラスを務めた。当初は一夜限りの予定だったが、以降も前川清&クール・ファイブ名義で事実上再結成され、グループ活動を再開した。

    長崎の女」(春日八郎1963年)、「長崎ブルース」(青江三奈、1968年)、「思案橋ブルース」(中井昭・高橋勝とコロラティーノ、1968年)、「長崎は今日も雨だった」(1969年)、「長崎の夜はむらさき」(瀬川瑛子1970年)と、長崎県ご当地ソングに大ヒット作が続いた事から、全国的な長崎ブームを巻き起こし観光面でも大きく貢献した。

    その他 編集

    収録曲 編集

    1. 長崎は今日も雨だった [04:03]
      作詞:永田貴子/作曲:彩木雅夫
    2. 涙こがした恋 [03:34]
      作詞:中山淳太郎村上千秋/作曲:城美好

    カバー 編集

    脚注 編集

    注釈 編集

    1. ^ 資本関係の変化により、現在はソニー・ミュージックダイレクト(SMDR GT Musicレーベル)から販売。

    出典 編集

    関連項目 編集

    外部リンク 編集