アッシュール・ニラリ5世

アッシュール・ニラリ5世Ashur nirari V、在位:紀元前754年 - 紀元前745年[1])は、新アッシリア王国時代のアッシリアの王である。中央政府の権力が弱まる中即位し、また、在位中に多くの反乱が発生するなどしたため、大きな業績は少ない。

アッシュール・ニラリ5世
アッシリア
在位 紀元前754年 - 紀元前745年

死去 紀元前745年
父親 アダド・ニラリ3世
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来歴編集

アダド・ニラリ3世の息子として生まれた[1]。兄王アッシュール・ダン3世の後を継いで紀元前754年頃に即位したが、当時のアッシリアは地方長官の権限が強まり半独立傾向を示した上に、中央政府では宦官の勢力が拡大し、更に将軍[2]シャムシ・イル英語版が影響力を振るっており、アッシュール・ニラリ5世の権限は非常に限られていた。

紀元前753年頃、アルパドに遠征を行って[3]、アルパド王マティールを服属させる事に成功したが、その後行われたウラルトゥへの遠征はウラルトゥ王サルドゥリ2世によって破られ失敗した[4]

リンムによる年誌によれば、在位中に王は4年連続で「王は国に留まる」と記述され、軍事遠征を行っていない。通例、アッシリア王は毎年のように遠征を行っており、この言葉は記録の残る紀元前858年から紀元前699年までの間で15回しか使われていない[3]。このことは王権あるいは王個人に何らかの深刻な弱さがあったことを示している。

その後、紀元前748年とその翌年に行われたナムリへの遠征の後で5度目の「王は国に留まる」が記録される。その翌年、紀元前745年にカルフ(ニムルド)での反乱が記録されている[3]

そこで何らかの異変が発生したと見られ、王位はティグラト・ピレセル3世によって奪われ、アッシュール・ニラリ5世は恐らくこの時に死亡した。ティグラト・ピレセル3世とアッシュール・ニラリ5世の関係は明らかではない。ある説によればティグラト・ピレセル3世はアッシュール・ニラリ5世の息子、又は兄弟であるという。また別の説によれば、ティグラト・ピレセル3世は王族では無い簒奪者であったという。

どちらにせよアッシュール・ニラリ5世に関してティグラト・ピレセル3世はその王碑文で全く触れておらず、政治的に敵対関係にあった事が推測される。

脚注編集

  1. ^ a b The Assyrian King List”. Livius.org (2017年7月26日). 2019年10月27日閲覧。
    (『アッシリア王のリスト』(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より))
  2. ^ タルタン。「総司令」または「首相」に相当する語。アッシリア軍の本来の総司令は王なのでナンバーツーに相当する地位だが、このときのように役職者の威信が高くなりすぎると王権が圧迫される場合もあった。
  3. ^ a b c Limmu List (858-699 BCE)”. Livius.org (2020年9月24日). 2020年10月16日閲覧。
    (リンム一覧(紀元前858~669年)(オランダの歴史学者ヨナ・レンダリングが開設するサイト「Livius.org」より)
  4. ^ Stanley Arthur Cook; Martin Percival Charlesworth; John Bagnell Bury; John Bernard Bury (1924) (英語). The Cambridge Ancient History. Cambridge University Press. p. 277. https://books.google.co.jp/books?id=vXljf8JqmkoC&pg=PA277&dq=Ashur-nirari+V&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjbhI2btrzsAhWJFogKHay3AL8Q6AEwBHoECAcQAg#v=onepage&q=Ashur-nirari%20V&f=false 2020年10月18日閲覧。 
    (『ケンブリッジ古代史』(初版)(編:スタンリー・アーサー・クック、マーティン・チャールズワース、ジョン・バグネル・ベリー、ジョン・バーナード・ベリー、1924年、ケンブリッジ大学出版))


先代:
アッシュール・ダン3世
新アッシリア王
前754年 - 前745年
次代:
ティグラト・ピレセル3世