アダド・ニラリ3世

アダド・ニラリ3世Adad-nirari IIIAdad-narariとも。在位:前811年-前783年)はアッシリアの王

アダド・ニラリ3世
アッシリア王
Adad-Nirari stela.jpg
1967年に発見されたテル・アル・リマーの石碑。アダド・ニラリ3世による西方での遠征を記念している[1]
在位 前811年-前783年

子女 アッシュール・ニラリ5世
シャルマネセル4世
アッシュール・ダン3世
ティグラト・ピレセル3世
父親 シャムシ・アダド5世
母親 サンムラマート
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家族編集

アダド・ニラリ3世はシャムシ・アダド5世の息子であり後継者であった。即位後最初の5年間の間、母親のサンムラマート[2]が極めて大きな影響力を持っていたことから、アダド・ニラリ3世は即位の時にはかなり若かったと思われる。サンムラマートが振るった影響力はセミラミスの伝説を生み出した[3]

サンムラマートは摂政として行動したという見解は広く退けられているが、この時代の彼女の影響力は巨大なものであった[4]

アダド・ニラリ3世はアッシュール・ニラリ5世シャルマネセル4世、そしてアッシュール・ダン3世の父親である。ティグラト・ピレセル3世は自らをアダド・ニラリ3世の息子であると王碑文において描写しているが、これが真実であるかどうかは不明瞭である。

来歴編集

 
ホジャリ英語版で発見された、アダド・ニラリ3世の名前があるアゲイトのビーズ。アゼルバイジャン国立博物館英語版(マンナエ時代)収蔵

アダド・ニラリ3世の若さと、彼の父親がその治世初期に直面していた権力闘争はアッシリアのメソポタミアに対する支配に深刻な弱体化をもたらしており、多数の将軍、総督、地方統治者の野心を刺激した。

 
サバ(Saba)で発見されたアッシリア王アダド・ニラリ3世の玄武岩性の石碑。トルコ、イスタンブル考古学博物館/古代オリエント美術館収蔵。

アダド・ニラリ3世の碑文によれば、彼は祖父のシャルマネセル3世の時代にアッシリアが享受していた力を取り戻すために複数の遠征を指揮した。

また、リンム年代記によれば、彼はその18年間の統治が終わる(前783年)まで、あらゆる邦楽に向けて遠征を行い、またニネヴェナブー神殿を建設した。彼は前796年にベン・ハダド3世英語版治世下のダマスカスを包囲した。これはダマスカスのアラム人王国英語版の衰退とヨアシュおよびヤロブアム2世治下のイスラエル王国の復活をもたらした(彼らはこの時アッシリア王に貢納を行った)。

アダド・ニラリ3世の精力的な行動にも関わらず、彼の死後、アッシリアは数十年にわたる長い弱体化の時代に入った。

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ テル・アル・リマーの石碑(識別番号 IM 70543)、イラク国立博物館収蔵
  2. ^ Georges Roux: Ancient Iraq, Penguin Books, London 1992, page 302.
    (『古代イラク』(ジョルジュ・ルー、ペンギンブックス(英国)、1992年)p.302より)
  3. ^ Reilly, Jim (2000) "Contestants for Syrian Domination" in "Chapter 3: Assyrian & Hittite Synchronisms" The Genealogy of Ashakhet Archived 2012-03-11 at the Wayback Machine.;
    ((おそらくは『Displaced Dynasties(王朝の年代表の誤り)』シリーズの第3巻)『アシャケトの系譜図』(著:ジム・レイリー)の『第3章:アッシリアとヒッタイトの年代表』(第4章とするサイトもある)に収録されている、『シリア地域の支配をめぐる争い』より。英語版脚注のアーカイブファイルまたは関連サイト『Displaced Dynasties』を参照のこと。)
  4. ^ Ancient Near Eastern History and Culture by William H. Stiebing Jr.
    (『古代近東の歴史と文化』(著:ウィリアム・スティービング(ニューオーリンズ大学名誉教授)、ロングマン、2008年))
先代:
シャムシ・アダド5世
アッシリア王
前811年-前783年
次代:
シャルマネセル4世