アドルフ・シュラーギントヴァイト

ドイツの博物学者、植物学者 (1829-1857)

アドルフ・シュラーギントヴァイト(Adolf Schlagintweit、1829年1月9日-1857年8月26日[1])は、ドイツ植物学者であり、中央アジア探検家である。

アドルフ・シュラーギントヴァイト
人物情報
生誕 (1829-01-09) 1829年1月9日
ドイツの旗 ドイツミュンヘン
死没 1857年8月26日(1857-08-26)(28歳没)
学問
研究分野 植物学
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経歴

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1829年、ミュンヘンで、五人兄弟の次男として生まれ、アドルフは、兄弟のヘルマンとともにアルプス山脈に関する本を1846年から1848年にかけて出版している。この業績により、1850年Untersuchungen über die physikalische Geographie der Alpenを出版して、評価されている。その後、もう一人の兄弟ロベルトも加わり、Neue Untersuchungen über die physikalische Geographie und Geologie der Alpen1854年に出版している。Landshut大学で医学博士号を取得。München大学で教授資格を取得。

1854年アレクサンダー・フォン・フンボルトの推薦を受けて、イギリス東インド会社は、ヘルマン、アドルフとロベルトに領域内の科学的調査、特に、地磁気についての研究を委託した。以後3年間、デカン高原から始まり、ヒマラヤ山脈カラコルム山脈崑崙山脈を踏破した。

1857年初頭に、ヘルマンとロベルトは旅行から戻ったが、アドルフはさらなる探検をおこなった。しかし、清朝のスパイではないかという嫌疑を受け、カシュガルの首長であるワリー・ハンによってその地で8月に裁判を受けることなく斬首刑に処せられた。[2] 彼の死の様子は1859年チョカン・ワリハーノフがカシュガルを訪るまで、ヨーロッパに知られることはなかった。ワリハーノフは、商人に変装して成功裏にロシア帝国に戻った。その時に、科学者の頭も持ち帰ったのである。 この事件は、ラドヤード・キプリングが書いた『王になろうとした男』の構想のもとになっている。

脚注

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  •   この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Schlagintweit". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.