アブラハム・カイパー

オランダ首相

アブラハム・カイパー(Abraham Kuyper、1837年10月29日 - 1920年11月8日)は、オランダ政治家ジャーナリスト神学者ヘルマン・バーフィンクと共にオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederland)の創立にかかわった一人であると共に、反革命党を設立し1901年から1905年までオランダ首相を務めた。コイペルと表記することもある。[1]

アブラハム・カイパー
Abraham Kuyper
生年月日 (1837-10-29) 1837年10月29日
出生地 オランダの旗 オランダマーススライス
没年月日 (1920-11-08) 1920年11月8日(83歳没)
死没地 オランダの旗 オランダ
出身校 ライデン大学
前職 神学者

在任期間 1901年8月1日 - 1905年8月17日
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生い立ち 編集

牧師の父と元教員の母の長男として生まれる。カイパーは1848年10月10日11時15分、10歳の時に回心を経験した。

学生時代 編集

1855年ライデン大学神学部に入学。ジャン・カルヴァンの神学とヨハネス・ア・ラスコーの比較教会論の学位論文を書いた。

当時の大学はリベラルのライデン学派の影響があった。子供時代の信仰を失い、信仰が後退していたカイパーは、講師のスホルテンが講師の中でキリストの体の復活を否定した時に歓迎したほどであったが、後に後悔した。

婚約者によって紹介されたシャーロット・M・ヨングの『レッドクリフの相続人』を読んで、子供のように泣いたカイパーは、再び神の御前にひざまずいて祈りを捧げることができるようになった。

ミニストリー 編集

ベーストで牧会をはじめる。貧しく平凡な労働者たちからカイパーは多くを学んだ。

1867年にユトレヒトに招聘された。1870年アムステルダムに招聘された。1874年に国会議員となる。1875年に招かれたドワイト・ムーディーイラ・サンキーロバート・ピアソル・スミスらの伝道集会に参加したとき、主の臨在の中にあった。

政治的にはフランス革命に由来する自由主義的潮流のみならず社会主義にも否定的で、1879年反革命党オランダ語版を結成し『我らが綱領』でキリスト教的価値観に基づく社会保守を掲げた。

ドレアンティー(嘆き、抗議)運動を導き、1886年、オランダ国教会改革派教会から分離し、オランダ改革派教会が形成された。

1898年10月10日からプリンストン神学校でストーン講義を行う。

 
ライデン自由大学から神学博士号 1862年
 
国会議員(1874年-1877年)1875年にドワイト・ムーディーイラ・サンキーらのリバイバル集会に参加[2]
 
自宅にて研究中 1901-1920

日本語訳された著書 編集

  • カルヴィニズム(上田丈夫訳 長崎書店 1932年)
  • カルヴィニズム(鈴木好行訳 聖山社 1988年)
  • 聖書の女性 旧約篇(新教出版社 1980年)
  • 聖書の女性 新約篇(新教出版社 1980年)

脚注 編集

  1. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』p.1322
  2. ^ 『近代主義とキリスト教』p.149

関連項目 編集

参考文献 編集