イェネイ・ミハーイ・ラヨシュ

この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、インド・ヨーロッパ語族風にミハーイ・ラヨシュ・イェネイと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名

イェネイ・ミハーイ・ラヨシュハンガリー語: Jeney Mihály Lajos1723年もしくは1724年 - 1797年)は、ハンガリー王国の軍人。他言語の表記として、フランス語: Louis Michel de Jeney英語: Mihaly Lajos Jeney等。七年戦争期の著作とオーストリア=ハンガリー帝国測量で知られ、少将にまで昇進した[1]

1759年に出版された、Le Partisan ou l'art de faire la petite-guerre avec succès selon le génie de nos joursの初版本

略歴編集

トランシルヴァニアの貴族の家系に生まれ、1737年から1739年までユサールとしてオスマン帝国とのオーストリア・ロシア・トルコ戦争に従軍した。戦後1754年までベルチェーニ・ラースローハンガリー語: Bercsényi Lászlóen:Ladislas Ignace de Bercheny)麾下のユサール連隊に所属、下士官から1747年には中尉に昇進している。1754年から1758年までは、フランス軍に属してライン川流域で地図製作者として活動した。1758年からの七年戦争では、プロイセン軍工兵大尉として所属した[1]。この時期に執筆されたのが、1759年にデン・ハーグで出版されたパルチザン戦術の教本として知られる「Le Partisan ou l'art de faire la petite-guerre avec succès selon le génie de nos jours」(The Partisan, or the Art of Making War in Detachment...、パルチザン、もしくは小部隊戦術の確立)である。

七年戦争終結後、1768年にオーストリア=ハンガリー帝国陸軍少佐に昇進、1769年より軍事測量、後に経済的な測量を兼ねる事業に従事した。1772年には測量主任となり、1775年には中佐、1783年には大佐に昇進。チロルを除いて測量が完了した1789年には、少将としてアルト=グラディスカ(Alt-Gradiska、後のスタラ・グラディシュカ)の要塞司令官となった。1797年、ハンガリーペーチにて没。オーストリア=ハンガリー帝国が測量により作成した地図3324枚中、トランシルヴァニアを中心とする930枚がイェネイ・ミハーイ・ラヨシュによるものであった[1]

著作編集

  • Le Partisan ou l'art de faire la petite-guerre avec succès selon le génie de nos jours
    • 英訳版のThe Partisan, or the Art of Making War in Detachment...等の訳本が存在する。

出典編集

  1. ^ a b c Annamária Jankó. “An outstanding person of the 1st military survey: Mihály Lajos Jeney (PDF)”. 2015年6月2日閲覧。

外部リンク編集