フランス王国

フランスの王国
フランス王国
Royaume de France
西フランク王国 987年 - 1792年 フランス立憲王国
フランスの国旗 フランスの国章
国旗 国章
国の標語: モンジョワ サンドニ!
(Montjoie Saint Denis!)
国歌: アンリ4世万歳
Vive Henri IV
神は偉大な王を守る
Grand Dieu Sauve le Roi
フランスの位置
公用語 フランス語ラテン語[注釈 1]
(その他、口語としてオイル語オック語ブルトン語などを使用)
首都 パリ(987年 - 1682年)
ヴェルサイユ(1682年 - 1789年)
パリ(1789年 - 1792年)
国王
987年 - 996年 ユーグ・カペー
カペー朝初代)
1328年 - 1350年フィリップ6世
ヴァロワ朝初代)
1589年 - 1610年アンリ4世
ブルボン朝初代)
1774年 - 1792年ルイ16世
(ブルボン朝第5代)
首席国務卿
1624年 - 1642年アルマン・ジャン・デュ・プレシー・ド・リシュリュー
1642年 - 1661年ジュール・マザラン
人口
1300年(推定)1,200万人
1500年(推定)1,130万人
変遷
成立 987年
フランス革命1789年
王政廃止(滅亡)1792年
通貨リーブルフラン

フランス王国(フランスおうこく、フランス語: Royaume de France)は、かつて存在したヨーロッパ王国である。

フランスの歴史
フランス国章
この記事はシリーズの一部です。
先史時代フランス語版英語版
年表

フランス ポータル
· ·

起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フラン王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。

これを前提とすると、1789年フランス革命まで800年間、さらに1848年オルレアン朝倒れて王政が廃止されるまで、第一共和政第一帝政期(1792年 - 1814年)を挟んで約840~860年間、存続したことになる[1]

歴史編集

カロリング朝編集

フランス王国は、かつては西フランク王国と呼ばれていた。現在では、カロリング朝時代の西フランク王国のみを指して西フランク王国と呼び、カペー朝以降の西フランク王国をフランス王国と呼び分けることが多い。カロリング朝の下における西フランク王国については、西フランク王国を参照[2]

カペー朝編集

 
家系図

カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク王ロベール1世ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーが西フランク王に選ばれ、カペー朝(987年 - 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが、フィリップ2世フィリップ4世の時代に王権を拡大させ、イングランドローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。1328年まで14代の王が続き、またブルボン朝に至るまでフランス王国の歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た[1]

ヴァロワ朝編集

カペー朝断絶後、カペー家の支流ヴァロワ家からフィリップが即位し、ヴァロワ朝(1328年 - 1589年)が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。後期にはイタリアへと領土的野心を向け、1494年からイタリア戦争を開始したが、ハプスブルク家によって挟撃され敗北した。1589年までの間に13代の王が続いた。なお、ルイ12世以降をヴァロワ=オルレアン朝フランソワ1世以降をヴァロワ=アングレーム朝とも呼ぶ。

ブルボン朝編集

 
ルイ14世 - 72年もの在位期間を有し、ギネス記録を保有している人物である[3]

ヴァロワ朝が断絶し、カペー家の別の支流ブルボン家アンリ4世がフランス王として即位したことでブルボン朝(1589年 - 1792年1814年 - 1830年)が成立した。ルイ14世の時代には領土拡大などの成果を上げたが、国民には重税を課しフランス革命を招いた。

フランス革命によってフランス王国が滅亡編集

ブルボン家はフランス革命で王位を追われた後、ナポレオン1世の失脚により王政復古を成し遂げたが、七月革命によって再度王位を追われた。

 
処刑されたルイ16世の生首を見て歓喜している国民と軍隊の人々。

なお、ルイ16世ギロチン処刑が実行され、ルイ16世の子女( マリー・テレーズルイ・ジョゼフルイ17世ソフィー)は監禁生活を送っていたため、子孫を残さなかった。その結果、長期に渡る王室の家系は完全に断絶してしまった[3]

オルレアン朝(復活王政)編集

七月革命により、新たにブルボン家の支流であるオルレアン家ルイ・フィリップが即位し、オルレアン朝(1830年 - 1848年)が成立した。ルイ・フィリップの王政は七月王政とも呼ばれる。ルイ・フィリップは内閣制度を導入して、立憲王政の成立やフランス経済の発展を目指した。

再び革命が起き、正式に滅亡編集

貧富の差の拡大などもあって国民の不満は爆発し、二月革命を引き起こした。この革命で第二共和政、次いで第二帝政が成立し、長きにわたったフランスの王政も終焉[4]し、フランス王国ならび、フランスの君主制は完全に滅亡する事になった。

サリカ法編集

フランス王国においては、他家(特にプランタジネット家)の干渉を恐れて、サリカ法を根拠として女系を含む女性の王位継承権を廃止したため、フランス歴代国王はすべてユーグ・カペーの男系子孫の男王である。ヨーロッパでは一般に、女系での王位継承や女王が珍しくなく、フランス王国の特徴をなしている。

フランスの王党派は今なお、王政復古への望みを繋いでいるが、ブルボン家の支流のうちオルレアン家を支持するオルレアニスト(オルレアン派)と、現在ではスペイン・ブルボン家を支持するレジティミスト(正統派)の2派が対立している。

領土編集

 
分裂後の青い部分が王国領

フランス王国は領土の拡張が激しい時代であった。 13世紀以前のフランス王国のごく一部だけがフランク王の支配下にあったとされている。

 
1030年のフランス王国の領土
 
1180年と1223年における領土の変化
 
1447年における領土
 
1789年における領土

北部では、ノルマンディー公国の形成につながる海賊の侵入があった。西部では、12世紀にイングランド王国を含むアンジュー帝国を設立したことにより、アンジュー帝国の君主はヨーロッパで最も強力な権力者としての地位を確立していた。その結果、アンジュー帝国とフランスのカペー家王の間のフランスの分割は百年戦争につながり、フランスは15世紀半ばまでにのみこれらの領土の支配権を取り戻した。

国民的宗教編集

 
ノートルダム大聖堂はフランス王国の宗教を象徴する建物である。

フランス王国の宗教は時代によって、入れ替わったとされている。建国以来、長期間信仰されたのはローマカトリックが主流な宗教であった。987年から1682年3月19日、1801年7月15日とされている。

一部の国民はガリカニスム教会を1682年から1794年3月まで、その後は聖職者民事基本法の宗教は1791年から1801年までとされる。その後は、ユダヤ教などが信仰されたとされる。

戴冠編集

フランス王の戴冠は代々ランスで行われた。ランスはフランククロヴィスの洗礼の地であり、フランス王はその王権の根拠を、ランスに保管されている聖油による聖別を受けてクロヴィスの後継者となることに求めたためである。

その背景には、中世ドイツにおいて東フランク王国オットー大帝ローマ皇帝として戴冠して以降、西フランク王(フランス王)がローマ教皇にローマ皇帝冠を受けてローマ皇帝としてカール大帝の後継者となるという方法が使えなくなったという事情がある。百年戦争の混乱の中でシャルル7世は、イングランドからランスを奪還するまで戴冠できなかった。

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 1539年まで。それ以降はフランス語のみ単一の公用語とされた。

出典編集

  1. ^ a b William W. Kibler (1995). Medieval France: An Encyclopedia. Taylor & Francis. p. 879. https://books.google.com/books?id=MQoKeohhNkMC&pg=PA879 
  2. ^ 5分でわかる、「フランク王国の分裂」の映像授業 | 映像授業のTry IT (トライイット)”. www.try-it.jp. 2021年8月9日閲覧。
  3. ^ a b フランス王家のひみつ なぜ名前が「ルイ」ばかりなのか?(佐藤 賢一)”. 現代新書 | 講談社. 2021年8月9日閲覧。
  4. ^ フランス共和国|東京都立図書館” (日本語). 東京都立図書館. 2021年8月9日閲覧。

関連項目編集