イダ・ヨハンナ・ヴィフリ(Ida Johanna Vihuri, 1882年8月18日 - 1929年9月7日)は、フィンランド政治家フィンランド社会民主党所属の国会議員(1922年から1929年まで)。

1929年

生涯と経歴

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1882年8月18日、レンパーラ(英語)の農家の家に生まれる。13歳のときからタンペレにてフィンレイソン(英語)社の綿花工場で働き、1905年のゼネストを経て地元の労働組合支部に入り、工場の主要な組合員になった[1]

1918年のフィンランド内戦では、ヴィフリは赤軍派に属し、タンペレの戦い(英語)の後捕虜となり、終身刑を言い渡されたが1920年に恩赦を受けた[1]。1922年の国会議員選挙(英語)で当選し、国会議員に選出された[2]

1929年9月7日、クル(英語)で開催される党大会に向かう途中、搭乗していたSSクル号(英語)ネシ湖で沈没した事故に巻き込まれ42歳で死去し[2]、カレヴァンカンガス墓地(英語)に埋葬された[3]

著名な家族

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姉は同じく政治家のKaisa Hiilelä(フィンランド語)

2人目の甥は文部大臣を務めたレイノ・オイッティネン

脚注

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  1. ^ a b Ripatti, Viljo (1992). R. H. Oittinen: työväen sivistäjästä koulun uudistajaksi. Helsinki: Tammi. p. 8–11. ISBN 951-31003-4-0 
  2. ^ a b “Kaksi sosialidemokraattista toimitsijaa [Two Social Democratic Officials”] (フィンランド語), Uusi Aika (108): pp. 3, (10 September 1929), https://digi.kansalliskirjasto.fi/sanomalehti/binding/1767576?page=3 13 August 2020閲覧。 
  3. ^ “Ida Vihurin ja K. I. Suotaalan hautajaistilaisuus Tampereella eilen mieliinpainuva surujuhla [Ida Vihuri and K. I. Suontaala Funeral in Tampere a Memorable Ceremony”] (フィンランド語), Kansan Lehti (220): pp. 1, (23 September 1929), https://digi.kansalliskirjasto.fi/sanomalehti/binding/1756030?page=1 13 August 2020閲覧。 

外部リンク

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  • Ida Vihuri Parliament of Finland.(フィンランド語)