エイサ・ユスプ・アルプテキン

エイサ・ユスプ・アルプテキンウイグル語: Eysa Yusup Alptekin‎、中国語: 艾薩·玉素甫·阿布甫泰肯拼音: Àishā Yóushūfū Ābùtàijīnトルコ語: İsa Yusuf Alptekin1901年 - 1995年)は、中華民国期のウイグル人政治家、ウイグル独立運動活動家。

エイサ・ユスプ・アルプテキン
プロフィール
出生: 1901年
死去: 1995年12月17日
トルコの旗 トルコ イスタンブール
出身地: カシュガルイェンギサール
職業: 政治家
各種表記
繁体字 艾薩·玉素甫·阿布甫泰肯
拼音 Àishā Yóushūfū Ābùtàijīn
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略歴 編集

1901年カシュガルイェンギサールにて生まれる。新疆省政府に任官後、1926年には、ソ連中央アジアアンディジャンに領事館職員として派遣された。

1931年ハミホージャ・ニヤズらが反乱を起こし、新疆省政府主席の金樹仁が失脚すると、南京中国国民党政府に接近して、金樹仁の新疆での暴政を告発した。南京では、中国語雑誌『辺鐸』『天山』を出版して、新疆省の諸問題について宣伝を行い、新疆における自治権の拡大を主張した。1936年には、中華民国の国会議員に選出された。

1946年東トルキスタン共和国政府と、中国国民党との交渉の結果、両者の合同による新疆省連合政府が成立すると、アルプテキンは国民党側の代表者として新政権に参画。1947年には、秘書長に就任した。

1949年国共内戦が終結し、省政府主席ブルハン・シャヒディが中国共産党政権への合流を決定すると、インドカシミールに亡命した。

1954年には、トルコに渡り、イスタンブールにて「東トルキスタン亡命者協会Doğu Türkistan Göçmenler Cemiyeti)」を設立し、雑誌『東トルキスタンの声(ウイグル語:Shärqiy Türkistan awazi、トルコ語:Doğu Türkistan Sesi)』を出版。東トルキスタン問題の存在を国際世論に訴えることに努めた。

1995年12月17日にトルコにて死去。

息子のエルキン・アルプテキンもウイグル独立運動の活動家として著名。

参考文献 編集

  • 新免康「アルプテキン」『中央ユーラシアを知る事典』平凡社 2005年 (ISBN 978-4582126365)