エイノ・アンテロ・ルーッカネン

エイノ・アンテロ・ルーッカネンEino Antero Luukkanen1909年6月4日 - 1964年4月10日)は、フィンランド空軍軍人エース・パイロットマンネルヘイム十字勲章受章。愛称は「エイッカ」。ソビエト連邦との冬戦争勃発時には中隊長、継続戦争中に戦隊長になり、部隊を率いるとともに、自らも56機の確認戦果を上げた。これはフィンランド空軍第3位のスコアである。また、出撃回数441回はフィンランド空軍戦闘機操縦者中、最多である。

エイノ・ルーッカネン

戦歴 編集

1935年3月、中尉に任官。

1939年11月の冬戦争勃発時には、フォッカー D.XXI装備の第24戦隊の第3中隊長を務める。開戦2日目の12月1日、ソ連のツポレフSB爆撃機を撃墜、初戦果とする。

12月末からは、第3中隊を中核とした分遣隊「L戦闘機隊」(Lはルーッカネンの頭文字)を指揮。1940年2月15日、大尉に昇進。冬戦争中の確認撃墜数は2.5機(すべてフォッカー D.XXI)。

冬戦争終結後、新鋭機F2A「バッファロー」のスウェーデンからの空輸を担当。第24戦隊はこの機に機種転換し、継続戦争を迎える。

1941年6月の継続戦争勃発時には同戦隊第1中隊長および先任航空指揮官。9月より再び独立派遣部隊「L戦闘機隊」を組織し指揮する。バッファローでの確認撃墜数は14.5機。離任直前、主に愛機としていたバッファローBW-393号機の垂直安定板には、この時までの撃墜数を示すものとして、祝杯をあげた17枚のビールのラベルが貼られていた[1]。なお、BW-393号機はその後、中隊の指揮を引き継いだハンス・ウィンドが主に搭乗してスコアを重ね、最終的には41機と、フィンランド空軍のバッファローのうち(おそらく世界のバッファローの中でも)最高の機体別撃墜数をもつ殊勲機となった。

1942年11月、少佐に昇進するとともに、第30戦隊に戦隊長として転属。同戦隊は、この頃にはすでに旧式化していたフォッカー D.XXIと、ソ連からの鹵獲機ポリカルポフI-153「チャイカ」装備の偵察部隊であった。

1943年3月、ドイツから待望の新鋭機メッサーシュミットBf109Gがもたらされると、これを装備したエリート部隊・第34戦隊が編成される。本来、これを指揮するはずだったエリッキ・オラヴィ・エーンルート少佐がVL ピリ練習機の事故で急逝したため、ルーッカネンがその戦隊長となる。以後、1944年9月の停戦まで同部隊を指揮した。1944年6月18日、2級マンネルハイム十字章受章。同年8月5日のYak-9がルーッカネンの最後の戦果であった。メッサーシュミットBf109での確認撃墜数は39機[2]

その後、第34戦隊が第33戦隊と改名された後も戦隊長に留まり、中佐に昇進後は第2飛行団の指揮官となった。1951年11月、退役。

著書 編集

  • "Hävittäjälentäjänä kahdessa sodassa"、邦訳『フィンランド上空の戦闘機』 訳:梅本弘 大日本絵画

脚注 編集

  1. ^ うち、BW-393号機でルーッカネンがあげたスコアは6機。なお、ルーッカネンは機体に個人マークの類を描くことは好まなかったと言われ、このビールラベルの撃墜マークも、離任前の記念撮影用であった可能性がある。ビールの銘柄は「LAHDEN ERIKOIS Olut I」。
  2. ^ 初期はBf109G-2・MT-201号機、1944年4月にG-6型に機種転換してからはMT-417号機、次いでMT-415号機を主な乗機とした。それぞれの機での撃墜数は、MT-201:9機、MT-417:8機、MT-415:16機、その他の機番計:6機。

参考書籍 編集

  • エイノ・アンテロ・ルーッカネン(訳:梅本弘)『フィンランド上空の戦闘機』、大日本絵画
  • カリ・ステンマン、カレヴォ・ケスキネン(訳:梅本弘)『第二次大戦のフィンランド空軍エース』、オスプレイ・ミリタリー・シリーズ、大日本絵画
  • 中山雅洋ほか 『第2次大戦 世界の戦闘機隊』、酣燈社
  • Kalevi Keskinen, Kari Stenman, Klaus Niska, "FINNISH FIGHTER ACES", Apali Oy, 1994
  • Ossi Juntunen, "Eikka" Luukkanen - The Youngest Squadron Leader("Finnish Fighter Ace") http://www.saunalahti.fi/~fta/finace03.htm