エフベルト・ファン・デル・プール

エフベルト・ファン・デル・プール(Egbert Lievensz. van der Poel、 1621年3月9日(洗礼日) - 1664年7月19日(埋葬日))は、オランダの画家である。風俗画や同時代の出来事を描いた作品を残した。1654年10月12日にデルフトの火薬保管庫の火薬が爆発し、少なくとも500戸の家屋が修復不能な被害を受け、数百人の市民が亡くなった「デルフトの雷鳴(Delftse donderslag)」と呼ばれる爆発事故後の街を描いたことで知られている。

エフベルト・ファン・デル・プール
Egbert van der Poel
ファン・デル・プールが描いた爆発事故後のデルフト
誕生日 1621年3月9日(洗礼日)
出生地 デルフト
死没年 1664年7月19日(埋葬日)
死没地 ロッテルダム
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略歴

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デルフトで金細工師の息子に生まれた。弟に風景画家となったアドリアーン・ファン・デル・プール(Adriaen Lievensz. van der Poel: 1628–c.1671)がいた。ファン・デル・プールの修行時代のことは殆ど知られていないがハールレムの画家、エサイアス・ファン・デ・フェルデ(1587–1630)やアールト・ファン・デル・ネール(c.1603-1677)の作品から影響を受けた可能性がある。オランダ美術史研究所はデルフトの画家、コルネリス・サフトレーフェン(c.1607–1681)の弟子であったとしている[1]。1650年にデルフトの聖ルカ組合のメンバーとして登録された[2] 。1651年にデルフトで結婚し、デルフトで洗礼を受けた3人の娘が生まれた。一家はデルフトのドーレン通り(Doelenstraat)に住んでいたが、1654年10月12日の10時ころ、住まいから遠くないデルフトの火薬庫で火薬の検査をしていた役人の持ち込んだランプの火が火薬に引火して大爆発を起こし、数百人の死者(死者は1200人とも)のでた大災害になった。ファン・デル・プールはこの事故の後のデルフトの街を描いた作品を残したことで知られている。災害の2日後に、ファン・デル・プールの娘の一人の葬儀が行われていて、確証はないが娘が事故の犠牲になったと推定されている。事故の後、一家はロッテルダムに移っている。ロッテルダムで息子の洗礼が行われている。9年後の1664年ロッテルダムで亡くなった。

デルフトの爆発事故後の街を描いた何点かの作品を残した他、風俗画を描き、夜間の火事を描いた作品もある。

作品

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参考文献

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  1. ^ RKD entry for Egbert Lievensz van der Poel
  2. ^ Champlin, John Denison; Perkins, Charles Callahan (1887). Cyclopedia of Painters and Paintings. Vol. 3.

外部リンク

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