カール・バルス
カール・バルス(Carl Barus、1856年2月19日 - 1935年9月20日)はアメリカ合衆国の物理学者。小説家カート・ヴォネガットの母方の大叔父にあたる。
カール・バルス(Carl Barus) | |
---|---|
カール・バルス(1913年) | |
生誕 |
1856年2月19日 アメリカ合衆国シンシナティ |
死没 |
1935年9月20日(79歳) アメリカ合衆国 ロードアイランド州プロビデンス |
国籍 | アメリカ合衆国 |
研究分野 | 物理学 |
出身校 | ヴュルツブルク大学 |
博士課程 指導教員 | フリードリッヒ・コールラウシュ |
配偶者 | アニー・ガートルード・ハウズ |
署名 | |
プロジェクト:人物伝 |
生い立ち
編集オハイオ州シンシナティ生まれ。ドイツ系移民で音楽家のカール・バルス・シニアとソフィア(旧姓メルマン))の息子で、1874年にウィリアム・ハワード・タフトとともにウッドワード高校を卒業。
経歴
編集鉱山工学を2年間学んだ後、ドイツのヴュルツブルクに移り、フリードリッヒ・コールラウシュの下で物理学を学び、1879年に首席で卒業した。
1887年1月20日にアニー・ガートルード・ハウズと結婚。マクスウェルとデボラの2人の子供がいた。1892年、アメリカでアメリカ哲学協会の会員となり、米国科学アカデミーの最年少会員となる。
1903年、ブラウン大学大学院学部長に任命され、ウィルソン・ホールのオフィスで指揮を執った。1926年に引退するまで、彼は大学院学部長を務めた。1926年の退任までに、同大学院は大学内の一学部となるほどの規模に成長したが、これは彼の多くの貢献によるものであった。1905年にはブリュッセルで開催された第1回国際放射線・電気学会議(First International Congress of Radiology and Electricity)に参加。同年、エアランゲンのPhysikalisch-Medizinische Sozietätのメンバーとなる。また同年、アメリカ物理学会の第4代会長となり、1906年にはワシントン州のカーネギー研究所の物理学諮問委員会のメンバーとなった[1]。
脚注・参考文献
編集外部リンク
編集- Biographical Memoir of Carl Barus 1856-1935 (1941) by Robert Bruce Lindsay, presented to the National Academy of Sciences at the Autumn meeting.
- Biography from Brown University
- Works by or about Carl Barus at Internet Archive
- Moellmann family papers, Rare Books and Manuscripts, Indiana State Library
- Carl Barus Papers from Friends Historical Library of Swarthmore College