ギー4世 (サン=ポル伯)
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ギー4世(フランス語:Guy IV, 1254年ごろ - 1317年4月6日)は、サン=ポル伯(在位:1292年 - 1317年)。
ギー4世 Guy IV | |
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サン=ポル伯 | |
在位 | 1292年 - 1317年 |
出生 |
1254年ごろ |
死去 |
1317年4月6日 |
配偶者 | マリー・ド・ブルターニュ |
子女 | 本文参照 |
家名 | シャティヨン家 |
父親 | サン=ポル伯ギー3世 |
母親 | マティルド・ド・ブラバン |
生涯
編集ギー4世はサン=ポル伯ギー3世とマティルド・ド・ブラバンの息子である。
1292年、ブルターニュ公ジャン2世とベアトリス・オブ・イングランドの娘マリーと結婚した[1]。2人の間には8子が生まれた。
- ジャン(1344年没) - サン=ポル伯
- ジャック(1365年没) - アンクル領主
- マオー(1293年 - 1358年) - 1308年にヴァロワ伯シャルルと結婚[2]
- ベアトリス - 1315年にクレヴクール領主ジャン・ド・ダンピエール(フランドル伯ギーの孫)と結婚[3]
- イザボー(1360年5月19日没) - 1311年5月にクシー領主ギヨーム1世と結婚
- マリー(1303年頃 - 1377年)[1] - 2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランスと結婚[4]
- エレオノール - グラヴィル領主ジャン3世・マレと結婚
- ジャンヌ - メジー領主ミユ・ド・ノワイエと結婚
ギー4世はフランス王家の執事長(Grand bouteiller de France)となった。
また、金拍車の戦いにおいてフランス軍の2つの予備軍のうちの1つで(オーヴェルニュ伯ロベール6世とともに)共同指揮官に任命され、フランス軍は異父兄のアルトワ伯ロベール2世が率いた。フランス軍がフラマン人の攻撃により敗走したとき、ギー4世は逃げることができたが、弟のジャック、異母兄のロベール2世など、親族の多くが殺された[5]。
脚注
編集- ^ a b Campbell 2017, p. 433.
- ^ Russell 2013, p. 299.
- ^ Sargent-Baur 1999, p. 33.
- ^ Campbell 2017, p. 434.
- ^ Bradbury 2007, p. 257.
参考文献
編集- Bradbury, Jim (2007). The Capetians:Kings of France, 987-1328. Hambledon Continuum
- Campbell, Anna (2017). “Franciscan Nuns in England, the Minoress Foundations and Their Patrons, 1281-1367”. In Robson, Michael J.P.. The English Province of the Franciscans (1224-c.1350). Brill. p. 426-447
- Russell, Delbert W. (2013). “The Cultural Context of the French Prose "remaniement" of the Life of Edward the Confessor by a nun of Barking Abbey”. In Wogan-Browne, Jocelyn. Language and Culture in Medieval Britain: The French of England, C.1100-c.1500. Boydell & Brewer. p. 290-302
- Sargent-Baur, Barbara N. (1999). Philippe de Remi, Le Roman de la Manekine. Rodopi
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