クリスティアーネ・シャルロッテ・フォン・ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール

クリスティアーネ・シャルロッテ・フォン・ヴュルテンベルク=ヴィンネンタールChristiane Charlotte von Württemberg-Winnental, 1694年8月20日 - 1729年12月25日)は、ドイツヴュルテンベルク=ヴィンネンタール家の公女で、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヴィルヘルム・フリードリヒの妻。

クリスティアーネ・シャルロッテ
Christiane Charlotte
ヴュルテンベルク家
クリスティアーネ・シャルロッテ、ヤン・クペツキーによる肖像画を原画として、ピエール・ドルヴェ(Pierre Drevet)が制作した彩色銅版画

出生 (1694-08-20) 1694年8月20日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ヴュルテンベルク公国キルヒハイム・ウンター・テック
死去 (1729-12-25) 1729年12月25日(35歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
アンスバッハ辺境伯領アンスバッハ
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
アンスバッハ辺境伯領、アンスバッハ、グンベルトゥス教会
配偶者 ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヴィルヘルム・フリードリヒ
子女 カール・ヴィルヘルム・フリードリヒ
エレオノーレ
フリードリヒ・カール
父親 ヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公フリードリヒ・カール
母親 エレオノーレ・ユリアーネ・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ
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生涯 編集

ヴュルテンベルク公エーバーハルト3世の七男であるヴュルテンベルク=ヴィンネンタール公フリードリヒ・カールと、その妻でブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯アルブレヒトの娘であるエレオノーレ・ユリアーネの間の末娘(第7子、次女)として生まれた。シュトゥットガルト北郊のヴィネンデンにある両親の居城ヴィンネンタール城(Schloss Winnental)で少女時代を過ごし、神学者のヨハン・オジアンダー(Johann Osiander)に教育を受けた。

1709年8月28日にシュトゥットガルトにおいて、母方の従兄であるアンスバッハ辺境伯ヴィルヘルム・フリードリヒと結婚した。1723年に夫が死去すると、幼い長男カール・ヴィルヘルム・フリードリヒの摂政としてアンスバッハ侯領を治めることになった。摂政として、クリスティアーネは大規模な建設事業に着手したり、文化・学術振興事業に熱心に取り組んだ。またブルックベルクにある城館を息子の教育のための施設にしつらえた[1]。1729年のクリスマスに35歳で死去し、遺骸はアンスバッハのグンベルトゥス教会(St. Gumbertus)に葬られた[2]

子女 編集

夫との間に2男1女の計3人の子女をもうけた。

参考文献 編集

  • Carl Leibig: Das Markgräfinnenbild in Unterschwaningen. In: Alt-Gunzenhausen, 7 (1930), S. 51-57.[3]
  • Hans-Otto Keunecke: Christiane Charlotte, Markgräfin von Brandenburg-Ansbach (1694-1729). In: Inge Meidinger-Geise (Hg.): Frauengestalten in Franken. Würzburg 1985. S.97-101.
  • M. Spindler, A. Kraus: Geschichte Frankens bis zum Ausgang des 18. Jahrhunderts, München 1997. ISBN 3-406-39451-5
  • A. Schödl: Frauen und dynastische Politik, 1703-1723. Die Markgräfinnen Elisabeth Sophie von Brandenburg und Christiane Charlotte von Ansbach, Plassenburg 2007. ISBN 978-3-925162-24-4.
  • A. Schödl: Christiane Charlotte. Fürstin, Mutter und Frau, Sonderdruck Nr. 7. Verein der Freunde von Triesdorf 2009.

脚注 編集

外部リンク 編集