ゲオルギ (アスト部)

ゲオルギモンゴル語: Georgi,? - 1311年)とは13世紀末から14世紀初頭にかけてモンゴル帝国大元ウルス)に仕えたアス人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では口児吉(kŏuérjí)と記される。

概要編集

ゲオルギらアス人は元来カフカース地方に住まうアラン人(=現在のオセット人)が、「バトゥの征西」においてカフカース地方に侵攻したモンケ(後の第4代皇帝)によって東方に移住させられて形成された集団であった。ゲオルギはモンケの即位後に遅れて移住してきたグループの一人で[1]、父とともにモンケの宿得(ケブテウル)に配属されてアス(阿速)軍20戸を率いるようになった。

モンケの死後帝位継承戦争を経てクビライが即位すると、ゲオルギはアス軍100戸を率いてアジュ率いる南宋遠征軍に従軍し、戦功を挙げて白金などを与えられた。南宋の平定後は大宗正府イェケ・ジャルグチに充てられ、またカイドゥ・ウルスとの戦いにも従軍した。クビライの死後、オルジェイトゥ・カーン(成宗テムル)の治世には一時湖広等処行中書省にも派遣されたが、その後再び旧職に戻った。オルジェイトゥ・カーンの死後に即位したクルク・カーン(武宗カイシャン)はかつてカイドゥとの戦いの司令官を務めた人物であり、1308年至大元年)にゲオルギは左衛阿速親軍都指揮使に充てられ、広威将軍の号を受ける厚遇を受けた。その後、1311年(至大4年)にゲオルギは亡くなり、息子のデミトリ(的迷的児)が後を継いだ[2]

デミトリは父の生前からアス軍を率いて活躍しており、1287年(至元24年)にはナヤン・カダアンの乱鎮圧戦に従軍し、叛乱首謀者の一人カダアン・トゥルゲンを投降させる功績を挙げている。父の死後は地位を継承し、明威将軍・阿速親軍都指揮使の地位を授けられた。デミトリの死後は息子の香山が後を継ぎ、天暦の治では大都派の将軍として他のアス人将軍とともに活躍し、トク・テムル(後の文宗ジャヤート・カーン)の即位に貢献した[3]。また、香山は1336年(後至元2年)にローマ教皇ベネディクトゥス12世の下に使者を派遣した「アラン人(=アス人)君侯たち」の一人カティケン・トゥンギイ(Caticen Tungii)に相当すると考えられている[4]

脚注編集

  1. ^ アス人がモンゴル帝国に仕えるに至った来歴は様々で、カフカース遠征中のモンケに早くから仕えた者(バガトル)、元々は領主の地位にあったがモンケの遠征を受けて投降した者(アルスランハンクス)、モンケ即位後になって新たに東方に移住した者(ネグレイシラ・バートル)らがいる(赤坂2010,157-159頁)
  2. ^ 『元史』巻135列伝22口児吉伝,「口児吉、阿速氏。憲宗時、与父福得来賜倶直宿衛、領阿速軍二十戸。世祖時、口児吉以百戸従元帥阿朮伐宋有功、賜以白金等物。宋平、命充大宗正府也可札魯花赤、領阿速軍従征海都、以功授上賞。師還、成宗命宣撫湖広等処、訪求民瘼、還仍旧職。至大元年、武宗命充左衛阿速親軍都指揮使、進階広威将軍。四年、卒」
  3. ^ 『元史』巻135列伝22口児吉伝,「子的迷的児、由玉典赤改百戸、領阿速軍、従指揮玉爪失征叛王乃顔、却金剛奴軍于鏁宝直之地、降哈丹禿魯干、累以功受賞。至大四年、襲父職、授明威将軍・阿速親軍都指揮使。子香山、事武宗・仁宗、直宿衛。天暦元年九月、兵興、従戦宜興、撃殺敵兵七人、自旦至暮、却敵兵凡一十三処。以功賜金帯一、授左阿速衛都指揮使」
  4. ^ 高田2019,662-663頁

参考文献編集

  • 赤坂恒明「モンゴル帝国期におけるアス人の移動について」塚田誠之編『中国国境地域の移動と交流』有志舎、2010年
  • 高田英樹 『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年
  • 元史』巻135列伝22口児吉伝