13世紀

西暦1201年から西暦1300年までの100年間

13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀

千年紀: 2千年紀
世紀: 12世紀 - 13世紀 - 14世紀
十年紀: 1200年代 1210年代 1220年代 1230年代 1240年代
1250年代 1260年代 1270年代 1280年代 1290年代
チンギス・ハン像。
モンゴル帝国の発展。
モンゴル帝国の最大領域。
フビライ・ハン像。

13世紀の歴史 編集

モンゴル帝国全盛(Pax Mongolica) 編集

13世紀は、チンギス・カンの興したモンゴル帝国ユーラシア大陸の大半を支配したため、モンゴルの世紀と呼ばれる。モンゴル帝国は交易を奨励、保護しユーラシア大陸を陸路、海路で結ぶ一大交易網が成立した(シルクロードの発展)。ユーラシア各地を多くの技術や情報が行き交い、世界史の転換期のひとつとなった。

ジャワ島では、シンガサリ王国が東部から興ってクディリ王国を倒したが、モンゴル帝国()のクビライの遠征軍の派兵により、内部で混乱し滅亡した。しかし、元の遠征軍も内紛の一部勢力と手を結んだが、最後には裏切りに遭いジャワ島より敗退する(1292年マジャパヒト王国成立)。12世紀に中国を二分した南宋は元により滅ぼされた。また、日本も2度にわたる元の侵攻(元寇)に遭ったがこれを撃退している。

十字軍勢力は衰退へ 編集

第6回十字軍に赴いた神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、アイユーブ朝スルターンアル=カーミルとの交渉によってエルサレムの譲渡を認めさせたが、10年余りで再びイスラム勢力により陥落した(以後、20世紀までエルサレムはイスラムの支配下に置かれる)。その後も十字軍の遠征は行なわれたが、レバントにおける十字軍国家は縮小の一途をたどり、1291年には最後の拠点アッコを失ってエルサレム王国も滅亡、パレスチナ全域がイスラム勢力下に入った。

マグナ・カルタ成立 編集

イングランド王国では、国王の権限を制限するマグナ・カルタ(大憲章)が制定された。その後、この憲章は廃止されないまま忘れ去られており中世の時代の中でほとんど影響力を失うが、国王と議会の対立が激しさを増す17世紀に再度注目されることとなる。清教徒革命アメリカ合衆国建国の際にもマグナ・カルタが引用され、現在のイギリス憲法を構成する前文にも残っている。

できごと 編集

 
第4回十字軍。東ローマ帝国の内紛に介入したヴェネツィア商人の使嗾により首都コンスタンティノポリスはキリスト教徒の十字軍に占領された。画像はウジェーヌ・ドラクロワの歴史画「第4回十字軍のコンスタンティノポリス入城英語版ルーヴル美術館蔵)」。
 
「サン・マルコの馬」。第4回十字軍を支援したヴェネツィア共和国は東ローマ帝国から多くの貴重品を持ち去った。画像は「勝利のクアドリガ」とも呼ばれる四頭馬の彫像でもとはコンスタンティノポリス競馬場を飾っていたもの。ヴェネツィアに移送されてからはサン・マルコ大聖堂に置かれていた。
 
大旅行家マルコ・ポーロ。ヴェネツィア商人として元朝ほかアジア各地を訪れ『東方見聞録(イル・ミリオーネ)』に記録を残した。画像は『驚異の書』写本(Fr. 2810)でマルコ・ポーロが象や駱駝を乗せた船でホルムズを訪れる箇所の挿絵。
 
グルジア王国の繁栄。女王タマルの時代にルーム・セルジューク朝を破り、東ローマ系亡命国家トレビゾンド帝国を支援してグルジアの勢力は拡大した。画像は南グルジアのヴァルディツィアの修道院礼拝堂フレスコ画に描かれた父王ギオルギ3世と並んで立つ女王タマルの肖像。
 
マグナ・カルタ(認証付写本)、1215年に作られたもの。
 
教皇権の最盛期。教皇はこの時期には世俗王侯を凌ぐ権威を有し、教会政治でもその手腕を遺憾なく発揮した。画像は14世紀に描かれたアッシジフランチェスコ聖堂ジョット・ディ・ボンドーネの壁画で、教皇インノケンティウス3世アッシジのフランチェスコの会見が描かれている。
 
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世。破門されたまま十字軍を組織しエルサレムを奪い返すなど大胆不敵な行為から当時の人々は「世界の驚異」とも「反キリスト」とも呼んでいる。画像は彼が著した鷹狩論『鳥類を利用した狩猟技術英語版』に描かれた皇帝の肖像。
 
第7回十字軍。画像は南仏エーグ・モルトを出港し、マムルーク朝支配のエジプトに向かうフランス王ルイ9世とその一行。聖王と称えられたルイ9世だがこの遠征には失敗し捕虜となる。
 
シチリアの晩禱ホーエンシュタウフェン家の断絶を機にシチリア支配から地中海帝国建設を思い描いたシャルル・ダンジューだったが、彼の強圧的な支配に対抗して蜂起したシチリア島民によってその夢ははかなく潰えた。画像はこの事件を描いたジョヴァンニ・ヴィッラーニの『新年代記英語版』の挿絵。
 
シャルトル大聖堂。盛期ゴシック様式を代表するフランスの教会建築で、画像にあるバラ窓ステンドグラスが有名であり、その深みのある青は「シャルトルの青」の異名で知られている。
 
トマス・アクィナス。盛期スコラ学を代表するドミニコ会の神学者で、理性と信仰を結び付ける壮大な著作『神学大全』をまとめ、「天使博士」の称号を得た。画像は15世紀のカルロ・クリヴェッリによるもの。
 
イベリア半島における文化交流。レコンキスタが進む一方でキリスト教徒とイスラム教徒の共存はカスティーリャの賢王アルフォンソ10世の時代も続いた。画像はこの王の時代に編纂された『聖母マリア頌歌集(カンティーガス・デ・サンタ・マリーア)』の挿絵でキリスト教徒とイスラム教徒の合奏が描かれている。
 
ヴァルトブルク歌合戦ドイツ語版。1206年にテューリンゲン方伯 ヘルマン1世の宮廷に集まったミンネザンガーたちにより行われたと伝わる。画像は14世紀に編纂された『マネセ写本』(ハイデルベルク図書館蔵)の挿絵。
 
ハーメルンの笛吹き男1284年6月26日にドイツのハーメルンで130人の子供たちが失踪した。やがて笛を吹くネズミ捕り男の話も加わって伝説化されたこの事件の真相をめぐり、少年十字軍説、ドイツ人の東方植民説など、議論は百出しているが結論は未だ出ていない。
 
リューベック北海バルト海貿易を生業とする北ドイツ諸都市ではハンザ同盟が結ばれ、リューベックがその盟主とされるようになった。なおリューベックは1266年には帝国自由都市の地位も獲得している。画像は13世紀に拡張されたリューベックの市庁舎でマルクト広場の黒煉瓦造りの建物がそれである。
 
泉州(ザイトン)の繁栄。南宋時代から多くのイスラム商人が定住していたが、蒲寿庚らが元朝に帰服すると以前にも勝る賑わいを見せるようになった。画像は泉州のイスラム寺院清浄寺中国語版に残るアラビア文字の刻まれた石碑。
 
交鈔。宋や金の制度をもとに発展させた紙幣で、1260年から1356年の間、元の正式な通貨として流通した。画像は「至元通行寳鈔」とその原版で、上段左の欄にパスパ文字も書かれている。
 
禅宗の到来。中国で発達した禅宗日宋貿易などを通じて日本に流入した。画像は日本禅宗の源流ともなった中国の無準師範(仏鑑禅師)の頂相円爾(聖一国師)が招来したもの。現在は京都東福寺に所蔵されている。
 
牧谿。南宋の無準師範門下の禅僧で、湿潤な大気を描くために技法を洗練させた水墨画で有名。その作品は中国では失われ、室町時代の足利将軍家の蒐集にみられるよう日本に多くが残された。画像は「観音猿鶴図」(京都大徳寺蔵)。
 
武家の都鎌倉。東国を基盤とした政権の誕生により、宋よりもたらされた禅宗や、「鎌倉仏教」と呼ばれる庶民に開かれた新しい宗派がこの地で発展した。画像は「鎌倉の大仏」で知られる高徳院阿弥陀如来坐像。
 
承久の乱。後鳥羽上皇は院宣を下し、鎌倉の執権北条義時の追討を命じた。しかし東国武士はそれに同調せず、京の院御所に攻め上り、上皇側は敗走した。以後、幕府の力は西国にも及ぶようになった。画像は後鳥羽上皇の似絵藤原信実によるもの(水無瀬神宮蔵)。
 
執権北条時宗。二度にわたる蒙古襲来を迎え撃った日本側の指導者は北条時宗であった。画像は『一遍上人絵伝』巻5のもので、時宗の僧侶一遍と鎌倉七口の一つ小袋坂(現在の巨福呂坂)にて対面する北条時宗(折烏帽子で白い狩衣を着て馬に乗った人物)。
 
蒙古襲来。クビライの命によりモンゴルの大軍が二度にわたって日本に押し寄せた。画像は御家人竹崎季長によって依頼され、元寇の様子を生々しく伝える記録となった『蒙古襲来絵詞三の丸尚蔵館保管)』。
 
名将・陳興道。陳朝の将軍陳興道は元の度重なる攻撃を退けただけでなく、三度目の元の襲来の折には、廣寧省を流れる白藤江で追撃し、敵将ウマルを捕虜とする大勝利を収めた。画像は陳興道の銅像。
 
インドからチベットへ向かう仏教。インド仏教の最後の拠点ヴィクラマシーラ寺院は1203年にイスラム教徒に破却された。その学頭であったシャーキャシュリーパドラはチベットに亡命し、サキャ派6代座主となるサキャ・パンディタらに法を伝えた。画像はサキャ・パンディタの肖像。
 
仏教王国スコータイ朝。13世紀半ばに成立したタイのスコータイ朝は3代目のラームカムヘーン大王の時代に黄金期を迎えた。画像はこの王の治世に作られたワット・シーチュムのアチャナ仏(降魔仏)坐像。
 
マジャパヒト王国の躍進。クディリ王国とシンガサリ王国の抗争に加えモンゴル人の元朝の襲来で混沌としたジャワ島に秩序をもたらしたのがマジャパヒト王国である。画像は初代王ラデン・ウィジャヤ(クルタラジャサ・ジャヤワルダナ)の肖像に基づくハリハラシヴァヴィシュヌの集合神)の像。
 
万塔の都パガン。仏教信仰の篤いミャンマーではモンゴル侵攻の中でもナラティーハパテ王のもと造寺造仏が続けられた。しかし1287年のパガンの戦いでこの都はついに陥落した。
 
オリッサをめぐる争い。インドの北部と南部をつなぐ東海岸のオリッサはこの時期にはイスラム教徒の奴隷王朝とヒンドゥー教徒の東ガンガ朝の激突の舞台となった。画像は東ガンガ朝のナラシンハ・デーヴァ1世によって建てられたオリッサ・コナーラクのスーリヤ寺院にある車輪のデザインの基壇部分。
 
クトゥブ・ミナール奴隷王朝アイバクによって13世紀初頭にデリーに建てられたインド最古のミナレットで、後世に一部が破損したものの現在でも世界で最も高い72.5mの高さを誇っている。
 
イスラム世界の機械工学。博識な技術者、であったジャザリーが1206年に著した『巧妙な機械装置に関する知識の書』は好評だったらしく多くの写本が残されている。画像はオートマタの技術を駆使した「象時計」。
 
スーフィズムの高まり。忘我境の中で神との合一を果たすスーフィズムと呼ばれるイスラム神秘主義がルーミーによって大成された。画像はトルココンヤにあるルーミー廟の前で旋回舞踏を行うメヴレヴィー教団の人々。
 
モンゴルのホラズム・シャー朝征服。中央アジアを支配していたホラズム・シャー朝もモンゴルの攻撃で崩壊した。画像はインダス河畔の戦いで敗北後も戦い続けたホラズム・シャー朝の君主ジャラールッディーン
 
アッバース朝の滅亡。モンゴル人フラグの征西によりバグダードが陥落した。最後のカリフは処刑され市街は略奪と殺害が横行したと伝えられる。画像はラシード・ウッディーン集史』の写本の挿絵。
 
氷上の戦い。「ネヴァ川の勝者」としてスウェーデン軍を打ち破ったノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーは、1242年には新たな敵であるドイツ騎士団を氷の張ったチュド湖で迎え撃ち勇猛さを轟かせた。画像は20世紀に作られた「氷上の戦い」のモザイク画。
 
マヤパンチチェン・イツァの支配が崩壊すると、1220年代にユカタン半島の新たなる政治の中心地が選定され、「マヤの旗」を意味する「マヤパン」と名付けられて、後古典期のマヤ都市国家連合の首都となった。

1200年代 編集

1210年代 編集

1220年代 編集

1230年代 編集

1240年代 編集

1250年代 編集

1260年代 編集

1270年代 編集

1280年代 編集

1290年代 編集

1300年代 編集

  • 1300年 - 教皇ボニファティウス8世によりこの年が最初の「聖年(Iobeleus)」とされる。
  • 1300年頃 - スウェーデンによるフィンランド遠征(北方十字軍の完了)。

人物 編集

モンゴル世界 編集

イスラム世界 編集

アフリカ 編集

キリスト教世界 編集

東ローマ帝国・ラテン帝国・ニカイア帝国 編集

東欧・カフカス 編集

イタリア 編集

イベリア半島 編集

フランス 編集

イングランド 編集

スコットランド 編集

神聖ローマ帝国 編集

北欧 編集

南アジア・チベット・東南アジア 編集

東アジア 編集

南宋・金・元 編集

大越 編集

高麗 編集

日本 編集

架空のできごと 編集

  • 1204年 - 第四回十字軍によるコンスタンティノポリス占領の混乱で窮地に追い詰められた東ローマ帝国の高官・歴史家ニケタス・コニアテスは危機一髪のところをラテン人バウドリーノに救出される。バウドリーノは奇想天外な人生の顛末をニケタスに語り始める(ウンベルト・エーコ『バウドリーノ』)。
  • 1205年 - 栂ノ尾高山寺明恵が入唐渡天を志し、春日明神に暇乞いをする。一人の翁が現れて明恵の出立を止めるように申し入れる。老人は春日神社の使者で、八大龍王が眷属を引き連れて現れ、諸仏が居並ぶ中で釈迦が説法をする様子を見せると、明恵はこの奇跡を見て入唐渡天を思い止まる(能「春日龍神」)。
  • 1213年 - 北条氏に反発した侍所別当和田義盛らが反乱を起こし(和田合戦)、和田一族の多くが滅せられる中で、義盛の三男朝比奈三郎義秀は生き残り安房国に出奔。この後、高麗に渡ったという伝説のほか小人の島や馬人の島を訪ねたとも伝えられ、果ては地獄をめぐり閻魔大王と対決したという伝承も残されている(「朝比奈三郎伝説」)。
  • 1216年以前 - ノッティンガム南方に位置するゴタム村に、悪名高いジョン王が道路を貫通させようと狙っていた。王の使者が視察に来たところ、村人たちは世にも愚かしい行為を繰り広げることでジョン王の使者を辟易させ、計画を撤回させたので「ゴタム村の賢人たち英語版」と呼ばれた(イングランドの昔話。後にはマザーグース童歌にもなる)。
  • 1216年 - 1227年 - ローマ教皇ホノリウス3世は諸学を修め多方面の学識に富む人物であったが、魔術にも精通しておりグリモワールと呼ばれる魔術書の一つ『教皇ホノリウスの奥義書』を執筆する(この著作は教皇ホノリウス3世に仮託した17世紀の魔術本である)。
  • 1220年頃 - アルプスを南北につなぐゴッタルド峠はかねてから交通の難所で、ある牧人が悪魔に頼み込んで特別な橋を架けてもらう。悪魔はその引き換えに生贄を要求するが、機転を利かした牧人によって悪魔は退けられる(ゴッタルド峠魔橋伝説)。
  • 1239年以降 - 皇帝党(ギベリン)と教皇党(ゲルフ)の対立するヴェローナで、モンタギュー家の息子ロミオと、キャピュレット家の娘ジュリエットの惹かれあう想いは、両家の因縁の対立から阻まれ、やがて悲劇的な結末を辿っていく(ウィリアム・シェークスピアの悲劇)。
  • 1249年以前 - 聖一国師円爾が日本に禅を招来したことにより、日本の菅原道真が中国の南宋に渡り、径山万寿寺無準師範のもとで学び衣鉢を継いだ。道真は中国の文人の姿となり梅花を手に持つ像が描かれた(「渡唐天神伝説」、花山院長親『両聖記』)。
  • 1256年 - モンゴル帝国皇帝のクーブラ・カーン(クビライ・カアン)が、聖なるアルフ河の流れに沿って、城壁城塔がそびえたつ、そして甘美な花咲きそろう庭園を持つ歓楽の都ザナドゥを建立していく。イギリスの詩人コールリッジは、1797年のとある日、麻薬を吸引したままこの幻想的な夢を見、その光景に目を奪われた(サミュエル・テイラー・コールリッジ『クーブラ・カーン』)。
  • 1256年以降 - 1263年以前 - 僧形となった北条時頼が諸国遍歴の途上、下野の御家人佐野源左衛門尉常世の館で一夜の宿をとる。源左衛門は自ら梅・松・桜の鉢植えの木を火にくべて精いっぱいのもてなしをしつつ「落ちぶれてはいても、何事かあれば「いざ鎌倉」と駆けつける」との気概を語る(謡曲鉢の木』)。
  • 1261年 - 1264年 - 愛欲生活を続けてきたタンホイザーが教皇ウルバヌス4世に懺悔するが、教皇は自分の持つ枯れ木の杖から芽が出るまで救われることはないと告げる。悲嘆に暮れるタンホイザーがその場を立ち去ると、教皇の杖から新たな芽が生えてきたが、ついに彼を見つけ出すことはできなかった(「タンホイザー」伝説)。
  • 1271年/1275年 - 1292年 - クビライ・カアンに仕えたマルコ・ポーロが各地を巡り「死者たちとすれ違う都市」「名前の上にのみ育つ都市」「蜘蛛の巣都市」などの不思議な街を紹介する(イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』)。
  • 1272年 - 鎌倉建長寺の裏山で老いた寺男安里(あんり)が、大覚禅師(蘭渓道隆)により日本に連れて来られる以前はフランスの牧童で少年十字軍に加わっていたことを語りだす(三島由紀夫海と夕焼』)。
  • 1282年 - フランス人支配に不満が高まっているシチリア島で、前シチリア王の妹エレーナと島の若者のアッリーゴは身分違いもあってその恋愛はうまく成就しない。複雑な経緯があってやがてこの二人は「シチリアの晩鐘」事件に巻き込まれていく(ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ「シチリアの晩鐘」)。
  • 1285年 - 道ならぬ恋によりリミニ領主ジョヴァンニ・マラテスタの怒りを買った、その妻フランチェスカとその弟パオロは、ともに殺害され愛欲の地獄に落ちてからも、黒い風に吹き流され永遠にさまよい続けている(ダンテ・アリギエーリ神曲』地獄篇第二圏)。
  • 1294年 - 愛知県志段味村(現名古屋市守山区)の出土品として紹介された鎌倉時代の古瀬戸は「永仁二年(1294年)」の名を持つことから「永仁の壺」と称され、1959年(昭和34年)には国の重要文化財に指定された(実際にはこの壺は現代陶芸家加藤唐九郎の贋作で、美術史学界・古美術界・文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなった。詳細は「永仁の壺事件」を参照のこと)。
  • 1300年 - 聖金曜日に詩人ダンテが人生の半ばで暗い森に迷い込み、地獄煉獄天国遍歴が始まる(ダンテ・アリギエーリ『神曲』地獄篇冒頭)。
  • 13世紀から14世紀 - モンゴルの支配が及ばない都市ノブゴロドの冒険商人であったサトコは、航海途上で船が立ち往生したことで生贄とされ、その身は海に投じられた。海の帝王の怒りを宥めるためサトコは懸命に歌い、それがもとで帝王の娘ヴァルホヴァとの結婚が許される(ニコライ・リムスキー=コルサコフオペラサトコ』、原作はロシアの口承叙事詩(ブィリーナ))。

関連項目 編集

外部リンク 編集

  •   ウィキメディア・コモンズには、13世紀に関するカテゴリがあります。