サイード・ブン・アスラム・アル=キラービー

サイード・ブン・アスラム・ブン・ズルア・アル=キラービーアラビア語: سعيد بن أسلم بن زرعة الكلابي‎, ラテン文字転写: Saʿīd b. Aslam b. Zurʿa al-Kilābī)は、イラクを含むウマイヤ朝の東方領土全域を統括する総督であったアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ英語版の下で694年に東方の辺境地域にあたるマクラーン英語版の総督を務めた人物である[1][2]

サイードはバスラおよびホラーサーンのイスラーム軍内におけるカイス族英語版(部族連合の派閥)とその構成部族のキラーブ族英語版の指導者であり、677年から679年にかけてホラーサーンの総督を務めたアスラム・ブン・ズルア英語版の息子である。ハッジャージュがバスラの兵士で構成された部隊の俸給を削減すると宣言した後にアフワーズのルストゥクバードの駐屯地でこれらの兵士がハッジャージュに対する反乱を起こしたが[3]、この時サイードはハッジャージュへの忠誠を維持した人物の一人であった[4]。この功績によってサイードはハッジャージュからマクラーンの総督職を与えられたが[4]、後に同地域内の支配権を握ることになるアル=ハーリス・アル=イーラーフィーの二人の息子のムハンマドとムアーウィヤによる攻撃を受けて着任から間もなく殺害された[1]。歴史家のバラーズリー(892年没)によれば、ハッジャージュはサイードの後任としてムッジャーア・ブン・スィール英語版を派遣した[1]。サイードの死後、ハッジャージュはサイードの息子のムスリム英語版を養子に迎え、自分の子供たちと一緒に育てた。ムスリムは後にホラーサーンの総督を務めた[4]

脚注

編集

出典

編集
  1. ^ a b c Murgotten 1924, p. 215.
  2. ^ Caskel 1966, p. 500.
  3. ^ Chowdhry 1972, pp. 49–50.
  4. ^ a b c Crone 1980, p. 138.

参考文献

編集