ウマイヤ朝
- ウマイヤ朝
- الخلافة الأموية
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(国旗)
ウマイヤ朝(ウマイヤちょう 、アラビア語: بنو أمية、Banu Umayya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)。
概要編集
大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。
イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。
非ムスリムだけでなく非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。
カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえにシーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である[1]。
歴史編集
草創期:ムアーウィヤの時代編集
630年、メッカの指導者として預言者ムハンマドと対立したウマイヤ家の当主アブー・スフヤーンは、メッカ市民に抵抗を止めさせムスリム軍に降服してメッカの無血開城を導き、ムスリムとなってムハンマドに従った。アブー・スフヤーンはその後のムハンマドの戦役にいくつか参加し、息子のヤズィードとムアーウィヤはムハンマドの側近の書記として近侍し活躍した。
634年、正統カリフ・アブー・バクルの時代になって対東ローマ戦線におけるシリア方面軍司令のひとりとしてヤズィードが派遣され、ムアーウィヤもこれに同行したが、639年にシリア一帯で流行したという悪疫によって先任のシリア総督アブー・ウバイダらシリア方面軍の将卒の多くが病死し、次代の正統カリフ・ウマルはまずヤズィードに次代総督を任せた。しかし、同年のカエサリア遠征中にそのヤズィードもダマスクスで病死し、ウマルはカエサリアの包囲戦を任されていた弟のムアーウィヤに改めてシリア総督職を命じた。
656年に同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンがメディナでの暴動で殺害された。ムアーウィヤはそれの責任と血族としての報復の権利を求めて、クーファで第4代カリフに即位したアリーと対立し、スィッフィーンの戦いなど軍事衝突にまで発展した。661年、ムアーウィヤはアリーがハワーリジュ派によって暗殺されたことによって、イスラーム世界唯一のカリフとなり、ダマスクスにて忠誠の誓い(バイア)を受けて正式にカリフとして承認され、ウマイヤ朝を創始した。
ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。攻撃対象はサーサーン朝との抗争で衰弱していた東ローマ帝国であった。
第二次内乱編集
ムアーウィヤ死後、ヤズィード1世がカリフとなった。第二次内乱(680年 - 692年)の始まりである。この第二次フィトナは、シーア派によるウマイヤ家への挑戦とアブドゥッラー・イブン・アッズバイルによるウマイヤ家への挑戦の二段階に分けられる。
ヤズィード1世即位直後の680年10月10日、カルバラーの悲劇という事件が起こった[2]。アリーの次男フサインはシーア派のクーファ市民と、反ウマイヤ家を掲げて行動を起こそうとするが、行動は事前に気づかれ、クーファ市民はフサインと共に行動を起こすことができず、メッカからクーファのシーア派と共に決起するためにやって来ていたフサイン軍七十余名は、ユーフラテス川の手前で待ちかまえていたウマイヤ朝軍4,000の圧倒的な数の差の前に敗れた[2]。このフサインの殉教は、シーア派にとって大きな意味を持つ。フサインの殉教は、シーア派にとって、どんなに悔やんでも悔やみきれない背信行為である一方で、スンナ派カリフに対する復讐の念がやがて、ウマイヤ朝末期の反ウマイヤ家運動において結実する[3]。フサインの殉教の日は、その後、彼の死を悼むアーシューラーの日となった[4]。
683年、ヤズィード1世が死亡した。ヤズィード1世の後を息子のムアーウィヤ2世が継いだものの、そのムアーウィヤ2世も数十日で死亡したことで、ウマイヤ朝をめぐる情勢が大きく変化した。第二次内乱の第二段階である。メッカのイブン・アッズバイル(初代カリフ、アブー・バクルの長女の子)はカリフを宣言し、イラクやエジプトの民からバイア(忠誠)を受けた[5]。685年には、イラクのクーファで、シーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの子で、フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをマフディー(救世主)にまつりあげてフサインの復讐を掲げ、南イラク一帯を勢力範囲にした[5]。ウマイヤ朝内部は、三者の鼎立状態となったものの、しかし、こちらはイブン・アッズバイルの弟であるムスアブが鎮圧した[5]。
一方、ムアーウィヤ2世、マルワーン1世と短命のカリフが続いたウマイヤ家では、アブドゥルマリクが685年、第5代カリフとなった。アブドゥルマリクのカリフの最初の仕事がヒジャーズ地方、イラク、エジプトで勢力を蓄えていたイブン・アッズバイルの討伐であった。692年、アブドゥルマリクは、ハッジャージュ・ブン・ユースフを討伐軍の司令官に任命した[6]。ハッジャージュは、12,000人の軍隊を持って、メッカを包囲した(メッカ包囲戦)。7ヶ月の包囲の末、ハッジャージュはメッカを攻略し、アッズバイルの一族はすべて殺され、ウマイヤ朝の再統一が完成した[6]。
全盛期:アブドゥルマリクの時代編集
アブドゥルマリクの時代には、アラビア語の公用化とアラブ貨幣の発行により、中央集権化が進んだ。アッズバイル討伐で功績をなしたハッジャージュがクーファ総督に任命された。ハッジャージュのイラク統治は厳しく、イラク社会の治安は一定度、回復したと考えられる[7]。ハッジャージュは、反ウマイヤ家のイラクを平定後、クタイバ・イブン=ムスリムを東方遠征の司令官に任命した[8]。クタイバは、ブハラやサマルカンドを征服し、フェルガナ地方まで進出、中央アジアにイスラームが広がるもととなった[8](トランスオクシアナ征服)。
一方、西では709年までにマグリブ(北アフリカ)を東ローマ帝国から奪った(マグリブ征服)。将軍ムーサー・イブン・ヌサイルは、イフリーキヤのカイラワーンを拠点に、ベルベル人の住むモロッコを平定し[8]、ムーサー配下のターリク・イブン・ズィヤードが、イベリア半島に進出して西ゴート王国を滅ぼした(グアダレーテの戦い)。ピレネー山脈を越えフランク王国領内に入ると、フランク王国の迎撃軍と衝突してトゥール・ポワティエ間の戦いとなったが、アル・ガーフィキーが戦死したウマイヤ軍は退却し、ピレネー山脈の南側まで戻った。一方、674年から東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを連年包囲したが攻略できず、キリスト教勢力に対する攻勢は止まった。
この後、長い間地中海はイスラームの海となる。こうして東へ西へとウマイヤ朝は拡大してゆき、ワリード1世の治世である8世紀初頭に最大領域となった。
最後の輝きと滅亡編集
マワーリー問題編集
アブドゥルマリクは、ウマイヤ朝を再統一したが、ウマイヤ朝の版図で、新たな問題が生まれていた。イスラームの教義で、ムスリムは十分の一税(ウシュル)のみを租税として支払うものの、ジズヤとハラージュが免除されており、異教徒は、重税の負担を余儀なくされた[9]。そのため、異教徒は、次々とイスラームへと改宗し、租税の負担を回避するために、都市へと流入した[9]。異教徒からイスラームへ改宗した人々をマワーリーと呼ぶ。マワーリーの都市の流入は国庫の歳入の減少を意味した[9]。
第8代カリフであるウマル2世(在位:717年-720年)は、マワーリーの問題に対処するために、マワーリーの不満を解消するための改革を実施した。その内容は、以下の通りである[10]。
- 民族のいかんを問わず、イスラームへの改宗を自由に認めた。
- ムスリムのミスル(都市)への自由を認めた。
- ムスリムには、一切租税が課されず、宗教的な義務としてのサダカを課した。
- ミスルに移住したマワーリーを官庁に登録し、俸給(アター)を支給した。
- 農村にとどまったマワーリーには従来通りの租税を徴収した。
- ヒジュラ暦100年(718年8月3日から719年7月23日)以後、耕地の販売を禁止した。
しかし、ウマル2世の統治が短かったこともあり、ウマル2世の改革は、ほとんど効果が無かったと考えられる[11]。マワーリーは、都市への自由を獲得したものの、それで生計が立てられるわけでもなかった。農民には、従来通りの租税が課せられたわけで、イスラームの教義である「神の前での平等」とは明らかに矛盾した状況は変わらなかった[11]。
部族対立の潜在化と地方の反乱編集
アブドゥルマリクの第4子で、第10代カリフとなったヒシャーム(在位:724年-743年)の時代は、ウマイヤ朝最後の輝きを見せた時代である。しかしながら、ヒシャームの時代でも、マワーリーの問題が解決したわけでもなく、さらには、アラブ人の部族対立が明らかとなった時代であった。
時代は、ウマイヤ朝草創期にさかのぼる。アラビア半島からイラクへと進出したアラブ人の主力は、北アラブの出身であり、その中でもカイス族が最有力であった[12]。一方で、シリア移住したアラブ人の出身は、南アラブの出身であり、その中でもイエメン族が有力であった[12]。ムアーウィヤの権力基盤は、イエメン族に置いていた[12]。一方、時代は下り、アブドゥルマリクとハッジャージュはカイス族を重用した[12]。ヒシャームは、イラクに基盤を置くカイス族とは距離を置き、カイス族出身のイラク総督を解任し、その後任には、イエメン族を充てた[12]。カイス族とイエメン族の対立は、カリフ位をめぐる権力闘争、重要な行政職の獲得競争と深くかかわるようになったのである[12]。
ヒシャームの時代は、地方で反乱も起きた。734年、ホラーサーン地方に進出したアラブ軍が、西突厥の蘇禄と結び、ウマイヤ朝に反旗を翻した[12]。ホラーサーンに進出したアラブ人の主力は、イラクのバスラからイランに定住したアラブ人であり、彼らは、ムスリムであれば当然であるアラブ人の特権が認められることは無く、不満が鬱積していた[13]。この反乱自体はすぐに鎮圧されたものの、不満が解消されることは無かった[12]。
シーア派の不満とアッバース家編集
680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた[14]。カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシム(? - 716年[15])がイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた[16]。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたと主張するグループが登場した[16]。
アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(718年8月から719年7月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した[16]。747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムがホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した[17]。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した[17]。アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイーは、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、749年9月、クーファに到達した[18]。
749年11月、クーファで、アブー・アル=アッバースは、忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した[18]。750年1月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モスル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い)。ザーブ河畔の戦いでウマイヤ軍を破ったアッバース軍は、これにより、ウマイヤ朝の滅亡を確定させた(アッバース革命)。
ウマイヤ家のほとんどが、アッバース家による追及で殺害された。その中で、第10代カリフ・ヒシャームの孫であるアブド・アッラフマーン1世はシリアからモロッコに逃れた。彼は、後ウマイヤ朝を建国したその人である。
経済編集
第5代カリフ・アブドゥルマリク以前の王朝の通貨は、イラン、イラクを中心とする旧ササン朝の領域は、ディルハム銀貨が流通していた[19]。一方で、シリア、エジプトといった旧東ローマ帝国の領域は、ディナール金貨が流通していた[20]。ウマイヤ朝により、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる広範な地域がひとつの経済圏としてまとまり、「イスラームの平和」が確立し、商品流通が活発化したことで、旧来の貨幣システムが対応しきれなくなった[19]。そこで、695年、アブドゥルマリクは、表にクルアーンの文句を、裏に自らの名前を刻んだ金貨と銀貨を発行した[19]。このことで、アラブ世界は、金銀両本位制が確立し、この貨幣システムを基礎に、官僚や軍隊への俸給(アター)の支払いが現金で可能となった[19]。
税制編集
ウマイヤ朝では、征服地の先住民にジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)が課せられたが、イスラームに改宗した非アラブ人ムスリム(マワーリー)にもジズヤとハラージュを要求し、差別した(アラブ人優遇政策)。クルアーンでは全てのムスリムは平等だとされているにもかかわらず、マワーリー(非アラブ人のムスリム)にズィンミー(非ムスリム)と全く同じだけの税を課すウマイヤ朝に対し、マワーリーは不満を高めた。
次のアッバース朝時代になると、これとはうって変わってアラブ人とマワーリーはハラージュだけを徴収され、ズィンミーは変わらずジズヤとハラージュの両方を課せられ、アラブ人とマワーリーの間の税制面での差別は無くなった。
文化編集
建築物編集
ウマイヤ朝時代は、初期イスラーム建築が建設された時代である。サーサーン朝の影響を色濃く受けているが、首都がダマスカスに置かれてこともあり、ビザンティン建築の影響もわずかながら受けている。
ウマイヤ朝時代に建設され、現存する建築物の代表格が、ダマスカスに残るウマイヤド・モスクとエルサレムの岩のドームである。岩のドームは、第5代カリフアブドゥルマリクによって692年に建設が開始された、イスラーム建築最初の記念碑的な建築物である。内部のモザイク・パネルには、青の地に映える金の文字で、クルアーンの章句が施された。また、大征服を展開する中で、新しい都市が建設された。その中でもウマイヤ朝時代の建築が残るのが、670年に建設された北アフリカのカイラワーン(現チュニジア)である。
音楽編集
- ダマスカスの宮廷などで活躍した音楽家。
- イブン・スライジュ
- マアバド(マーバド、? - 743年) - 卓越した音楽家で、教育者。音楽学校を設立し、そこでは口伝で教育が行なわれた。バグダードにおける一大楽派はマアバドが教えた音楽に基づいて出来た。マアバドの葬儀にはウマイヤ朝のカリフ・ワリードも参列した。
- ガリーズ
- ワリード2世(カリフ)
- マーリク・アッターイー
- イブン・アーイシャ
- ユーヌス・アルカーテブ
- イブン・アルカルビー(? - 763年) - 「キターブ・アルナガム」(旋律の書)、「キターブ・アルキヤーン」(歌姫の書)の著者。
- イブン・ミスジャハ - イブン・ミスジャ。アラブ古典音楽の整備に功。
- ハリール(? - 791年) - 音楽理論に関する著作があったといわれるが資料は現存しない。
年譜編集
- 661年 - ムアーウィヤ、カリフとなり、ダマスカスを都とする。
- 673年 - 687年まで数年に渡って、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲したが失敗。
- 680年 - 第2代カリフ後継者ヤズィード、アリーの子フサインの勢力を制圧。後のスンニー派によるイスラムの覇権を築く。
- 697年 - 東ローマ帝国からカルタゴを奪い、北アフリカのほぼ全域を支配。
- 第二次内乱の危機を乗り越えたアブドゥルマリクの時代に全盛時代を迎える。しかし、その後、ウマイヤ家を認めないシーア派やハワーリジュ派の反乱、アラブ諸部族間の内紛などにより傾きはじめる。
- 711年 - イベリア半島のゲルマン人国家西ゴート王国を滅ぼし(グアダレーテの戦い)、西はイベリア半島から東はインド洋までの広大な地域を支配。
- 718年 - 東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを大規模艦隊と陸軍で包囲したものの敗北し、遠征軍は壊滅。
- 732年 - メロヴィング朝フランク王国とのトゥール・ポワティエ間の戦いに敗北。
- 750年 - ホラーサーン地方で勃発したアッバース革命により750年に滅亡。ヒシャームの子孫アブド・アッラフマーン1世はイベリア半島へ逃れて、後ウマイヤ朝(756年-1031年)を建国。
歴代カリフ編集
系図編集
クライシュ族 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アブド・シャムス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウマイヤ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハルブ | アブー・アルアース | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アブー・スフヤーン | ハカム | アッファーン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムアーウィヤ1世1 | マルワーン1世4 | ウスマーン 正統3代カリフ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヤズィード1世2 | ムハンマド | アブドゥルマリク5 | アブド・アルアズィーズ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ムアーウィヤ2世3 | マルワーン2世14 | ワリード1世6 | スライマーン7 | ヤズィード2世9 | ヒシャーム10 | ウマル2世8 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヤズィード3世12 | イブラーヒーム13 | ワリード2世11 | ムアーウィヤ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アブド・アッラフマーン1世 後ウマイヤ朝初代カリフ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後ウマイヤ朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注編集
- ^ 中村廣治郎『イスラム教入門』(岩波新書、1998年)54頁
- ^ a b 佐藤 2008, p. 116.
- ^ 佐藤 2008, p. 117.
- ^ 佐藤 2008, p. 117-119.
- ^ a b c 佐藤 2008, p. 120.
- ^ a b 佐藤 2008, p. 121.
- ^ 佐藤 2008, p. 123.
- ^ a b c 佐藤 2008, p. 124.
- ^ a b c 佐藤 2008, p. 136.
- ^ 佐藤 2008, pp. 138-139.
- ^ a b 佐藤 2008, p. 140.
- ^ a b c d e f g h 佐藤 2008, p. 141.
- ^ 佐藤 2008, pp. 141-142.
- ^ 佐藤 2008, p. 143.
- ^ Shaban, M.A., The 'Abbāsid Revolution (Cambridge: Cambridge University Press, 1970), 139. ISBN 978-0521295345
- ^ a b c 佐藤 2008, p. 144.
- ^ a b 佐藤 2008, p. 145.
- ^ a b 佐藤 2008, p. 146.
- ^ a b c d 佐藤 2008, p. 125.
- ^ 佐藤 2008.
参考文献編集
- 佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年。ISBN 978-4-12-205079-2。
- 平凡社音楽大事典 - 西アジア項
- サラーフ・アル・マハディ「アラブ音楽 構造・歴史・楽器学・古典39譜例付」(松田嘉子訳、PASTORALE出版、1998年)