サッチウィーブ(Thach Weave)は第二次世界大戦期に、アメリカ海軍ジョン・S・サッチ海軍少佐が編み出した空中戦闘機動。サッチは防御戦術として「ビーム・ディフェンス・ポジション」と命名したが、動きが「ウィーブ」(機織り)の糸を織る動きに似ていることから「サッチ・ウィーブ(サッチの機織り)」という通称で呼ばれる[1]

二人の航空兵によって行われた対零戦戦術のサッチウィーブの基本的な動き

アメリカ海軍は、基本を二機とするエレメント(分隊)、二個エレメントで一個フライト(小隊)のエシュロン隊形が戦闘機の編隊であった。サッチウィーブは、この隊形の相互支援の戦術であり、機織りのように互いにクロスするようにS字の旋回を繰り返すことで、敵機に後方を取られても編隊僚機がその敵機の後ろに付くことができる。それまでの戦術では長機を僚機が援護する形を採っていたが、サッチウィーブでは状況次第でどちらが支援に回っても構わず、より効率的な攻撃ができた[2]

歴史 編集

戦闘機同士の空中戦は、第一次世界大戦では一対一のドッグファイトが中心であったが、第二次世界大戦が始まる頃には、アメリカ海軍ではエシュロン隊形が中心となっていった。アメリカ海軍ジョン・S・サッチ海軍少佐がサッチウィーブを発案すると、米海軍で相互支援の戦術として取り入れられていった[3]

1942年6月、ミッドウェー海戦で初めて実戦で用いられ、その効果は十分に証明された[4][5]。サッチはエシュロン隊形のリーダーとして出撃したミッドウェー海戦で、初めてサッチウィーブをテストして零戦を1機撃墜、またその時のウィングマンであり、米海軍最初のエースパイロットとなったエドワード・'''ブッチ'''・オヘア英語版は、2機の零戦を撃墜した。

同月、アメリカ軍はアリューシャン列島ダッチハーバーに近いアクタン島の沼地に不時着した零戦(アクタン・ゼロ)をほぼ無傷で鹵獲することに成功したことによる零戦対策で、サッチウィーブが活躍することになる。アクタン・ゼロの徹底的な研究により、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能を持つ一方で、高速時の横転性能や急降下性能に問題があることが明らかになり、アメリカ軍は「零戦と格闘戦をしてはならない」「背後を取れない場合は時速300マイル以下で、ゼロと空戦をしてはならない」「上昇する零戦を追尾してはならない」という「三つのネバー(Never)」と呼ばれる勧告を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行った。また、不要な装備を除きなるべく機体を軽くするように指示した[6]。これによってサッチウィーブとともに一撃離脱戦法が採用された。急降下に弱く、防御装甲が乏しいという零戦の弱点を突いた攻撃方法になった[7]

この組み合わせにより、F4F ワイルドキャットと零戦とのキルレシオは改善された。米軍の公式記録によれば、太平洋戦争での零戦とF4Fのキルレシオは開戦当初からミッドウェー海戦までで1:1.7、サッチウィーブと一撃離脱戦法導入後の実績を加えた1942年の年間キルレシオで1:5.9、太平洋戦争全体を通じたキルレシオは1:6.9である。

日本側でこれを警戒するものもおり、海軍の撃墜王杉田庄一は、一機と思わせてもう一機が待機しているエンドレス戦法と呼び、これに気を付けるように部下に注意している[8]

脚注・出典 編集

  1. ^ 日本では「サッチウーブ(Thach Wave)」と誤って表記されていることがある。
  2. ^ 竹内修『戦闘機テクノロジー』三修社13頁
  3. ^ 竹内修『戦闘機テクノロジー』三修社、12-13頁。 
  4. ^ 秋月達郎『零の戦記』PHP研究所、172頁。 
  5. ^ 映像 - YouTube
  6. ^ 堀越二郎『零戦の遺産』光人社〈NF文庫〉、107-108頁。 
  7. ^ 博学こだわり倶楽部『第二次世界大戦の兵器・武器』〈KAWADE夢文庫〉、12-14頁。 
  8. ^ 丸『最強戦闘機紫電改』光人社168頁

関連項目 編集

外部リンク 編集