シェフザーデ・ヤフヤ

シェフザーデ・ヤフヤトルコ語: Şehzade Yahyaモンテネグロのアレクサンダー伯爵Count Alexander of Montenegro)、1585年10月23日 - 1648年?)は、ヤヒヤYahya、ジャキアまたはジャハ(Jachia or Jahja)と綴られることもある)は、17世紀の王位僭称者。ムラト3世の皇子であると偽称した。

Count Alexander of Montenegro

出生 1585
Manisa, Ottoman Empire
死亡 1648年(62 - 63歳没)
Kotor
埋葬 Kotor, Montenegro
実名 Yahya bin Murad; Count Alexander of Montenegro
王室 House of Osman
父親 ムラト3世 (possibly)
母親 サフィエ・スルタン (possibly)
配偶者 アンナ・カテリーナ
子女
モーリス
エレナ
信仰 Orthodox formerly Sunni Islam (claimed)
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生涯編集

背景編集

オスマン帝国の王位のための戦い編集

王位の僭称編集

ヤフヤは1585年にムラト3世の皇子として生まれたとされ、母はサフィエ・スルタンとも、かつてトレビゾンド帝国を統治したコムネノス家の末裔のフレーン・ハトゥンとも言われる。ヤフヤによると1595年のムラト3世の死後、兄弟殺しの慣行によって19人の皇子が殺害されたが、[1]ヤフヤの母は彼を密かにギリシャ方面へと逃げ出させ、その後、ブルガリア、マケドニアへと逃亡したという。その後、ヨーロッパを回り、各国に支持を求めた。コサックの支持を得てからはイスタンブールを襲撃するなどした。

死去編集

1648年、もしくは1649年にモンテネグロの海沿いで死去した。

家族編集

Yahyaは、1630年代初頭、Yahyaが自分自身をその地域の公爵と呼ばれ始めたときに、 Drisht伯爵のPeter公爵の娘であるアンナ・カテリーナ(Anna Cat(t)erina)と結婚。アンナ・カテリーナは、おそらくアルバニアの国民的英雄スカンデルベグの子孫。彼らには、モーリス(Maurice、1635年生まれ)とエレナ(Elena、1638年生まれ)の2人の子供がいたとされる[2]

脚注編集

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  1. ^ 『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』中公新書、2018年12月25日。[要ページ番号]
  2. ^ Giammanco, p. 43, 60

参考文献編集

関連項目編集