シャルル・ウジェーヌ・ド・クロイ

シャルル・ウジェーヌ・ド・クロイフランス語:Charles Eugène de Croÿ, 1651年 - 1702年1月30日)は、フランス貴族のクロイ家出身で、神聖ローマ帝国おとびロシア・ツァーリ国陸軍元帥[1]

公爵

シャルル・ウジェーヌ・ド・クロイ
Charles Eugène de Croÿ
シャルル・ウジェーヌのミイラの画(タリンの聖ニコラウス教会)
生誕1651年
神聖ローマ帝国オーストリア領ネーデルラントエノー伯領、ル・ルー
死没1702年1月30日(ユリウス歴20日)(50-51歳没)
バルト帝国、スウェーデン領エストニア、レーバル
(現エストニアのタリン)
所属組織デンマークの旗 デンマーク=ノルウェー
神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領
ロシア・ツァーリ国
部門 デンマーク陸軍(1675年 - 1682年)
帝国陸軍(1682年 - 1699年)
ザクセン陸軍(1699年)
ピョートル大帝陸軍(1700年 - 1702年)
軍歴1675年 - 1699年
1700年 - 1702年
最終階級中将(デンマーク陸軍)
陸軍元帥(帝国陸軍、ピョートル大帝陸軍)
戦闘スコーネ戦争

大トルコ戦争

大北方戦争

配偶者ヴィルヘルミナ・ユリアナ・ファン・デン・ベルフ
ヒエロニマ・カタリーナ・フォン・シュパー

生涯 編集

父はジャック・フィリップ・ド・クロイ=ルー(1614年 - 1685年)で、アントワーヌ1世・ド・クロイの息子ジャン3世の子孫である。母は陸軍元帥ヨハン・ヤコブ・ファン・ブロンクホルストの娘ヨハンナ・カタリーナ・ファン・ブロンクホルストであった。

シャルル・ウジェーヌはヘンドリック・ファン・デン・バーグの娘で13歳年上のヴィルヘルミナ・ユリアナ・ファン・デン・ベルフと結婚した。2人の間には子供が生まれなかった。

シャルル・ウジェーヌはスコーネ戦争においてはデンマーク軍に加わり、最初は志願将校であったが、その勇敢さにより早くに大佐となった。1676年のルンドの戦いと1677年6月のマルメ包囲戦に参加したが、重傷を負った。同年11月、負傷から回復したシャルル・ウジェーヌは、戦争によりデンマークの主要拠点であったランズクルーナの知事に任命された。しかし、気位の高さと大陸的な礼儀のため人気は低く、1か月も経たないうちにハンス・ヴィルヘルム・フォン・メールハイムが後任となった[2]

その後、シャルル・ウジェーヌはオーストリア軍としてオスマン・トルコと戦い成功を収め、1683年のウィーン解放と1690年のベオグラード攻撃の両方に参加した。1692年10月18日、シャルル・ウジェーヌはペトロヴァラディン要塞の礎を築き、その功績により帝国陸軍元帥に昇進した。

1697年、ロシア皇帝ピョートル大帝に仕え始め、リヴォニアで軍隊を指揮した(この時点のリヴォニアはスウェーデンとポーランド連邦の一部を形成していた)。シャルル・ウジェーヌは1700年11月20日のナルヴァの戦いでロシア軍を率いて降伏し、スウェーデン軍の捕虜となった。

シャルル・ウジェーヌは1702年に捕虜としてレーバル(タリン)で亡くなった。債権者の要求により、聖ニコラウス教会に安置されていた遺体は190年以上埋葬されず、ミイラ化し展示された[3]

脚注 編集

  1. ^ Bushkovitch 2001, p. 225
  2. ^ Jensen 1900, p. 320
  3. ^ Schuyler 2004, p. 489

参考文献 編集

  • Bushkovitch, Paul (2001). Peter the Great: The Struggle for Power, 1671-1725. Cambridge, England: Cambridge University Press. ISBN 0-521-80585-6. https://books.google.com/books?id=6ZPajB4XyIwC&q=Charles+Eugene&pg=PA225 
  • Jensen, N.P. (1900). Den skaanske krig. Copenhagen 
  • Schuyler, Eugene (2004). Peter the Great. Part One. Kessinger Publishing. ISBN 1-4179-7142-8. https://books.google.com/books?id=-bnDTGNA6b0C