ジョン・マイケル・ジャーウッド英語: John Michael Jerwood MC1918年9月17日 - 1991年6月23日)は、イギリス及び日本の宝石商、日本の大学教授。ジャーウッド財団英語版を設立したことで知られる。

ジョン・ジャーウッド
John Jerwood
生誕 1918年9月17日
イギリスの旗 イギリス ロンドン
死没 1991年6月23日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク
墓地 日本の旗 日本 東京都
職業 実業家 慈善活動家
教授一橋大学
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概要

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1918年に生まれ、生後六ヶ月の時に父で宝石商だった父のジョン・ヒュー・ジャーウッドが第一次世界大戦戦死した。彼の母親セシリア・メアリー・ハークローツ(旧姓 Powles)は、1920年映画プロデューサーアーサー・ウェルズリー・ランストリィ・フォセット英語版と再婚した。[1]彼は彼の父親のようにオーカムスクール英語版で教育を受け、1935年からロンドンで叔父Frank Jerwoodの真珠と貴石の事業に参入した。

第二次世界大戦が勃発すると1940年に従軍し、イギリス陸軍第23師団第8大隊キングス・オウン・ヨークシャー軽歩兵英語版に配属される。大佐に任命されたジョンはナチスドイツからアリエリという町を解放する作戦を展開し、1944年には武功十字章英語版を授与されている。その後イタリアで第一大隊に配属され、戦後は飛行中尉として王立空軍に転籍し1958年には除籍されている。

一方戦後すぐに叔父が亡くなると代々の宝石事業を相続し、一旦手を引いていた真珠ビジネスに着手する。父が生前日本政府関係の仕事をしていた縁で行っていた真珠養殖を拡大させ、たちまちに成功し財を成した。[2]1948年には日本の虎ノ門に家を建て、1950年に川井杉子と結婚した。二人の間に生涯子供はできなかった。また1983年時点で東京の一橋大学に教授として籍を置いていた。1991年ニューヨークで亡くなるまで日本で生活を続け、晩年まで日本の医療株などに投資を行っていた。

1977年ジャーウッド財団英語版を立ち上げおよそ9000万ポンドを投じる。[3]当初より弁護士のアラン・グリーヴ英語版らが運用に当たる。 財団は今日でも最も活動的なもののひとつとして、特に奨学金給付や芸術への投資で著名である。

財団の活動

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ケンブリッジのトリニティ・ホールにあるジャーウッド図書館英語版(1999年開館)

参考文献

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  1. ^ Cambridge Daily News 1 November 1920, page 2
  2. ^ 日本の秘境, 華麗なる一族廃墟 - 過去への旅 html line No.477
  3. ^ Simon Tait, "Alan Grieve: Is the future of the arts in his hands? A serial giver owns up", The Independent, 11 March 2012.