ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴェッルーティ

ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴェッルーティ(Giovanni Battista Velluti、1780年1月28日 - 1861年1月22日)は、イタリアカストラート歌手。

ヴェッルーティの肖像

カストラートの衰退した1820年代まで活動し、オペラ歌手として活動した最後のカストラートとして知られる。ヴェッルーティ以降にもカストラートは存続したが、教会で歌うために存在し、カストラートのために劇場作品が作られることはなくなった。

生涯 編集

ヴェッルーティはモントルモ(今のコッリドーニア)に生まれた。1801年にフォルリでデビューして以来、ナポリローマミラノヴェネツィアトリノなどイタリア各地で歌っている[1]

1813年にミラノのスカラ座ロッシーニパルミラのアウレリアーノ』でアルサーチェ役を歌った[2]。アルサーチェはロッシーニがカストラートを使用した唯一の例として知られる[3]

1821年にヴェネツィアのフェニーチェ劇場サヴェリオ・メルカダンテのオペラ『アンドロニコ (it:Andronico (Mercadante)』でタイトルロールのアンドロニコを歌った。

1822年にはフェニーチェ劇場でフランチェスコ・モルラッキ (Francesco Morlacchi『テバルドとイゾリーナ (it:Tebaldo e Isolina』の男性主役テバルドを歌った[4]。同年、メルカダンテの『アルフォンソとエリーザ (it:Alfonso ed Elisa』の男性主役アルフォンソを歌った。

1824年にフェニーチェ劇場でマイアベーアエジプトの十字軍』のアルマンド役を歌った。この作品はカストラートの歌う最後のオペラと考えられている[5]

1825年にロンドンを訪問し、『エジプトの十字軍』でデビューした。ロンドンには1829年まで滞在した。1826年には歌うだけでなく監督も行い、『テバルドとイゾリーナ』と『パルミラのアウレリアーノ』を公演したが失敗に終わった[6]。当時の人々はすでにカストラートに批判的になっており、1829年にロンドンでヴェッルーティがマイル『スコットランドのジネヴラ』中の曲を歌うのを聞いたフェリックス・メンデルスゾーンは嫌悪感を表明している[6]。なおロンドンで歌った最後のカストラートは1844年のパオロ・ペルジェッティである[5]

イタリアに戻った後、1833年まで歌ったが[6]、その後は引退してヴェネツィアに近いドーロのサンブルソンに邸宅を構え、そこで1861年に没した[1]

脚注 編集