ゼノ・ゼブロフスキー
ゼノ・ゼブロフスキー(Zenon Żebrowski、本名:ヴワディスワフ・ゼブロフスキー(Władysław Żebrowski)1891年12月27日[1] - 1982年4月24日)は、ポーランド出身のカトリックの修道士。「蟻の街の神父」として知られ[2]、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れた。日本人のイメージから「ゼノ神父」と呼ばれることがあるが[3]、司祭(神父)ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士である[4]。
ゼノ・ゼブロフスキー Zenon Żebrowski | |
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1959年 | |
生誕 |
1891年12月27日 ポーランド マゾフシェ県 オストロウェンカ郡 スロバ村 |
死没 |
1982年4月24日(90歳没) 日本 東京都 |
国籍 | ポーランド |
別名 | ゼノ神父 |
職業 | 修道士 |
著名な実績 |
聖母の騎士誌の普及 社会福祉活動 |
宗教 | カトリック教会 |
受賞 | 勲四等瑞宝章 |
生涯
編集1891年、ポーランドのマゾフシェ県オストロウェンカ郡スロバ村でヨゼフ・ゼブロフスキーとアンナ・コゾンの5人の子供の四男として生まれる。その後、第一次世界大戦のおりに軍隊に志願する。除隊後、職を転々としていたが、 1924年11月13日、聖スタニスラス・コストカ[5] の祝日のミサでの説教に影響を受け、1925年5月10日にコンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会する。1928年12月15日に修道誓願を立てる。1930年4月24日、マキシミリアノ・コルベ神父やヒラリウス修道士たちと共に来日[6]。
来日後は長崎でコルベ神父らとともに、布教誌「聖母の騎士」の出版と普及に力を入れた。ゼノ修道士は全国各地に赴いた。1936年にポーランド管区本部の命令でコルベ神父が帰国した後も、日本で活動を続けていたが、1945年8月9日、長崎市への原子爆弾投下で被災(被爆)する[7]。
戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし[8]、東京・浅草のバタヤ街[9](のちに「蟻の街」の名で著名になる)など全国各地で支援活動[10]を行う。1950年1月10日の例では、払い下げを受けた鉄道員用上衣200着をもって上野駅を訪問、地下道に身を寄せる市民らに配布した。朝日新聞は、この支援活動の姿を「青い目の福の神」として報じている[11]。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれた[6]。
献身的な社会福祉活動に、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られた。またポーランドからは1976年にポーランド人民功労勲章(現ポーランド共和国功労勲章)第4等が授与された。1981年2月に来日した教皇ヨハネ・パウロ2世は、ゼノ修道士の入院先を訪問。ポーランド出身の教皇はポーランド語で語りかけ、長年の活動に敬意を表した[12]。1982年4月24日、東京で死去[6][13]。
1957年から1961年までポーランド人民共和国駐日大使を務めたタデウシュ・ゼブロフスキーはゼノ修道士の兄弟[14]。
脚注
編集- ^ Find A Grave Memorial
- ^ 「ゼノさん」「アリの街のマリア」...知っていますか? 7月、東京で写真資料展 Huffpost(2017年6月27日)
- ^ 桑原 2002, p. 168.
- ^ Ojciec Kolbe i Brat Zeno Wybrane epizody w historii stosunków japońsko-polskich
- ^ 13日聖スタニスラス・コストカ Laudate 女子パウロ会
- ^ a b c Biography Brother Zeno in Japan
- ^ 桑原 2002, p. 106-115.
- ^ 桑原 2002, p. 131-132.
- ^ 桑原 2002, p. 244.
- ^ 桑原 2002, p. 260-265.
- ^ 「雪の日に温かい贈物」『朝日新聞』昭和26年1月11日
- ^ 桑原 2002, p. 286-290.
- ^ 桑原 2002, p. 305.
- ^ Kalendarium Stosunków Polsko - Japońskich(1957) Ambasada PRL w Tokio
参考文献
編集- 桑原一利『天使のゼノさん -日本二十六聖人の祈り-』聖母の騎士社、2002年10月20日。ISBN 4-88216-230-X。