タガイ・テムルモンゴル語: Taγai temür、生没年不詳)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた将軍の一人で、タタル部の出身。『元史』などの漢文史料における漢字表記は塔海帖木児(tǎhǎi tièmùér)で、タハイ・テムルとも表記される。

概要 編集

タガイ・テムルの先祖は「左手の万人隊長(左翼万人隊長)」国王ムカリの配下にあって金朝との戦いに活躍した人物で、金の将軍の王公佐を討ち取る功績を残している。曾祖父の忒木勒哥は四川方面の侵攻に従事し、興元にて戦死した。祖父のジャライルタイ(札剌帯)が亡くなった時、父のバイダル(拝答児)はまだ幼かったため、家督は従祖父の札里・答朮が継ぎ、都元帥タイダル(太答児)の四川侵攻に加わって南宋軍を巴州に破る功績を挙げた。バイダルが成長すると、家督を継いでイェスデル(タイダルの息子)の指揮下に入ったが、ガインドゥ/建都との戦いで戦死した[1]

タガイ・テムルは父の職を受け継ぐと、まず嘉定の攻略に加わった。嘉定の陥落後は重慶の攻略戦に加わり、タガイ・テムルは敵将の張玨の陣を破る功績を挙げた。1278年(至元15年)には白水江の戦いで南宋軍を破り、敵船一艘を奪い、敵兵13人を捕虜とする功績を挙げたことで、宣武将軍・管軍総管に昇格となった[2]。その後もイェスデルの配下で四川・雲南一帯の諸民族討伐に従事していたが、1289年(至元26年)以後の記録は残っていない[3]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻135列伝22塔海帖木児伝,「塔海帖木児、答答児帯人。其先在太祖時事国王木華黎、将左手大万戸下蒙古軍、鎮太原以西八州。破金将王公佐軍、斬公佐。従攻陝右、征河西、滅金、皆有功、賜種田戸二百七十。曾祖忒木勒哥嗣、従都元帥塔海紺卜征蜀、死於興元。祖札剌帯嗣。札剌帯卒、父拝答児尚幼、従祖札里・答朮相継襲其職。札里従都元帥太答児征蜀、以所統軍二百人破宋軍于巴州、斬首三百級、生擒五十餘人。答朮以西川行枢密院檄領兵三千人救碉門、大敗宋軍、斬首三百餘級、俘百餘人以帰。拝答児既長、始以父官従行省也速答児征建都、死軍中」
  2. ^ 『元史』巻135列伝22塔海帖木児伝,「塔海帖木児襲父職、初従行院忽敦団嘉定、嘉定降。進団重慶、守将張玨出師迎敵、塔海帖木児力戦陥陣、功最多。十五年、又以都魯軍二百人破宋軍於白水江、奪戦船一、俘其衆十三人。陞宣武将軍・管軍総管。従也速答児征亦奚不薛、又従征都掌蛮、皆以為前鋒、殺獲甚衆」
  3. ^ 『元史』巻135列伝22塔海帖木児伝,「九渓蛮・散猫・大盤蛮尚木的世用等叛、従行省曲立吉思帥師往討、皆擒之、及殺其酋長頭狗等。也速答児・薬剌罕率兵万人会雲南兵討烏蒙蛮、至鬧竈、其酋長阿蒙率五百餘衆奔麻布蛮地、塔海帖木児以四百人追至山箐中、大敗之、擒阿蒙以帰。二十六年、又従也速答児西征、不知所終」

参考文献 編集