チャールズ・ゴールトン・ダーウィン

チャールズ・ロバート・ダーウィンの孫としても知られるイギリスの物理学者。

チャールズ・ゴールトン・ダーウィンCharles Galton DarwinKBE MC FRS[1](1887年12月19日 - 1962年12月31日)はイギリスの物理学者第二次世界大戦を含む1938年から1949年の間、イギリス国立物理学研究所(NLP)で所長を務めた。[2]

サー
チャールズ・ゴールトン・ダーウィン
KBE MC FRS
生誕 チャールズ・ゴールトン・ダーウィン
(1887-12-19) 1887年12月19日
ケンブリッジイングランド
死没 1962年12月31日(1962-12-31)(75歳没)
ケンブリッジ、イングランド
国籍 イギリス
研究分野 物理学者
研究機関 イギリス国立物理学研究所
ビクトリア大学マンチェスター校
王立工兵隊英語版
クライスツ・カレッジ (ケンブリッジ大学)
カリフォルニア工科大学
エディンバラ大学
マンハッタン計画
出身校 トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)
指導教員 アーネスト・ラザフォード
ニールス・ボーア
主な業績 ダーウィン項
ダーウィン・ラグランジアン英語版
ダーウィン・ドリフト英語版
ダーウィン=ラドー方程式英語版
ダーウィン=ファウラーの方法英語版
主な受賞歴 ロイヤルメダル (1935)
王立協会フェロー[1]
補足
プロジェクト:人物伝
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父に数学者ジョージ・ハワード・ダーウィン、祖父に生物学者チャールズ・ロバート・ダーウィンがいる。

学位取得まで

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ダーウィンはイギリスのケンブリッジにある邸宅、ニューナム・グレインジ英語版で生まれた[3]

父は数学者ジョージ・ハワード・ダーウィン、母はモード・ダーウィン英語版である。また祖父は生物学者のチャールズ・ロバート・ダーウィンである。 兄弟として姉に彫刻家グウェン・ラヴェラ英語版、妹に経済学者ジョン・メイナード・ケインズの弟で外科医であり作家ジェフリー・ケインズ英語版の妻のマーガレット・ケインズ、弟にロンドンの株式仲買人のウィリアム・ロバート・ダーウィンがいる。

1901年から1906年にかけてダーウィンは、ウィルトシャーのマールバラにあるパブリック・スクールマールバラ・カレッジ英語版に通い、その後、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ数学を専攻し、1910年に修士(MA)で卒業した。

業績

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ダーウィンは、マンチェスター大学アーネスト・ラザフォードの学生として、博士研究員として来ていたニールス・ボーアとともに、原子の理論的研究を行った。1912年、ダーウィンの関心は数学面でヘンリー・モーズリーX線回折の研究を補佐することに移った。1914年にダーウィンは完全結晶を透過するX線の動力学的回折理論に関する2つの論文を出版した。ダーウィンは論文において、反射率に関するダーウィン曲線を見出した。1922年にはモザイク結晶英語版のモデルを導入した。

第一次世界大戦の勃発に伴い、ダーウィンは検閲官として任命されフランスへ送られた。1年後、ウィリアム・ローレンス・ブラッグによりダーウィンは王立工兵隊英語版へ送られ、音響測距英語版により敵の大砲の位置を推定する仕事に従事した。[4] 研究が着実なものとなったころ、ダーウィンは航空機の騒音の研究のためにイギリス空軍へ送られた。1919年から1922年の間、ダーウィンはケンブリッジ大学のクライスツ・カレッジにて講師とフェローを務めた。クライスツ・カレッジにてダーウィンは、ラルフ・ファウラー英語版とともに統計力学の研究をし、今日ダーウィン=ファウラーの方法英語版と呼ばれる手法を開発した。1923年の1年間、ダーウィンはカリフォルニア工科大学に勤務し、量子光学磁気光学効果の研究を行った。1924年にはエディンバラ大学のテイト教授職を得た。1928年には、ポール・ディラック電子に関する相対論的量子力学の理論から水素原子の微細構造を計算した。ダーウィンがエティンバラ大学に勤める間、ロバート・シュラップ英語版が助手を務めた。[5]

1936年、ダーウィンは物理学者のマックス・ボルンにテイト教授職を打診し、ボルンは即座にその提案を受けた。同時にダーウィンはクライスツ・カレッジの学寮長になるため、エディンバラ大学の職を辞した。以後、有能な管理職としての道を進み始め、第二次世界大戦の近づく1938年にはイギリス国立物理学研究所の所長に就任した。戦後には研究所の業績向上の目指し組織再編を推し進めたが、戦中の殆どの期間はマンハッタン計画に参加していた。

1942年、ダーウィンは大英帝国勲章を授与した。1952年にはアメリカ哲学協会の会員に選ばれた。[6]

私生活

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1925年にダーウィンは、フランシス・ウィリアム・ペンバー英語版の娘で数学者のキャサリン・ペンバーと結婚した。ダーウィン夫妻は息子4人と娘1人をもうけた:

戦時中、ダーウィンは余暇の間、英語綴り字協会の副会長を務めた。[7]

引退を期に、ダーウィンの関心は人口問題や遺伝学優生学に移った。ダーウィンの結論は悲観的であり、1952年の著書 The Next Million Years においてマルサス的な破局は避けられないとした。ダーウィンは、自主的な出生抑制(家族計画)は必然的に失敗すると主張した。ダーウィンによれば、子供を増やそうとする本能が最も強い人が最も大きな家族を持ちまたその本能は親から子へ受け継がれ、一方で本能が弱い人はより小さな家族を持ちその本能も子孫へ受け継がれるため、究極的には劣生学的な効果を及ぼし、長期的には子供を増やす傾向の強い人々が社会の多くを占めるようになる。そのため、人口抑制の目的で家族計画は成功しないとダーウィンは主張した。[8]

後年、ダーウィンは国境を超えて科学的な考えを研究し、また広めることに努めた。

ダーウィンは1962年の大晦日に生家であるケンブリッジのニューナム・グレインジで死去した。遺体は1963年1月4日にケンブリッジ市内で火葬された。ダーウィンは妻キャサリンとともにケンブリッジの聖ボトルフ教会で追悼された。キャサリンは火葬され、彼女の住んだウィンブルドンで葬儀が行われた。

著書

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  • The New Conceptions of Matter (1931)
  • The Next Million Years (1952)

出典

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  1. ^ a b Thomson 1963.
  2. ^ O'Connor, John J.; Robertson, Edmund F., “チャールズ・ゴールトン・ダーウィン”, MacTutor History of Mathematics archive, University of St Andrews, https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Darwin_C_G/ .
  3. ^ Waterston & Shearer 2006, p. 236, DARWIN, SIR CHARLES GALTON.
  4. ^ Van der Kloot, W (2005). “Lawrence Bragg's role in the development of sound-ranging in World War I.”. Notes Rec. R. Soc. Lond. 59 (3): 273–284. doi:10.1098/rsnr.2005.0095. 
  5. ^ Robert Schlapp M.A.(Edin.), Ph.D.(Cantab.)—RSE Obituary”. mathshistory.st-andrews.ac.uk. 2022年9月16日閲覧。
  6. ^ APS Member History”. Search.amphilsoc.org. 2022年9月16日閲覧。
  7. ^ The Simplified Spelling Society Officers and Committee Members”. The Spelling Society. 2008年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年5月27日閲覧。
  8. ^ Carl Jay Bajema (ed) Eugenics. Then and Now, Dowden, Hutchinson, & Ross Inc. , 1976, p. 294–298.

参考文献

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  • Thomson, G. P. (1963). “Charles Galton Darwin. 1887-1962”. Biographical Memoirs of Fellows of the Royal Society 9: 69–85. doi:10.1098/rsbm.1963.0004. 
  • Waterston, Charles D.; Shearer, Angus Macmillan (2006-02-11). Biographical index of former fellows of the Royal Society of Edinburgh 1783 – 2002, part 1, A-J. The Royal Society of Edinburgh. pp. 496. ISBN 0-902-198-84-X. https://rse.org.uk/resources/resource/biographical-index-former-rse-fellows-1783-2002-part-1-j/ 2022年9月15日閲覧。 

外部リンク

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学職
先代
ノーマン・マクリーン英語版
ケンブリッジ大学クライスツ・カレッジ学寮長
1936–1939
次代
チャールズ・アール・レイヴン英語版
官職
先代
ローレンス・ブラッグ
イギリス国立物理学研究所所長
1938–1949
次代
エドワード・ブラード