ツール・ド・フランス1950
ツール・ド・フランス1950は、ツール・ド・フランスとしては37回目の大会。1950年7月13日から8月7日まで、全22ステージで行われた。
Route of the 1950 Tour de France followed counterclockwise, starting and finishing in Paris | |||
レース詳細 | |||
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開催期間 | 13 July – 7 August 1950 | ||
ステージ | 22 | ||
全行程 | 4,773 km (2,966 mi) | ||
優勝タイム | 145h 36' 56" () | ||
レース結果 | |||
優勝 | Ferdinand Kübler (SUI) | (Switzerland) | |
2位 | Stan Ockers (BEL) | (Belgium) | |
3位 | Louison Bobet (FRA) | (France) | |
山岳賞 | Louison Bobet (FRA) | (France) | |
チーム時間賞 | Belgium | ||
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レース概要
編集第11ステージ(ポーからサン・ゴダンまで)において、西(フランス)チームのジャン・ロビックが、イタリアチームのエースであるジーノ・バルタリに転倒させられ、この区間を制したバルタリに対して、3分59秒遅れてゴールした。またこのステージ終了後、マイヨ・ジョーヌはイタリアのフィオレンツォ・マーニへと移動。
ところが、翌、第12ステージ開始前より、前日の一件に加え、イタリア人選手のマーニが総合首位ということに対して、多くの観客がイタリアチーム選手に対して怒号と非難を浴びせ続けた。これを受け、イタリアチーム監督のアルフレッド・ビンダは、同ステージ途中でイタリア選手全員をリタイアさせることを決めた。
これにより、第11ステージ終了時点では、首位マーニに対して2分31秒差の2位だった、スイスのフェルディナント・キュプラーが第12ステージ終了時点でトップに立った。キュプラーはアルプス越えステージにおいて安定した走りを見せた。そして、第20ステージの個人タイムトライアルでは、追いすがるベルギーのスタン・オッカーを突き放し、見事、スイス国籍選手として初のツール・ド・フランス総合優勝を果たした。
ちなみにロビックは、キュプラーに遅れること59分45秒差の12位で完走した。
総合成績
編集順位 | 選手名 | 国籍 | 時間 |
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1 | フェルディナント・キュプラー | スイス | 145時間36分56秒 |
2 | スタン・オッカー | ベルギー | +9分30秒 |
3 | ルイゾン・ボベ | フランス | +22分19秒 |
4 | ラファエル・ジェミニアーニ | フランス | +31分14秒 |
5 | ジャン・キルシェン | ルクセンブルク | +34分21秒 |
6 | クレベール・ピオ | フランス | +41分35秒 |
7 | ピエール・コガン | フランス | +52分22秒 |
8 | レイモン・アンパニ | ベルギー | +53分34秒 |
9 | ジョルジュ・ミェニエ | フランス | +54分29秒 |
10 | ジャン・ゴルトシュミット | ルクセンブルク | +55分21秒 |
マイヨ・ジョーヌ保持者
編集選手名 | 国籍 | 首位区間 |
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ジャン・ゴルトシュミット | ルクセンブルク | 第1-第2、第6 |
ベルナール・ゴティエ | フランス | 第3-第5、第7-第10 |
フィオレンツォ・マーニ | イタリア | 第11 |
フェルディナント・キュプラー | スイス | 第12-最終 |
各部門賞結果
編集第37回 ツール・ド・フランス 1950 | |
全行程 | 22区間、 4775km |
総合優勝 | フェルディナント・キュプラー 145時間36分56秒 |
2位 | スタン・オッカー +9分30秒 |
3位 | ルイゾン・ボベ +22分19秒 |
4位 | ラファエル・ジェミニアーニ +31分14秒 |
5位 | ジャン・キルシェン +34分21秒 |
山岳賞 | ルイゾン・ボベ 58ポイント |
2位 | スタン・オッカー 44ポイント |
3位 | ジャン・ロビック 41ポイント |