フランス

西ヨーロッパの国
フランス共和国
République française
フランスの国旗 フランスの紋章
国旗 国章に準じる紋章
国の標語:Liberté, Égalité, Fraternité
(フランス語: 自由、平等、友愛
国歌La Marseillaise(フランス語)
ラ・マルセイエーズ
フランスの位置
公用語 フランス語
首都 パリ
最大の都市 パリ
政府
大統領 エマニュエル・マクロン
首相 ジャン・カステックス
元老院議長ジェラール・ラルシェ
国民議会議長リシャール・フェラン
面積
総計 551,500km251位[1]
水面積率 0.2%
人口
総計(2020年 62,814,233人(21位[1]
人口密度 113人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2012年 2兆0377億[2]ユーロ (€)
GDP(MER
合計(2012年 2兆5804億[2]ドル(5位
GDP(PPP
合計(2012年2兆2525億[2]ドル(8位
1人あたり 35,519[2]ドル
建国
西フランク王国カロリング朝時代)843年8月10日[1]
フランス王国カペー朝成立以後)987年
フランス第一共和政1792年8月10日
フランス第五共和政(現行)1958年10月4日
通貨 ユーロ (€)(EUR[注 1][注 2]
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 FR / FRA
ccTLD .fr
国際電話番号 33
  1. ^ a b c CIA World Factbook/France
  2. ^ a b c d IMF>Data and Statistics>World Economic Outlook Databases>By Countrise>France

この表のデータは本土のみで、海外県・属領を含まない。

フランス共和国(フランスきょうわこく、: République française)、通称フランス: France)は、西ヨーロッパカリブ太平洋、およびインド洋に位置する共和制国家。首都はパリ

フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。この他世界各地に海外地域および領土を有する。

国名編集

 
エッフェル塔パリ、およびフランスのシンボルで、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造された。

正式名称はフランス語で、République françaiseレピュブリク・フランセーズ)。通称、Franceフランス)。略称、FR

日本語の表記は、フランス共和国。通称、フランス。また、漢字による当て字で、仏蘭西(旧字体:佛蘭西)、法蘭西(中国語表記由来)などと表記することもあり、)と略されることが多い。英語表記はFrance、国民・形容詞はFrench

国名の France は、11世紀の『ローランの歌』においてまではさかのぼって存在が資料的に確認できるが、そこで意味されている Franceフランク王国のことである。一方で987年に始まるフランス王国[1] に、France という名前が用いられているが、これは後代がそのように名づけているのであって、その時代に France という国名の存在を認定できるわけではない。また中世のフランス王REX FRANCUS と署名している。France は中世ヨーロッパに存在したフランク王国に由来すると言われる。その証左に、歴代フランス王の代数もフランク王国の王から数えている(ルイ1世ルイ16世を参照)。作家の佐藤賢一は、ヴェルダン条約でフランク王国が西フランク中フランク東フランクに3分割され、中フランクは消滅し、東フランクは神聖ローマ皇帝を称したため、フランク王を名乗るものは西フランク王のみとなり、フランクだけで西フランクを指すようになった、と説明している[2]ドイツ語では、直訳すればフランク王国となる Frankreichフランクライヒを未だにフランスの呼称として用いている。これと区別するために、ドイツ語でフランク王国は Frankenreichフランケンライヒと呼んでいる。多くの言語ではこのフランク王国由来の呼称を用いている[注 3]

フランスの歴史は現代世界史の幹である。ブルボン朝最盛期のフランスはヨーロッパ最大の人口を有し、ヨーロッパの政治・経済・文化に絶大な影響力を持った。フランス語は外交の舞台での共通語となった。現在は国連事務局作業言語である。フランスは17世紀以降1960年代まで、大英帝国に次ぐ広大な海外植民地帝国を有した。1919年から1939年、フランスの面積は最大となり(12,347,000km2)、世界の陸地の8.6%を占めた。

ローマ帝国の支配編集

現在のフランスに相当する地域は、紀元前1世紀まではマッシリア(現・マルセイユ)などの地中海沿岸のギリシャ人の植民都市を除くと、ケルト人が住む土地であり、古代ローマ人はこの地をガリア(ゴール)と呼んでいた。ゴールに住むケルト人はドルイドを軸に自然を信仰する独自の文化体系を持っていたが、政治的には統一されていなかった。

紀元前219年に始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴ帝国の将軍ハンニバル南フランスを抜けてローマ共和国の本拠地だったイタリア半島へ侵攻したが、ゴールには大きな影響を及ぼさなかった。

 
『ユリウス・カエサルの足元に武器を放るヴェルサンジェトリクス』

その後、カルタゴを滅ぼしたローマは西地中海最大の勢力となり、各地がローマの支配下に置かれた。ゴールも例外ではなく、紀元前121年には南方のガリア・ナルボネンシスが属州とされた。紀元前1世紀に入ると、ローマの将軍・カエサル紀元前58年にゴール北部に侵攻した(ガリア戦争)。ゴールの諸部族をまとめたヴェルサンジェトリクスは果敢に抵抗したが、ローマ軍はガリア軍を破ってゴールを占領し、ローマの属州とした。ゴールはいくつかの属州に分割された。そしてラティフンディウムが作られた。

ローマの平和の下でケルト人のラテン化が進み、ガロ・ローマ文化が成立した。

360年にゴール北部の都市・ルテティアパリと改名された。

5世紀になるとゲルマン系諸集団が東方から侵入し、ガリアを占領して諸王国を建国した。

フランク王国とフランスの成立編集

476年西ローマ帝国が滅びると、ゲルマン人の一部族であるフランク族クローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めた。508年にメロヴィング朝はパリに遷都し、メロヴィング朝の下でフランク族はキリスト教とラテン文化を受け入れた。メロヴィング朝のあとはピピン3世カロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝トゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させた。

シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ね、現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一した。シャルルマーニュのもとでヨーロッパは平静を取り戻し、カロリング・ルネサンスが興った。800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられた。シャルルマーニュの没後、フランク王国は3つに分裂した(西フランク王国中フランク王国東フランク王国)。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの見解によると、これらはそれぞれ現在のフランス・イタリアドイツの基礎となった。また、この時期に古フランス語の形成が始まった。

987年、西フランク王国が断絶し、パリ伯ユーグ・カペーフランス王に選出されてフランス王国が成立した。カペー家に始まるカペー朝、そしてヴァロワ朝ブルボン朝は、戦争と家領相続を通じて次第に国を統一していった。 1209年アルビジョア十字軍が開始され、異端とされたオクシタニア(現・南フランス)のカタリ派を殲滅した。その結果、カタリ派とともに独立性の強かった南フランスの諸侯も滅ぼされた[3]1337年から、フランスはイングランドとの百年戦争1337年 - 1453年)を戦っている[4]

絶対王政編集

1534年ジャック・カルティエガスペ半島十字架を建て、ヌーベルフランスを宣言した。1562年、宗教摩擦からユグノー戦争が30年以上も続いたが、1598年、ナントの勅令を発して内戦に終止符を打った。

 
「太陽王」ルイ14世

1643年ルイ14世が即位した。1673年フランス東インド会社ポンディシェリを取得した。1685年にはフォンテーヌブローの勅令によりナントの勅令を廃止した。

1748年、シャルル・ド・モンテスキューが『法の精神』を発表した。1762年、ジャン=ジャック・ルソーが『社会契約論』を発表した。フランスはアメリカアフリカアジアに広大な海外領土を獲得していたが、1756年からの七年戦争でフランスは孤立し、1763年パリ条約北米植民地戦争フレンチ・インディアン戦争が終結し、ヌーベルフランスイギリスによる植民地時代に移った。1769年フランス東インド会社からフランス領インドフランス語版英語版が成立した。特に重要だったカリブ海の植民地のサン=ドマングにおいては、奴隷貿易によって導入された黒人奴隷を酷使したサトウキビコーヒープランテーションが築かれ、莫大な歳入がフランスにもたらされた。

共和制と帝政編集

 
アルプスを越えるナポレオンジャック=ルイ・ダヴィッド

1789年フランス革命が起きて王政は倒れた。1791年ハイチ革命が勃発。1793年ルイ16世マリー・アントワネットが処刑され、同時に数千人ものフランス市民が恐怖政治の犠牲となった[5]

1799年ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握って第1統領となった。やがてナポレオンは皇帝に即位して第一帝政1804年 - 1814年)を開き、ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパを圧倒し、この戦争で数百万人が犠牲となった[6]1803年フランス領ルイジアナアメリカ売却1804年ハイチ革命が終わり、ハイチ帝国が一応の独立を果した。1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた。

フランスは王政復古したが、王の権力は憲法に制約された。1848年2月革命第二共和政となった。1851年12月2日のクーデターフランス語版英語版が起き、1852年12月2日にルイ・ナポレオン(ナポレオン3世、ナポレオン・ボナパルトの甥)が第二帝政を開いた。ナポレオン3世はボナパルティズム的手法[注 4]で内政を固めた。中国インドシナ半島メキシコ日本などへ積極的に出兵した(アロー戦争コーチシナ戦争英語版メキシコ出兵下関戦争)。1870年普仏戦争に敗北しルイ・ナポレオンは退位した。パリ・コミューンは鎮圧され、第三共和政が打ち立てられた。

フランスはトンキン戦争英語版1882年)と清仏戦争1884年 - 1885年)に勝利した。ここにフランス領インドシナ1887年 - 1954年)が成立した。国内ではブーランジェ将軍事件1886年 - 1889年)が起きた。1893年シャム仏泰戦争英語版1894年にはドレフュス事件が勃発した。アフリカ分割の時代には、1895年フランス領西アフリカモーリタニアセネガルマリ共和国ギニアコートジボワールニジェールブルキナファソベナン)が成立した。1894年露仏同盟を締結した。1905年、フランスがモロッコに進出しドイツが反発した(第一次モロッコ事件)。1910年フランス領赤道アフリカガボンコンゴ共和国中央アフリカ共和国チャド)が成立した。1913年、アルザスロレーヌ地方(エルザス州・ロートリンゲン州)でツァーベルン事件が起こった。

世界大戦と植民地戦争編集

フランスは第一次世界大戦第二次世界大戦の主戦場となっている。第一次世界大戦では140万人が犠牲となっており[7]、このときは領土の一部が占領されただけにもかかわらず、全土を占領された第二次世界大戦よりも多くの犠牲を出した。

第二次世界大戦ではドイツ電撃戦に敗れた。第三共和政は崩壊し、フィリップ・ペタンを国家元首とするヴィシー政権が成立した。フランス本国はドイツによって北部、のちに全土が占領された。一方でシャルル・ド・ゴール率いる自由フランス連合国についた。1944年にフランス共和国臨時政府が帰還し、全土を奪還した。

戦後、第三のそれと変わらないフランス第四共和政が成立した。1946年フランス委任統治領シリアからシリア共和国英語版が独立した。1951年、欧州石炭鉄鋼共同体西ドイツと結成した。フランスはインドシナ支配権を回復するため第一次インドシナ戦争に臨み、1954年ディエンビエンフーの戦い(3 - 5月)でベトミンに大敗を喫した。11月1日フランス領インド英語版を返還したが(ポンディシェリ連邦直轄領)、その同日にアルジェリア戦争へ突入した。アルジェリア植民地の維持の是非と、植民者の帰還[8]をめぐって国論が割れ、内戦になりかけた。1956年にはモロッコチュニジアが独立を達成した。この脱植民地化時代、フランス領インドシナマグリブのみならず、ブラックアフリカの植民地においても独立運動が進んだ。

1958年6月1日、ド・ゴールが第四共和制の首相となった。1959年1月8日に強力な大統領権限を含んだ第五共和政が成立した。第五共和政初代大統領となったド・ゴールは、国内の統一を維持しながら戦争終結へ踏み出した。1958年10月2日ギニア独立を嚆矢として、アフリカの年こと1960年にほぼすべてのアフリカ植民地が独立した。第二次世界大戦後の冷戦構造のなかでフランスは自由主義陣営(西側)に属し、北大西洋条約機構の原加盟国でもある。しかしド・ゴールはヨーロッパの自主性を主張してアメリカと距離を置いた独自路線をとった。その米ソと並ぶ第三極を目指した政治姿勢はド・ゴール主義と呼ばれ、核兵器保有もその一環である。1960年にはトゥアレグが居住するサハラ砂漠核実験を強行した。1962年にアルジェリア戦争の和平交渉を妥結し、アルジェリアは独立した。1966年、フランスは北大西洋条約機構を正式脱退した。

政治編集

 
大統領 エマニュエル・マクロン
 
首相 ジャン・カステックス

1958年10月にフランスの憲法が制定され、半大統領制共和制となった。

直接選挙で選ばれる大統領(任期5年、2002年以前は7年)には、シャルル・ド・ゴールのときから首相の任免権や議会の解散権など強力な権限が与えられている。これは、立法府である議会より行政権の方が強い体制である。

また、大統領が任命する首相は、大統領にも議会にも責任を負っており、ともに行政権を持つ(半大統領制)。このため、大統領の所属政党と議会の多数派勢力が異なる場合、大統領自身が所属していない議会多数派の人物を首相に任命することがある。この状態をコアビタシオンと呼ぶ。こうした場合、大統領が外交を、首相が内政を担当するのが慣例となっているが、両者が対立し政権が不安定になることもある。

議会は二院制を採用し、上院にあたる元老院と、下院にあたる国民議会がある。元老院は間接選挙で選出され、任期は6年で3年ごとに半数を改選される。国民議会は直接選挙で選出され、投票に際して小選挙区制二回投票制が定められている。優先権は国民議会にあり、元老院は諮問機関としての色彩が強い。

主要政党としては、共和国前進(中道)、共和党(中道右派)、国民連合(極右)、社会党(中道左派)、労働者の闘争(極左)がある。

歴史ある中央集権官僚主義はフランスの政治体制を代表してきた。スウェーデンには遠く及ばないが、労働人口に対する公務員の比率は21.6%に達する[9]。世界でも屈指の強固さを持つ官僚主義に裏打ちされたその社会構造は、しばしば批判的な意味をこめて「官僚天国」「役人王国」などと形容される[10]

地方政治の現場においては、市町村長職こそフランス国籍保有者に限定されているが、市町村議員に関しては欧州連合諸国の出身者に地方議員の被選挙権を認めている。2020年1月時点で、約50万人いる地方議員うち外国人議員数は2500人近くとなっていた。しかし一方で2020年2月にイギリスの欧州連合離脱があり、フランス国内で活動してきたイギリス人議員が被選挙権を喪失。その数は約3分の1に相当する757人にのぼった[11]

警察・情報機関編集

  • 対外治安総局 (DGSE)(Direction Générale de la Sécurité Extérieure) -SDECE―防諜・外国資料局より改称。
  • 軍事偵察局 (DRM)(Direction du Renseignement Militaire) - 軍事偵察局 (国防省に属する機関)
  • 国内治安総局(DGSI) (Direction centrale du renseignement intérieur;)(内務省に属する機関)

軍事編集

フランスの国防政策は1959年シャルル・ド・ゴール政権が制定した「国防組織法」によって運営されている。大統領が最高司令官であり、その指導のもとに内閣委員会が国防政策、将官の任免、総動員令や戒厳の宣布などの意思決定機関として機能する。フランス革命からの徴兵制を廃止して志願制を採用した。2011年の軍事支出は625億ドルと、標準的な軍事費を維持している。

フランス軍陸軍空軍海軍および憲兵からなり、2002年の総兵力は44万人のうち、陸軍17万人、空軍7万人、海軍5.6万人、憲兵9.8万人、その他機関4万人であった。国外駐在兵力は約3万人で、うち太平洋地区の海外県(植民地)に約2万人、アフリカに6,500人、国際連合など国際組織の指揮下に9,000人がいる。また核兵器を保有しており、海軍の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦により運用される。現在もフランス外人部隊8個連隊を保有する。南仏オーバニュに司令部を置き、南仏各地も駐屯、コルシカポリネシアにも一部が駐屯する。2002年12月から西アフリカコートジボワールに外人部隊2,500人が派遣され、戦闘状態にある。

2013年に開始されたマリ共和国への軍事介入において、進展の遅れから軍の兵站が不十分である指摘する報道が行われた。国防予算の50%が軍人への給与や退職金などに費やされ、残りの予算も空軍機や空母など主力兵器の運用・導入が優先される予算配分に原因があると見られている[12]徴兵制廃止によって兵員の不足も発生しており、常備軍23万名の中で即時派兵が可能な戦力は3万名に留まっている。

フランス陸軍は地上作戦司令部、補給司令部、9個作戦旅団、2個補給旅団からなる。主要装備は戦車834輌、装甲車4,950輌、各種火砲802門、ヘリコプター498機である。

フランス海軍は戦略作戦司令部と海上、対潜掃海潜水艦などの専門作戦司令部からなる。主要装備は弾道ミサイル搭載原子力潜水艦4隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、原子力空母1隻、ヘリ空母1隻、ミサイル駆逐艦3隻、駆逐艦9隻、フリゲート20隻などである。

フランス空軍は6個攻撃戦闘機中隊、7個戦闘機中隊、2個偵察中隊、14個輸送機中隊、5個ヘリコプター中隊、2個電子戦中隊からなり、主要装備は作戦機433機、早期警戒管制機4機、偵察機4機、空中給油機45機、輸送機131機などである。

フランス国家憲兵隊は以前は国防省に属していたが、現在は軍籍は国防省に残置したうえで内務省に属し、警察業務を担当する。

国際関係編集

フランスは国際連合の原加盟国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国の一国である。多くの国際機関の加盟国でもあり、G7北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、フランコフォニー国際機関がこれに該当する。また、欧州連合原加盟国かつ指導国でもある。

フランスは2003年のイラク戦争に終始反対したが、第二次世界大戦中も英米と一歩離れた独自外交を展開している。第五共和制成立後も冷戦構造のなかでフランスの影響力を保つため、ソビエト連邦と提携したり、NATOの軍事機構から脱退したり、1973年からフランス・アフリカ首脳会議を主催したりしている。また、フランスは建国以来ベルギーと密接な関係がある。

大戦直後、西ドイツとは和解しともに欧州統合の旗手となった。冷戦終結後は欧州統合を深化し、欧州連合の主要国として存在感を高めている。ドイツとは1999年1月のユーロ導入を含む欧州統合に中心的役割を果たしてきた。しかし、2005年欧州憲法批准は国民投票で拒否された。2008年2月にこれを継承するリスボン条約が議会の承認を得ている。

フランスは旧植民地との間にフランス共同体を結成している。アフリカの旧植民地に対しては、暴動や内戦の際に親仏政権を維持するため軍事介入することもある。現在もセネガルジブチにはフランス軍の軍事基地がある。実際に、1994年のルワンダ紛争や、2002年のコートジボワール内戦にも介入している。1970年代以降の軍事介入の件数は30件以上にも及ぶ[13]。2012年からマリ北部紛争に介入している。こうしたフランスの姿勢を新植民地主義であると批判する声もある。またケベック州の仲介により、フランス語地域のある国とはフランコフォニー国際機関を結成した。

欧州連合加盟各国は北朝鮮と国交がある。しかし、フランスは2016年8月現在も日本アメリカと同様に北朝鮮と国交がない。

2015年1月、パリでシャルリーエブド本社やユダヤ教徒向け食料品店が襲撃され、11月には大規模な同時多発テロで仏全土に非常事態宣言がなされるなど、イスラム過激派との間で緊張が高まっている[14]

 
フランスが外交使節を派遣している諸国の一覧図

イギリスとの関係編集

フランスとイギリスは歴史上錯綜した関係を持ってきた。イングランドは、ノルマン・コンクエストを通じてフランス語を母語とし、フランス王国の公爵を兼ねる王に統治されることとなった。こうして、中世のイングランド王は同時にフランス王国の大貴族であり、その立場においてはフランス王の臣下であるという関係が長く続いた。なおかつアンジュー帝国とも呼ばれたプランタジネット朝のイングランド王は、王権の確立が遅れていたカペー朝のフランス王をしのぐ巨大な所領をフランス王国内に所持し、フランス王の勢力を圧倒した。またイングランド王家とフランス王家の姻戚関係も深かった。

 
クレシーの戦い(百年戦争)

こうした経緯から、中世のイングランド王家とフランス王家は、フランス王国における覇権をめぐって幾度となく抗争を繰り返すこととなった。ジャンヌ・ダルクが活躍したことで有名な百年戦争は特に長引いた抗争であり、イングランド王家が最終的にフランス王国内の基盤を喪失するにまで至った。この長期の戦争を通じてフランス人イギリス人の間に、のちの国民国家の創生につながる近代的な国民意識の母体となるものが胚胎したともいわれる。またフランス第一帝政時代の対仏大同盟は、イギリスが盟主的存在であった。

英語での生きている牛(cow)もしくは生きている豚(pig)と、死んだあとの食肉としての牛(beef)と豚(pork)の呼び方が異なる理由は、ノルマン・コンクエストによってイギリスを支配したノルマン系のイングランド貴族の母語がフランス語であり、被支配者であるアングロ・サクソン系の農民の育てた家畜は生きている間はアングロ・サクソン系の語彙で呼ばれ、肉となって調理され、貴族の食卓に上るとフランス語系の語彙で呼ばれるようになったのが由来である。すなわち、ビーフとポークは本来フランス語である(ただし英語とフランス語のビーフ・ポークの綴りは異なる)。

政治的には1904年の英仏協商締結以来、基本的には友好関係にある。第一次世界大戦をともに戦い、第二次世界大戦では敗北寸前となったフランスに対し、イギリスから連合国家形成の提案がなされたこともある。戦後はスエズ危機のように両国が協調した行動を取ることもあるが、イラク戦争に対する対応のように両国の対応が分かれることもある。

日本との関係編集

歴史編集

日本とフランスの公式な関係が始まったのは19世紀後半の幕末期以降である。1858年10月9日に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵によって、日本と最初の修好通商条約が当時の日本の幕府があった江戸で調印された。

明治維新後には西園寺公望をはじめとする政治家、大山巌らの軍人、黒田清輝らといった芸術家らが続々とフランスに留学している。1872年(明治5年)から翌年にかけては、岩倉使節団がフランスを訪問しており、当時のパリの様子が『米欧回覧実記』に詳しく記されている(一部スケッチ入り)[15]。日本は民法刑法改正にギュスターヴ・エミール・ボアソナード、陸軍にフランス陸軍の教官を招聘し、強い影響を受けた。

義和団の乱では共同歩調を取ったが、日清戦争後にフランスは、日本に遼東半島を返還するよう働きかける三国干渉を行っている。第一次世界大戦においては連合国として戦い、1919年パリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成している。そのあとの第二次世界大戦においては、ヴィシー政権成立前後の時期に、日本はフランス領インドシナへの進駐を要求し、北部インドシナは日本の占領下に置かれた(仏印進駐)。ヴィシー政権は植民地に対する支配力を失い、1940年タイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介により東京条約を締結し、タイとの戦争を終結させた。1941年には南部仏印への進駐も行われたが、これは日米交渉において決定的な破局点となった。真珠湾攻撃後、自由フランスは連合国の一員として日本に宣戦したが、日本軍とは交戦していない。1945年、インドシナで明号作戦によって、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。日本側はフランスとは戦争関係にないという建前をとり続けたが、降伏文書には臨時政府のフランス代表も署名している。

1951年、日本国との平和条約締結により日仏関係は正常化した。以降の関係はおおむね良好である。

日本におけるフランス編集

日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国である。毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。また、音楽、美術、料理などを学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、2018年時点で在仏日本人は44,000人におよび[16]、これはヨーロッパ圏ではイギリス、ドイツに次ぐ多さである[16]。 経済面では、1992年から2000年にかけてフランス側が対日輸出促進キャンペーンとして「ル・ジャポン・セ・ポシーブル」を展開したものの、2000年代の現在まで貿易額は漸増傾向を示すに留まり、2004年時点で貿易額は相互に60億ドル台から80億ドル台で推移している[17][18]。日本から見た場合、対仏輸出の構成比は1.5%(各国中15位)であり、一方でフランスからの輸入も1.8%(同13位)と貿易における重要度、依存度はほかの先進国や中進国と比較してさほど高くない[19]。これをフランスから見た場合、対日輸出が輸出全体に占める割合は1.6%であり、これはドイツ(14.5%)、スペイン(10.2%)、イタリア(9.2%)、イギリス(8.8%)、ベルギー(7.6%)といったEU諸国、アメリカ合衆国(7.2%)、中華人民共和国(1.7%)に次ぐものとなっている[20]

しかし、直接投資においては、1999年のルノーによる日産自動車の買収に伴い、日産の最高経営責任者となったカルロス・ゴーンは一般の日本人にも知名度がある。これにプジョーを加え、フランス車ドイツ車などと並んで日本では人気のある海外車種の一つである。他方、日本側もトヨタ自動車がほぼ同時期に北部ノール県ヴァランシエンヌに工場を建設しているほか、NTNなど自動車部品メーカーの工場進出も行われており、近年では1990年代後半にかけて自動車業界を中心に相互に大きな投資が行われている。

古くは江戸幕府幕府陸軍、および明治以降の日本陸海軍もフランス軍の影響を相当受けていた(第一次第二次第三次フランス軍事顧問団)。陸軍はその健軍にあたってフランス陸軍を師とし、鎮台制などのフランスの兵式を採用し強い影響を受けている。なお、旧陸軍および現在の陸上自衛隊の制式行進曲である『陸軍分列行進曲(観兵式分列行進曲)』は、明治初期に御雇外国人としてフランスから派遣されたシャルル・ルルー陸軍軍楽大尉相当官によって作曲されたものである。1880年代中後半には普仏戦争の影響もあり、1888年明治21年)に全体的にプロイセン(ドイツ)式に転換したもののフランス色は完全に排除されたわけではなく(明治38年45年制式軍服フランス式の肩章を採用)、また第一次大戦から1930年代までは、銃火器火砲戦車および航空機(後述)などの開発においてはフランスの影響が再度強くなっている。海軍は健軍当初から兵式はイギリス式を採用していたが、当時のフランスはイギリスに次ぐ海軍大国でもありその存在は無視出来るものではなく、1880年代の第三次フランス軍事顧問団において海軍技術者ルイ=エミール・ベルタンなどを御雇外国人として招き主力艦を含む多数の軍艦を設計させている。そのため19世紀末まではフランス海軍の影響も大きかった。

航空分野においては、1910年(明治43年)に徳川好敏日野熊蔵両陸軍大尉がフランスの飛行機の操縦技術を学び、フランス製のアンリ・ファルマン複葉機を持ち帰り、同年12月19日代々木練兵場で初飛行した。なお徳川好敏は、日本人として日本の空を飛んだ初めてのパイロットである。第一次大戦時の1914年大正3年)に編成された日本発の実戦飛行部隊たる陸軍の臨時航空隊は、フランス製の軍用機と技術をもって青島の戦いに参戦しドイツ軍と交戦した。大戦末期の1918年(大正8年)1月、陸軍はフランス側より航空部隊の無償技術指導の提案を受け、フォール陸軍大佐(Jacques-Paul Faure)を団長にした61名のフランス航空教育団(Mission militaire française au Japon(1918-1919))を迎え、所沢陸軍飛行場(現・所沢航空記念公園)など各地で教育を受けている(少数ではあるが海軍軍人も聴講員として参加)。このように、のちの陸軍航空部隊、ひいては日本の航空・航空戦力の原点はフランスであった。

地方行政区分編集

フランスは26の地域圏に分かれる。フランス本土(メトロポリタン・フランス)の位置するヨーロッパの領土は22の地域圏(レジオン région)に区分され、その下に100の(デパルトマン département)が存在する(各レジオンが2 - 8のデパルトマンに区分されている)。地域圏はメトロポリタン・フランスに21、コルシカに1つに分かれる。さらに海外のアメリカ大陸インド洋などには、4つの海外県と、複数の海外領土がある。各県はさらにコミューンに分かれる。2009年3月29日、アフリカ東部沖のコモロ諸島にあるマヨット(人口約20万人)を特別自治体から海外県への地位変更の是非を問う選挙が行われ、賛成95.2%で海外県となることが決まった。フランスの県としては101番目、海外県としては5番目である。

フランス・メトロポリテーヌの地域圏再編が行われ、2016年1月1日より地域圏の数は26から18となった。

主要都市編集

表は市内の人口順ではなく、都市圏の人口順に並べている。フランスの人口は、パリへの一極集中が目立つ。フランスの交通において結節点となるパリは主要な文化および商業の中心地である。同市に次ぐ都市は規模が小さい。

都市 行政区分 人口 都市圏人口
1 パリ イル=ド=フランス 2,240,621 12,341,418
2 リヨン メトロポール・ド・リヨン 496,343 2,214,068
3 マルセイユ プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール 852,516 1,727,070
4 トゥールーズ オクシタニー地域圏 453,317 1,270,760
5 リール オー=ド=フランス地域圏 228,652 1,166,452
6 ボルドー ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏 241,287 1,158,431
7 ニース プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール 343,629 1,004,914
8 ナント ペイ・ド・ラ・ロワール 291,604 897,713
9 ストラスブール グラン・テスト地域圏 274,394 768,868
10 レンヌ ブルターニュ地域圏 209,860 690,467
2012年国勢調査

地理編集

 
フランスの地形図
 
ジロンド川ポーイヤック市。 アキテーヌ地方の中心都市であるボルドー市のすぐ北側に位置し、ガロンヌ川ドルドーニュ川が合流してできる川である。

地形編集

フランスの国土は西ヨーロッパに位置する本土のほか、地中海に浮かぶコルシカ島南米フランス領ギアナカリブ海マルティニークグアドループインド洋レユニオンといった4海外県、さらにはニューカレドニアフランス領ポリネシアなどオセアニアの属領をも含む。その面積は西ヨーロッパ最大であり、フランス本土だけで日本の1.5倍あり[21]、可住地の広さは日本のおよそ3.5倍にも達する。本土の形状はだいたい六角形の形を成しており、これはフランスの公用語であるフランス語にも影響し、六角形を意味する"l'Hexagone(レグザゴーヌ)"が「フランス本土」を意味する。その6辺の国境のうち、1辺は平野と川(ライン川)、2辺は山脈(ピレネーとアルプス)、3辺は海(地中海、大西洋、北海)である[22]

フランスの地形のおもな特色は、東から南にかけて山地や山脈という自然の国境があるほかは、ところどころに高原や丘陵がみられるものの、国土の大半は概して緩やかな丘陵地や平野で可住地に恵まれていることにある(国土の60%が海抜250m以下の平地であり、2000mを超える山岳地帯は東部と南西部の国境付近のみ[23])。

北西部に広がる、フランスでももっとも広い領域を占める比較的平らな地域は、東ヨーロッパから続くヨーロッパ中央平原の西端部にあたる。緩やかな起伏の平野で、高所でも標高200m程度の土地が広がっており、温暖な気候とあわせて西欧最大の農業国フランスの基礎となっている。東部ドイツ国境にはヴォージュ山脈スイス国境にはジュラ山脈が延びる。ヴォージュ山脈はライン川の西岸に沿って流れ、ライン川がフランスとドイツとの国境となっている。南東部は中央高地が広がり、北から南へ流れ下るローヌ川を越えると、アルプス山脈につながっていく。南部イタリアとの国境をなすアルプスの山々は、多くが標高4,000m以上で、その最高峰がモンブランである。アルプス越えには古代ローマの時代からいくつかの道があるが、なかでも有名なのがサンベルナール峠である。南西部のスペイン国境にはピレネー山脈が延びる。がほとんどないピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。サントラル高地の最高峰はドール山(1,866m)。ピレネー山脈の最高峰アネト山(3,404m)はスペイン側にそびえる。フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置するモンブラン(4,810m)。

おもな河川は北から反時計回りに、セーヌ川(776km)、ロワール川(1012km)、ガロンヌ川(647km)、ローヌ川(812km)。

気候編集

フランスの気候は大陸性、海洋性、地中海性の気候区に分割される。西岸海洋性気候は大西洋側の国土の西部で見られる。気温の年較差、日較差とも小さい。気候は冷涼であるが、寒くなることはない。国土を東に移動するにつれて気候は大陸性となっていき、気温の年較差、日較差が拡大していくと同時に降水量が上昇していく。本来の大陸性気候東ヨーロッパ、つまりポーランドルーマニアが西の限界であるが、フランス東部の高地、特にアルプス山脈の影響によって、大陸性気候が生じている。地中海性気候は国土の南岸で際立つ。気温の年間における変動は3種類の気候区のうちもっとも大きい。降水量は年間を通じて少ない。このように3種類の気候が共存している例は、ヨーロッパの中でフランスだけである[24]

経済編集

 
パリはアメリカのシンクタンク2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界3位と評価された[25]

フランスは名目GDP世界第6位および購買力平価世界第8位先進国である[26]。家計資産の総計の観点から、フランスはヨーロッパで最高かつ世界で第4位の経済大国である[27]。同国は世界第2位の排他的経済水域(EEZ)をも有し、その規模は11,035,000 km2に及ぶ[28]

フランス国民は高い生活水準を享受し、同国は教育医療平均寿命、人権、人間開発指数国際ランキングにおいて上位に位置する[29][30]。フランスは世界第4位世界文化遺産数を有し、世界最多の年間約8,300万人の外国からの観光客を迎え入れている[31]

2014年のフランスのGDPは2兆8,468億ドルであり、アメリカ中国日本ドイツイギリスに次ぐ世界第6位である[32]。また、同年の1人当たりのGDPは42,999ドルであり世界水準のおよそ4倍、日本と比較してもわずかに多くヨーロッパ屈指の経済大国であることが分かる。観光客入国数では世界一、農産物輸出では世界第2位を占める[33]農業は生産額世界第6位と依然としてフランスにおける重要な産業であり、EU諸国中最大の規模を誇っている。高負担国家であり、GDPに占める税収比は45.5%とOECD諸国においてデンマークに次いで2位である(2014年[34])。2015年に海底ケーブル大手のアルカテル・ルーセントが買収された。

第二次世界大戦後は鉄道・航空・銀行・炭田が国有化されたが、ロスチャイルドなど200家族が取締役として居残った。マーシャル・プランを原資としたモネ・プラン、次いでイルシュ・プランで経済復興が行われた。自動車・電子・航空機産業についても国が主要株主となり、政府は石油と天然ガスにも投資した。ラザードがさまざまな合併を手がけた。1981年フランソワ・ミッテラン大統領社会党政権は産業国有化をさらに推進したが頓挫した。1986年保守派のシラク首相になって国家の役割が縮小された(第1次コアビタシオン)。しかしアメリカ合衆国イギリスの背後から、金融・保険・電力・運輸・国防産業などそれぞれのグローバル市場でフランスは隠然たる影響力を保持した。フランスの資本主義はエナ帝国が主導している。つまり、国債や租税等の財源が国家出資庁フランス語版英語版を通じて基幹産業に運用されている。投資対象にはエンジー(旧・スエズ運河会社)とすでに冒頭で説明したアレヴァがあり、これらはオートバンクと関係している。ほかの投資対象には自動車のルノープジョー、航空各社、電気通信各社があり、少なからず欧州の鉄鋼カルテルと関係している。中小企業への融資はおもに庶民銀行が行っており、ほぼ弱者同士の互助で完結している。

 
OECD各国税収のタイプ別GDP比(%)。
赤は国家間、青は連邦・中央政府、紫は州、橙は地方、緑は社会保障基金[34]

1990年代後半は、ヨーロッパ通貨統合に参加するために強硬な財政赤字削減策が実施されたが、国民の強い反発を招き、消費拡大による景気刺激策に方針が転換された。しかし、2000年を境にGDPの実質経済成長率は大きく低下し、財政赤字は2002年以降、連続して対GDP比3%以内というEUの財政協定の基準(収斂基準)を大きく超えていた。1990年代の大きな問題だった12%を超える失業率も、90年代末から改善されて2001年には8%台になったが、その後はふたたび悪化して2005年はじめには10%を突破した[注 5]。しかし2005年以降、世界経済の好調に助けられる形で経済は持ち直し、財政赤字は3%を切り、失業率も8%台にまで改善されたものの、世界金融危機で財政出動を余儀なくされたことから、GDP比3%の財政赤字の基準は守れておらず、EUの欧州委員会から財政赤字の立て直しの勧告が出されている[35]デクシアの救済劇は、資本輸出先であるベルギーとで両国政府が大株主も伴い64億ユーロも注入する有様となった[36]

2008年度版フォーチュン・グローバル500によると、総収入を指標とした全世界の企業ランキングリストのうち上位100位に含まれるフランス企業は、国際石油資本トタル(本社パリ、8位)、保険のアクサ(パリ、15位)、金融のBNPパリバ(パリ、21位)、金融のクレディ・アグリコル(パリ、23位)、小売のカルフール(パリ、33位)、金融のソシエテ・ジェネラル(パリ、43位)、自動車メーカーのプジョー(パリ、66位)、電力会社のフランス電力(パリ、68位)、電気通信事業者のフランステレコム(パリ、84位、現・Orange)、水道や電力、ガス事業などを行うスエズ(パリ、97位、現・エンジー)が並ぶ。

2009年3月、「経済危機のつけを労働者に回すな」をスローガンに、1月の前回100万 - 250万人を上回り、全国で300万人が統一行動を行った。サルコジ政権は、昨年12月260億ユーロ規模の経済活性化対策を発表した。さらに所得税減税など14億ユーロ規模の低所得者向け支援策を提案し、その後26億ユーロ規模に増額した。2010年に未来のための投資プログラムをスタートし、パリ=サクレー学研都市フランス語版英語版などへ投資をするようになった。

2012年5月からフランソワ・オランドが政権をとり、翌年に公的投資銀行フランス語版英語版を設けて中小企業を支援するようになった。公的投資銀行に国家出資庁が出資する程度はごくわずかである。公的投資銀行は公営である本部と加盟企業に分かれている。本部へは国が出資庁を介さずに直接資金を提供する。加盟企業はその本部から、または預金供託公庫から資金を調達して、これを原資に中小企業の債権や株式を引き受ける。

農業編集

EU最大の農業国であり「ヨーロッパのパン籠」と言われる。穀物、根菜、畜産などすべての農業部門において世界の上位10位以内の生産高を誇る。地形が概して平坦なため、国土面積の53.6%が農業用地と比率的には日本の約4.5倍に達し、国土の36%が耕作地で、18%が酪農用地である(国連FAO)。農業従事者は労働力の約3%。1955 - 2000年で農家の数は3分の1に減少し、相対的に1農家当たりの農地面積、経営規模が拡大した。穀物は、小麦大麦トウモロコシ、根菜はじゃがいもテンサイ、畜産ではブタ鶏卵牛乳の生産が際立つ。このほか、亜麻なたねの生産高も多い。テンサイの生産高は世界一である。政府は農業を重要輸出産業とし国際競争力の強化を図るほか、農業経営の近代化、若年層の就農促進などの政策を実施している。

フランスの鉄道は作物の流通に不可欠である。昔は路線自体が必要だった。北部鉄道で知られるフランスの鉄道史において、19世紀のハブがパリしかないような状態だった。そのときまで穀物価格には地域格差がしばしば生じた。ヴァンデルなどによる鉄鋼カルテルが、レールの供給とクレディ・アグリコルの発足を遅らせた。20世紀に路線網が充実し、土地の権利関係も制度レベルから整理されていったため、それからは重量貨物の輸送手段として活躍している。1960年「基本法」農政がスタートした。そこでアグリビジネスが促進され土地バブルを引き起こした。輸出作物に補助金が積まれ、それが貿易摩擦も引き起こした。

鉱業編集

第二次世界大戦後までは、ルール地方の鉄と石炭が鉱業の大半を占めていた。もっとも鉄はロレーヌ地域圏でもよく産出された。戦後は国土の北東部に偏っていた鉱業が南東部でも営まれるようになった。21世紀初頭においてはすでに鉄鉱石の採掘は行われておらず、金属鉱物資源は鉱業の対象となっていない。アフリカなどに十分な利権を維持しており、世界金融危機において著しく増産した。もっとも規模が大きい鉱物資源は世界シェア8位(3.3%)の塩(700万トン、2002年時点)である。これはスイスに共通する特徴である。塩の食用需要は限られ、大部分は化学工業需要である。たとえばルーセル・ユクラフが使用する。

有機鉱物資源では、石炭、石油、天然ガスとも産出するが、いずれもエネルギー需要の数%を満たす水準である。たとえば石油の自給率は1.6%にとどまる。金属資源では、金、銀、その他の地下資源ではカリ塩、硫黄を採掘している。

工業編集

フランスの工業は食品産業英語版、製材(en:Sawmill)、製紙業運輸業機械産業英語版、電気機械、金属、石油化学産業英語版自動車産業が中心である。世界一の生産高を誇るワイン、世界第2位のチーズのほか、バター食肉も5本の指に入り、製糖業も盛んである。製材、製紙はいずれもヨーロッパ随一である。石油化学工業は燃料製造、合成樹脂プラスチック)、合成ゴムタイヤと全部門にわたる。特に合成ゴムとタイヤ製造が著しい。たとえば旧フランス領インドシナで採取したゴムの樹液が、接収したヒュルス社のライセンスで加工され、ミシュランのタイヤが作られる[注 6]

自動車製造業は世界7位の規模である。自動車の生産は古くから行われており、常に生産台数が世界で10番目に入る自動車大国でもある。おもなメーカーとしてルノー(日本の日産自動車を傘下に収めている)や、PSA・プジョーシトロエンなどがある。国防産業では、タレスDCNSサフランなどの大企業が存在し、これらによる造船業も盛んである。

フランスのフラッグ・キャリアは、エールフランスであり、スカイチームに設立時から所属している。エアバスマトラダッソーなどの企業が代表するように航空宇宙産業も発達しており、ロシアを除きヨーロッパではフランスだけが宇宙船発射能力を持つ。

エネルギーでは原子力発電への依存率が世界でもっとも高い。電力のおよそ78%が原子力発電でまかなわれているのに対し、火力発電は約11%、水力発電は約10%にすぎない[37]。発電用原子炉の数はアメリカ合衆国に次ぐ59基。2001年時点の総発電量5,627億kW時のうち、74.8%(4,211億kW時)を原子力が占める。原子力による発電量自体もアメリカ合衆国の7,688億kW時に次いで2位である。フランスの発電は原子力以下、水力14.7%、火力10.4%、地熱0.1%が続く。総発電量では世界第8位を占めていて、近隣諸国にも多くの電力を供給しており、EUで最大の電力輸出国となっている。おもな原子力発電所は、グラブリン原子力発電所(5,706千kW、ノール県)、パリュエル原子力発電所(5,528千kW、セーヌ=マリティーム県)、カットノン原子力発電所(5,448千kW、モゼル県)。2001年現在で発電規模世界第4位、5位、6位を占める。

貿易編集

フランスは伝統的に西ヨーロッパにおけるもっとも重要な農産品輸出国である。さらに、第二次世界大戦後に工業関連企業を国有化することによって合理化が進み、EC域内でドイツに次ぐ重要な工業国ともなった。2003年における全工業製品の輸出額はドイツの約40%であった[38]。フランス工業(EC域内工業)の特徴は域内分業である。各産業は国内市場よりもEC域内市場を対象としており、フランスにおいても2004年における貿易依存度は輸出20.7%、輸入21.6%まで高まっている。2003年における輸出額は3,660億ドル、輸入額は3,696億ドルである。

輸出

輸出を金額ベースで見ると、工業製品が大半を占める。品目別では、自動車14.3%、電気機械11.2%、機械類10.4%、航空機5.4%、医薬品5.0%である。工業製品が80.4%、食料品が11.2%という比率になっている。おもな輸出相手国は金額が多い順に、ドイツ、スペイン、イギリス、イタリア、ベルギーであった。

フランスは2004年時点の小麦の世界貿易(輸出)において、第4位(12.5%、1,489万トン)を占めていた。さらにとうもろこしの世界貿易では第3位(7.4%、616万トン)、砂糖では第4位(5.2%、234万トン)、チーズでは第2位(14.3%、58.3万トン)を占めている。しかしながら、農産物は工業製品に比べて単価が安いことから輸出全体に占める比率は高くない。同じことが工業製品である鉄鋼の貿易にも当てはまる。フランスは2005年の世界貿易(輸出)において、第4位(1,800万トン)を占めているが、フランスの総輸出額に占める割合は5%未満である。一方、単価の高い自動車は2004年における輸出シェアが世界第2位(426.9万台)であることを反映し、もっとも重要な輸出品目となっている。

輸入

輸入は工業製品が77.4%、原材料と燃料が13.8%、食料品が8.4%という構成である。輸出入とも工業製品が約8割を占める。品目別では、電気機械13.1%、自動車11.0%、機械類10.0%、原油5.1%、衣類4.1%。おもな輸入国は金額順に、ドイツ、イタリア、スペイン、ベルギーであった。

過去の収支とその後の傾向

1986年時点の貿易は、輸出1,191億ドル、輸入1,279億ドルであった。輸出に占める工業製品の比率は77.2%、食糧品は15.4%であることから、その後次第に輸出品に占める工業製品の割合が拡大してきたことが分かる。輸入品についてはこの傾向がより顕著である。

高失業率編集

オイルショック以降、フランスは慢性的な高失業率に悩まされている[注 5]。特に西アフリカ中東北アフリカなどの元植民地からの移民とその子孫の失業率が高いため、不満が鬱積したこれらの失業者による暴動がたびたび起きている。とりわけ2005年10月27日に発生した移民の死傷事件は、これをきっかけに、パリをはじめとしたフランス全土、さらに隣国のドイツやベルギーにも暴動が広がった(2005年パリ郊外暴動事件を参照)。

就業者を上げるため、2006年3月に26歳以下の若者を2年以内の雇用なら理由なく解雇できるという、青年雇用対策「初期雇用契約」(CPE)を制定したが、逆に「安易な首切りを横行させる」と若者を怒らせる結果となり、フランス国内の大学でのCPE反対の抗議活動が激化、若者が暴徒化し警官隊と衝突する事態に陥った。CPE反対に際しては労働組合も同調しており、抗議行動への参加や、3月28日には全国でTGVをはじめとする鉄道やバスなど公共交通機関の運休のほか、郵便局や公立学校などの公的機関、銀行や電力会社など幅広い業種でゼネラルストライキが行われ、交通機関などで麻痺状態に陥った。ド・ビルパン首相は撤回に応じないと表明したが、4月10日になり、シラク大統領がCPEの撤回を表明した。

国民編集

 
グアドループの市場。フランスの海外県や海外領土には多数の有色人種系の市民が存在する。
 
フランスの人口ピラミッド

フランスでは、1978年以降、国勢調査またはその他の調査において人種民族、政治的または宗教に関する情報を調べることを禁止している。このため、フランスの人口のうち、どういった民族や人種、宗教が、どれほどの割合を占めているかについて、正確な数値は出せない[39]

フランスは欧州最大の多民族国家であり、西ヨーロッパにある本土では①ケルト人、②ラテン人、③ゲルマン系のフランク人 などの混成民族であるフランス人が大半を占める。基本的には、「ラテン化したケルト人を少数のゲルマン人が征服して成立した国」とみなすこと、つまり「もともとケルト人が住んでいた地域に、古代ローマ帝国が圧倒的な軍事力で攻め込んでローマ化を行い、その結果その地域にローマ文化に同化したケルト人が生じ、その土地にフランク人が攻め込んで力を持った国である」などといった大枠でとらえられることが多いが、諸説あり今も議論の的である。世界、特に欧州では混成民族でない国民はほとんど存在しないとはいえ、たとえばドイツ人がゲルマン人を主流としていることに異論は少ないのに対し、フランス人はそうした主流を挙げることが困難なほどに3つの流れが拮抗した比重を持つのが特徴である。また、本土でもブルターニュではケルト系のブルトン人スペインとの国境付近にはバスク人アルザスではドイツ系のアルザス人などの少数民族が存在する。また、コルシカ島イタリア人に近い民族・コルシカ人が中心である。一方、西インド諸島ポリネシアの海外県や海外領土では非白人の市民が多い。

1919年のパリ講和会議での人種的差別撤廃提案にも賛成するなど、フランス語とフランス文化に敬意を払う人間は他国人であっても同胞として遇することが求められている。しかし実際には、ドレフュス事件に代表されるように人種差別に基づいた事件も繰り返されており、あえて宣言しなければならないというのが実情である。21世紀以降においてもサルコジ政権時、サルコジが移民2世であるにも関わらず、本人はアフリカ系住民への差別発言を繰り返し問題となるなど、依然として人種問題は根深い。一方では、ドイツ人でありながら19世紀に数々のフランス語オペラ、オペレッタで人気を博したマイヤベーア、オッフェンバックなどは今日でもフランスの作曲家として記されることが多く(しかも当時犬猿の仲であった隣国出身で、ともにユダヤ系である)、同国文化の受容力を象徴している。

伝統的にフランスはスペインポルトガル東欧諸国などから多くの移民・政治的難民を受け入れている。

低賃金労働に従事する労働者となった移民たちも多かった一方で、科学・学術・芸術などの分野に優れ、フランスの文化レベルを押し上げるのに貢献した移民たちもいる。

もともと中東や東欧に住んでいたユダヤ人たちで、ディアスポラで西ヨーロッパやロシアまで拡散し放浪し、フランスにたどり着き定住することになったユダヤ系の人々や、結果として代々、数百年以上住んでいる「ユダヤ系フランス人」たちも相当割合いる。フランスの大学教授、弁護士、医師、実業家、商人、芸術家 等々の職業では結構な割合が、実はユダヤ人である。たとえば、自動車メーカーのシトロエンの創設者アンドレ・シトロエン、作家のマルセル・プルーストもユダヤ人であり、画家のマルク・シャガールもロシア(東欧)から移民してきたユダヤ人である。en:History of the Jews in Franceも参照可。

近年では、アフリカ(の中でも1960年代までフランスの植民地であった地域)や中近東からの移民が多い。

社会保障編集

 
OECD各国のGDPにおける社会的支出割合(公費および私費)[40]

フランスは高福祉高負担国家であり、GDPにおける社会的支出の割合はOECD中で最大である[40]医療制度ユニバーサルヘルスケアが達成されており、大部分は国民健康保険にてカバーされる。WHOによる2000年の医療制度効率性ランキングにおいてはフランスが第一位となった。国民識別番号としてINSEEコード(NIR)が採用され、公的医療保険証(ヴィタルカード)などに用いられている。

また早くから少子化対策に取り組み、GDPのおよそ2.8%にも相当する巨費を投じ国を挙げて出産・育児を支援する制度をさまざまに取り入れてきた。代表的なものとしては世帯員(特に子供)が多い家庭ほど住民税所得税などが低くなる「N分N乗税制」や、公共交通機関の世帯単位での割引制度、20歳までの育児手当などがある。この結果、1995年に1.65人まで低下したフランスの出生率は2000年には1.89人に、2006年には2.005人にまで回復した。現在先進国で出生率が2人を超えている国はほかにアメリカ合衆国ニュージーランドぐらいであり、フランスはヨーロッパ一の多産国となった[41]

一方で、子供を4人以上産めば事実上各種手当だけで生活することが可能となり、結果として低所得者が多いアフリカ系の移民やイスラム系の外国人労働者を激増させているのではないかとの指摘もある。これに対してINSEE(フランス国立統計経済研究所)は「移民の出生率は平均より0.4%ほど高いが、全体に占める割合が大きくないので大勢にそれほど大きな影響を与えているわけではない」と説明している[42]

言語編集

現行の憲法第二条によると、1992年からフランス語はフランスの唯一の公用語である。ただし、オック語ピカルディ語などのいくつものロマンス語系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系のブルトン語(ブレイス語)、アルザスではドイツ語の一方言であるアルザス語、北部フランドル・フランセーズではオランダ語類縁のフランス・フラマン語、コルシカではコルシカ語、海外県や海外領土ではクレオール諸語など77の地域語が各地で話されている。近年まで、フランス政府と国家の教育システムはこれらの言語の使用を留めてきたが、現在はさまざまな度合いでいくつかの学校では教えられている。そのほか、移民によってポルトガル語イタリア語マグレブ・アラビア語ベルベル諸語が話されている。フランス語は、フランスのみならず、旧植民地諸国(フランス語圏)をはじめとした多くの諸国で広く使用されている言語である。フランスは、点字が生まれた国でもある。

フランスではナポレオン法典によって子どもにつけられる名前が聖人の名前などに限定されたことがある。Jean-Paulジャン・ポールやJean-Luc ジャン・リュックのような2語からなるファーストネームがフランスで一般化したのは、そのような(ベースとなる選択肢が少ない)状況のなかで名前に独自性を持たせようとした当時の工夫のためである。フランスでは子どもにつけられる名前が少なく(アラン、フィリップなど)、同じ名前の人物が多数いる。また、婚姻によって姓が変わることはない(夫婦別姓)。

宗教編集

 
ゴシック建築教会堂で、フランスの宗教建築を代表するサント・シャペル

宗教面では、国民の約7割がカトリックと言われている。カトリックの歴史も古くフランス国家はカトリック教会の長姉とも言われている。ただし、フランスでは人種や民族、宗教に関する国民の情報を取ることが禁止されているため、どの宗教が、どれほどの割合を占めているかについては、はっきりしない[39]

代表的な教会はノートルダム大聖堂サン=ドニ大聖堂などが挙げられる。パリ外国宣教会はその宣教会。フランス革命以降、公共の場における政教分離が徹底され、宗教色が排除されている。

近年、旧植民地からの移民の増加によりムスリム人口が増加し、知事も生まれた。フランスではフランス革命以来の伝統で政教分離ライシテ)には徹底しており、2004年には公教育の場でムスリムの女子学生のスカーフをはじめとしてユダヤ教のキッパ、十字架など宗教的シンボルを禁止する法案が成立し、フランス内外のムスリムやユダヤ教徒から反発されている。一方でいくつかのキリスト教的シンボル(クリスマスツリーなど)はすでに一般化していて宗教的シンボルに値しないと許容されているため、宗教的差別であるという意見もある。

ライシテの重視と信教の自由編集

フランスの18世紀までのアンシャン・レジーム(旧体制)では、カトリック教会(の聖職者)と王権(王族)たちが密接に結びつき(「王権は神によって与えられた」などと事実に反したことを説いて)、聖職者と王族ばかりを優遇し、普通のフランス国民を抑圧し・蹂躙してきた歴史があるわけであるが、1789年にフランス国民が力を合わせ立ち上がり、王族たちを排除し、また聖職者でありながら王族と結託して国民を苦しめる結果を生んでいた聖職者たちも権力から遠ざけ、「自由・平等・友愛」の理念を掲げ、国民のための政府を樹立し、フランスを共和制の国家としたわけである(フランス革命)。

「王族 - 聖職者」を打ち破って成立した共和国政府は当然、政治に宗教が介入してくることは断固として拒まねばならない。またフランスの憲法にも「ライシテ」(=政教分離。政治と宗教の分離の原則)および信教の自由はしっかりと明記された。

また、政府だけではない。そもそもフランス革命は、普通の国民が一致団結して立ち上がり闘って自力で成し遂げたものであるわけであるが、フランスの教育の現場では、フランス革命の後(18世紀末)から21世紀の現代にいたるまで、政治と宗教が癒着してしまったアンシャン・レジームのひどさ、それを打ち破ったフランス革命の意味や、その結果得られた「自由・平等・友愛」の理念の素晴らしさ、共和制となったフランスの素晴らしさ、などを長い時間をかけて解説し、しっかりと生徒たち(=未来のフランスを支えるフランス国民)に理解させる。したがってフランスの教育をまともに受けた者だったら誰でも、それらのこと(政治と宗教の癒着がフランス人を苦しめた事実や、それに対する憎しみ、共和制こそが素晴らしい、という考え方、「自由・平等・友愛」こそ人類の最高の理念だ、という考え方)は、精神の一部となっており、いわば「血肉」となっている。よってフランスの教育をまともに受けた人であれば誰でも自然と、「政治と宗教の癒着」(≒アンシャン・レジーム)は「闘うべき相手」「憎き かたき」となるのはある意味、当然のことである。そういうわけで、共和国成立後のフランスでは「ライシテ」(=政教分離)は、フランス政府だけでなく、フランス国民のほとんどが当然のこととして支持するものとなっている。

ただし(念のために、宗教の位置づけがかなり異なる日本人に誤解なきよう解説すると)、フランス国民の多数派はカトリック教徒とされる。フランス革命後100年以上経た20世紀初頭時点でもカトリック信徒はフランス国民の9割ほどを占めていた。つまり共和制となって以降のフランス人も、決して「ひとりひとりが信仰することは悪い」と思っているわけではなく、「フランス人ひとりひとりは、(政治権力と混線させない形なら)信仰してもよいし、それは個人の自由である」と考えており、フランス人は「何を信仰するかは個人の自由だから、個人の信仰に政治や政府組織が介入してはいけない」と、(原則的には)フランス憲法に基づいて考えている。ではほとんどのフランス共和国国民は、一体何がいけないか、何が悪か、と考えているかと言うと、「国家の最高政治権力と宗教組織が癒着してしまうことは、きわめつけの悪だ」と考え、強く確信しているわけである。

ここ数十年で、フランス政府はMIVILUDESという組織を中心に各省庁が連携して、フランス人にとっては馴染みの薄い新興宗教などで、フランス国内で勢力が拡大し、多数のフランス人を巻き込んでいるものなどを中心に「セクト」として対策を行い、洗脳対策や、「セクト」の犯罪活動への対策を行うようになった。法治国家の政府というものは行政的行為は全て法律に基づいて行わなければならないので、フランス政府はフランス憲法の「ライシテ(政教分離)」の規定と照らして憲法違反とならないように配慮をしつつ対策を打っている。「セクト」か否かの判断基準は、犯罪性があるか、被害者いるか、人権侵害があるか、などである。2005年時点で、セクト特有の犯罪を取り締まるための法律を、より一般的な刑法へと発展させようとする方向も見せた。ただし、こうした「対策」をやりすぎて、(うっかり行政職員が「フランス伝統のカトリック信仰とは程遠いから」などという 感覚的判断で)被害も出ていないような個人に関してまでその信仰を妨害してしまうと、フランス憲法ではっきりと明記され保障されている「信教の自由」を侵してしまうことになり行政組織が憲法違反となってしまうので、当局も、どの団体に対して「セクト対策」をして良いのか、いけないのか、という判断することは「非常に難しい問題」だと判断している。 [注 7][注 8][注 9][注 10][注 11][43]

ただし安楽死など道徳に関わる分野おいてはカトリックなどの宗教保守派の影響が大きい[44]

教育編集

2歳から5歳までの就学前教育ののち、6歳から16歳までの10年間が無償の初等教育と前期中等教育期間となり、6歳から11歳までの5年間がエコール・プリメール(小学校)、その後4年間がコレージュ(中学校)となる。前期中等教育の後3年間のリセ(高等学校)による後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。2003年の推計によると、15歳以上の国民の識字率は99%[45]である。コミュニケーションを重視した国語教育が、小学校での最重要の教育目標になってもいる。しかし、フランスの教育制度が民衆に等しく手厚いことを必ずしも意味しない。

リセ卒業時に行われるバカロレアに合格すれば任意の総合大学単科大学へ入学できる。ただし、グランゼコールを含む一部のエリート大学はこの限りでない。代表的な高等教育機関としてはパリ大学(1211年)、モンペリエ大学(1289年)、エクス=マルセイユ大学(1609年)、ストラスブール大学(1631年)、リヨン大学(1809年)、パリ・カトリック大学エコール・ノルマルエコール・ポリテクニークパリ国立高等鉱業学校エコール・サントラルなどが挙げられる。

フランスの公立学校では、10人に1人がいじめの被害にあっているとされ、いじめが大きな社会問題となっている。しかしフランスは、ほかのヨーロッパ諸国より、いじめ対策が遅れているとされる[46]

文化編集

フランス文学は、そのほんの一部をピックアップしただけでも、たとえば13世紀ころから宮廷風恋愛のテーマとしたアレゴリー詩『薔薇物語』、16世紀にはモラリストモンテーニュによる哲学的な自伝『随想録』、17世紀にはラシーヌモリエールの演劇作品、18世紀には啓蒙思想家のヴォルテールルソーディドロなどによる諸作品、19世紀にはロマン主義スタンダールバルザックデュマヴィクトル・ユーゴー、20世紀には実存主義カミュサルトル、人間心理を極めたプルースト、はたまた世界大戦下で「愛の意味」や「人生の意味」を語ったサン=テグジュペリ ...といった具合で、ここでは挙げきれないほどに豊穣であり、しかも思想的にも深みがあり、フランス文学は世界各国の文学の中でもトップレベルだと評価されており、フランス文学の奥深さは結果としてフランスにおける音楽や絵画の作家らにも影響を与え、それらの作品に深みを与えるのに貢献している。

またフランスは音楽、特にクラシック音楽も盛んである。特に19世紀末20世紀にかけての「フランス6人組」やフォーレドビュッシーラヴェルらはフランス音楽を頂点にまで押し上げた。またフランスは、ポーランド人のショパン、ドイツ人のグルックオッフェンバックジャコモ・マイアベーアがパリを拠点とするなど、多くの外国の才能が活躍する場を提供した。20世紀以降では情緒を巧みに歌い上げたシャンソンや、あるいは(イギリスやアメリカの音楽にも影響を受けた)フランス発のポピュラーミュージックも世界中で愛され(たとえばミシェル・ポルナレフなど)、しばしば世界中でヒットチャートの上位に上がった。

フランスの絵画は、数世紀の間欧州世界をリードする地位にあると言われており、たとえば19世紀には印象派象徴派ポスト印象派ジャポニスムが隆盛を迎え、エドゥアール・マネクロード・モネポール・セザンヌポール・ゴーギャンらが活躍し、20世紀初頭にはフォーヴィスム(野獣派)、キュビスムアール・ヌーヴォーアール・デコが隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラックアンリ・マティスらが活躍し、現在も多くの諸外国の芸術家やクリエイターを引きつけ続けている。

またフランスでは「パンフロマージュ(=チーズ)ヴァン(=ワイン)」といった フランス人にとって日々の最も基本的な食品とみなされている3食品があり、これらは基本的な食材のみを用いてシンプルな加工でできているにもかかわらず それらだけでも(フランスの豊穣な大地や、実直な農業従事者たちや、その結果生まれた食材の素材的な良さのおかげもあって、また穀類、乳製品、そして果汁からできた酒、という旨みと酸味の絶妙な組み合わせや栄養バランスのおかげもあって)それだけでもすでに相当な美味であり、食べる人々に幸福をもたらしてくれる組み合わせである。さらにはフランスでは宮廷文化とその農産物の豊かさを背景にして食文化も発達してきた歴史があり、近・現代のシェフが趣向をこらし 磨きをかけた技で調理したフランス料理は、しばしば「世界の三大料理のひとつ」とされ、ガストロノミー(いわば「食通道」)も発達し、さらにミシュランガイドのおかげでパリだけでなくフランスの地方(田舎)にある優れた料理店にもスポットライトが当たるようになり、フランス国内だけでなく世界中の食通たちがフランスのシェフらの料理を目当てにフランス各地を訪れている。

文学編集

中世においては騎士道を歌い上げる叙事詩が文学の主流を担い、11世紀に『ローランの歌』が成立した。

12世紀ころには騎士道物語が流行し、クレティアン・ド・トロワ(1135?-1190?)により『イヴァンまたは獅子の騎士』『ランスロまたは荷車の騎士』『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』などの物語が書かれ、その写本が流通した。(これは男性向けの作品であるが)、女性向けの作品としては、13世紀初頭から(100年弱の期間にわたり、ギヨーム・ド・ロリスおよびジャン・ド・マンによってアレゴリー(寓喩)を用いて、長詩の形式で、宮廷恋愛の一種の入門書の『薔薇物語』が書かれ、女性たちの間では大人気となったという。

ルネサンス期にはフランソワ・ラブレーが活躍し、『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を著した。その後の絶対主義時代からフランス革命期にかけてマルキ・ド・サドなどが活躍した。

ミシェル・ド・モンテーニュの『エセー』(随想録)は哲学的な自伝の書であり、「自己」を知るだけでなく「人間そのもの」を知ろうとする姿勢はフランス文学のひとつの伝統となった。

17世紀にはジャン・ラシーヌモリエールが優れた演劇作品を書き、当時から劇場でさかんに上演されたわけであるが、特にモリエールの『町人貴族』などは、現代でも各国の劇団が、いわば「演劇作品の古典」として(ほぼそのまま、あるいは翻案して)上演することがある。ブレーズ・パスカルは、数学者・自然科学者でありながらも自身の秘めたる神秘体験から宗教的確信を深め、キリスト教を護教するために論陣を張り、キリスト教護教書とも言える書物をいくつも残したが、生前に刊行されず多数の断片からなる遺稿という形で残された『パンセ』は、自然哲学者やクリスチャンという立場を超え、その哲学的な深淵さによって 現代でも世界中の読者を魅了しつづけている。

18世紀には啓蒙主義のヴォルテールジャン=ジャック・ルソードゥニ・ディドロらが活躍し、ディドロやルソーらは『百科全書』の成立にも貢献した(その流れが現代のこのWikipediaにまで繋がっているわけである。)

19世紀には『赤と黒』のスタンダール、同一登場人物が何度も異なる小説に登場するという手法(この手法は研究者によって「人物再登場」と呼ばれている)を開発し、「人間喜劇」という名でくくられて呼ばれる膨大な小説群を残したオノレ・ド・バルザック、『レ・ミゼラブル』のヴィクトル・ユーゴー、『三銃士』や『モンテクリスト伯(岩窟王)』のアレクサンドル・デュマ・ペールなどが活躍した。『八十日間世界一周』、『海底二万里』で知られるジュール・ヴェルヌサイエンス・フィクションの先駆者となった。1873年アルフォンス・ドーデの『最後の授業』を含む短編集が出版され、フランス語の愛国教育が始まったことが知られている。[注 12][注 13][注 14]

20世紀には、マルセル・プルーストによって『失われた時を求めて』が書かれ、これは「20世紀を代表する大長編小説」とされている。一方でシュルレアリスムアンドレ・ブルトンロベール・デスノスルネ・シャールなどが詩作品などを残した。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、軍用機のパイロットとして勤務しつつ作家としてデビューし、『夜間飛行』(1931年刊)や『人間の土地』(1939年刊)などはベストセラーとなり今日でも読み継がれている。また『星の王子さま』は、一見したところでは「子供向け」という体裁を装いつつも、そこに提示された寓喩や風刺や人生の意味に関する洞察はとても深いものがあり大人の読者も魅了し、またサンテグジュペリ自身が描いた素朴な挿絵も好評で、世界各国でロングセラーとなり、『星の王子さま』は現在では、その翻訳された言語数(翻訳言語数)が「世界中の全ての書物の中で2位」(翻訳言語数トップの聖書に次ぐ、堂々の2位)という位置づけであり、文字通り世界中で、メジャーな言語話者だけでなく、相当なマイナーな言語の話者によっても読まれているのである。

哲学編集

 
我思う、ゆえに我あり」のコギト命題で知られるルネ・デカルト

中世において神学者のピエール・アベラール唯名論を唱え、スコラ学の基礎を築いた。のちにスコラ学はシチリア王国出身のトマス・アクィナスの『神学大全』によって大成された。一方正統カトリック信仰とは異なる立場で南フランスでは一時グノーシス主義の影響を受けたカタリ派が勢力を伸ばしたが、アルビジョワ十字軍によるフランス王権の拡張やカトリックによる弾圧によってカタリ派は15世紀までに滅んだ。

ルネサンス期にはミシェル・ド・モンテーニュが活躍し、『エセー』を著してその中でアメリカ大陸アフリカの住民を擁護した。しかし、モンテーニュの非西欧世界への視線は非西欧を「文明」として捉えることはせず、のちのルソーに先んじて「高貴な野蛮人」として扱うに留まった。

宗教改革や対抗宗教改革後の17世紀にはジャンセニスムガリカニスムが隆盛を迎え、ブレーズ・パスカルジャック=ベニーニュ・ボシュエらが活躍し、それぞれの立場からカトリック信仰を擁護した。また、『方法序説』を著したルネ・デカルトによって近代哲学が成立した。

18世紀には信仰よりも理性を重視する啓蒙思想が発達し、ジャン=ジャック・ルソーシャルル・ド・モンテスキューヴォルテールフランソワ・ケネーらが活躍した。これらの思想家は儒教の影響などもあって、それまでのキリスト教会が担っていた神聖な権威よりも理性を重視する合理主義的な考察を進め、君主による絶対主義を否定するアメリカ独立革命フランス革命の理論的支柱となった。しかし、同時に啓蒙主義によってもたらされた合理主義は植民地サン=ドマングや、18世紀末から19世紀末にかけて啓蒙思想を理論的支柱として独立したアメリカ合衆国ラテンアメリカ諸国において、理性を持たない「半人間」という扱いをうけた黒人アメリカ先住民インディアンインディオ)を、「より理性的な」白人が合理的に奴隷化し、収奪することを合法化する思想ともなった[47]。フランス革命中に活躍した平等主義者フランソワ・ノエル・バブーフは、その思想の先見性から共産主義の先駆者と位置づけられた。『人権宣言』の説く「人間」に、女性が含まれないことを指摘したオランプ・ド・グージュフェミニズムの先駆者となった。

啓蒙主義を理論的支柱としたフランス革命が一段落した19世紀前半にはアンリ・ド・サン=シモンシャルル・フーリエによって社会主義思想が唱えられた。彼らの思想はのちにカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスによって空想的社会主義と呼ばれた。同じころ、オーギュスト・コント実証主義を唱え、実証主義は19世紀後半のラテンアメリカ諸国の政治や文化(1889年のブラジルの共和制革命など)に大きな影響を与えた。資本主義経済の確立を唱えた実証主義は、ラテンアメリカにおいて、社会進化論などとともに国家が資本主義的な利用を図るために「野蛮」なインディオの共有地や解体し、半奴隷労働を強制することを理論的に支えた。19世紀半ばにピエール・ジョゼフ・プルードン無政府主義(アナルキスム)を体系化し、無政府主義はミハイル・バクーニンによってマルクスとエンゲルスの史的唯物論科学的社会主義)に対抗する社会主義思想となった。帝国主義の時代において、このような19世紀までの社会主義思想も含めた多くの社会思想は、マルクス主義者のポール・ルイ(ポール・レヴィ)や、哲学者のフェリシヤン・シャレのような数少ない例外を除いて植民地主義は「野蛮」な非西欧の「文明化」に奉仕するものだとして、真剣に植民地支配やその結果である収奪、暴力を批判する思想とはならなかった[48]

第一次世界大戦後の戦間期にはアンリ・ベルクソンジョルジュ・ソレルらが活躍した。一方、植民地からはマルティニーク出身のエメ・セゼールやセネガル出身のレオポール・セダール・サンゴールが科学的人種主義によって不当に評価を低く見られていた黒人とアフリカ文明を再評価する、ネグリチュード運動が提唱された。

第二次世界大戦後には実存主義哲学が隆盛を迎え、ジャン=ポール・サルトルやマルティニーク出身のフランツ・ファノンは反帝国主義の立場からアルジェリア戦争に反対するとともに、アルゼンチンの革命思想家チェ・ゲバラゲバラ主義毛沢東毛沢東主義とともに植民地第三世界におけるマルクス主義による革命闘争の理論的支柱となった。実存主義者のシモーヌ・ド・ボーヴォワールはフェミニズム運動を牽引した。1950年代から1960年代のフランスでは、知識人を中心に毛沢東主義が流行した。

実存主義のあとには、1960年代からスイスの言語学フェルディナン・ド・ソシュールや、人類学クロード・レヴィ=ストロースヘーゲル学者アレクサンドル・コジェーヴによって構造主義が隆盛を迎え、ルイ・アルチュセールミシェル・フーコージャック・デリダジル・ドゥルーズエマニュエル・レヴィナスなどが活躍した。オーストリアジークムント・フロイトが大成した精神分析学は、20世紀後半にパリ・フロイト派を立ち上げたジャック・ラカンによって新たな段階に至った。構造主義のあとにはポスト構造主義が隆盛を迎えたが、1994年のソーカル事件により、構造主義やポスト構造主義の「知の欺瞞」が暴露され、衒学的な姿勢は厳しく批判された。ただし、このような限界がありながらも、未だにフランス初のポストモダニスムアラン・バディウのようなフランス人のみならず、アメリカ合衆国ガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァク(デリダ派)やジュディス・バトラー(フーコー派)スロヴェニアスラヴォイ・ジジェク(ラカン派)らに批判的に継承され、発展を続けているのも事実である。

脱植民地化時代のマルティニークにおいてはセゼールやファノンの後継者であるエドゥアール・グリッサンの全世界論や、パトリック・シャモワゾーラファエル・コンフィアンらのクレオール主義が唱えられた。

1990年代には、かつてチェ・ゲバラとともにボリビアでの革命運動に参加したレジス・ドブレによってメディオロジーが唱えられ、また毛沢東派のアラン・バディウが活動し続けるなど、ポストモダニスム以外の哲学のあり方も変化している。

音楽編集

 
印象派の音楽家、ドビュッシー

17世紀前半まではイタリアと並ぶ音楽大国として君臨し、オペラを中心に栄えたが、今日ではこの時期の作品はラモーリュリなどを例外として演奏機会は多くない。その後、ウィーン古典派からロマン派にかけてドイツ圏の作曲家たちに押されて奮わなくなり、パリで活躍する作曲家もドイツ系が多くなった。その一人オッフェンバックの傘下からビゼーが出現するが短命で世を去り、その後パリ楽壇のボス的存在であったサン=サーンスはドイツ人ペンネームを使うなど[要出典]、一種の文化植民地状態に陥ってしまう。しかし、そのサン=サーンスを批判したフランク(彼もドイツ系ベルギー人ではあったが)が現れたころから独自のフランス音楽を模索する動きが高まり、19世紀末20世紀にかけての「フランス6人組」やフォーレドビュッシーラヴェルらによって一つの頂点を築く。本来は音楽先進国であったため、これらの運動はいわゆる国民楽派には含まれないことが多いが、ドイツ楽派の桎梏を逃れる動きという点では呼応するものがあった。

ポピュラー音楽においては20世紀初頭から1950年代にかけてミュゼットや、いわゆるシャンソンとして知られる音楽が流行し、エディット・ピアフイヴ・モンタンシャルル・アズナヴールなどが活躍した。また、戦前はアルゼンチンタンゴが流行し、アルゼンチンでは「パリのカナロ」などの楽曲が作られた。

また、ジャズが幅広く浸透しており、アメリカのジャズをもとに、独自の音楽性を発展させた形式に特徴がある。具体的には、Zeule と呼ばれる1つのジャンルにすらなっているマグマおよびその関係者であるディディエ・ロックウッドらの音楽がフランス国外でも広く知られている。

1960年代から1970年代にはアメリカ合衆国やイギリスロックの影響を受け、セルジュ・ゲンスブールシルヴィ・バルタンフランス・ギャルジョニー・アリディミッシェル・ポルナレフジュリアン・クレールアラン・シャンフォー、ロック・バンドではアンジュ、マルタン・サーカス、ズー、テレフォンヌなどが活躍した。1980年代以降は、フランスの旧植民地から出稼ぎにやってきた人々や、活動の拠点を母国からフランスに移した音楽家も活躍し始め、セネガルユッスー・ンドゥールマリ共和国サリフ・ケイタ、アルジェリア系のラシッド・タハアマジーグ・カテブのような音楽家が活動している。1990年代にダフト・パンクが登場するとエレクトロニック・ダンス・ミュージックの産地としても一定の地位を占めるようになり、ダフト・パンクのほかデヴィッド・ゲッタジャスティスなどが国際的な成功を収めている。

美術編集

 
民衆を導く自由の女神』ウジェーヌ・ドラクロワ画

フランスは芸術の国として広くその名を知られており、国内、海外を問わず多くの芸術家がフランスで創作活動を行った。ファン・ゴッホパブロ・ピカソル・コルビュジエなどはフランスで創作活動を行った芸術家達のうちのごく一部である。

18世紀末から19世紀初めにかけては新古典主義により古代ギリシア古代ローマの文化の復興運動が進められ、フランス革命を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドなどが活躍した。

19世紀前半にはロマン主義写実主義が隆盛を迎え、ウジェーヌ・ドラクロワギュスターヴ・クールベらが活躍した。19世紀後半には印象派象徴派ポスト印象派ジャポニスムが隆盛を迎え、エドゥアール・マネクロード・モネポール・セザンヌポール・ゴーギャンらが活躍した。20世紀初頭にはフォーヴィスム(野獣派)、キュビスムアール・ヌーヴォーアール・デコが隆盛を迎え、ジョルジュ・ブラックアンリ・マティスらが活躍した。

1918年に第一次世界大戦が終結し、それまで世界の中心的地位を占めていたヨーロッパが衰退すると、戦間期にはシュルレアリスムなどそれまでの西欧の美術様式に逆らった美術運動が発展した。

第二次世界大戦後に冷戦構造の中でアメリカ合衆国が西側世界の中心となると、フランスの文化的な地位は相対的に低下したが、終戦直後から1950年代にかけてアンフォルメルや、1960年代に全盛を迎えたヌーヴォー・レアリスムなどでフランスの芸術運動はアメリカ合衆国と激しく主導権を争った。

映画編集

フランスにおける芸術の中でも近年とりわけ重要視される文化は映画である。フランスで映画は、第七芸術と呼ばれるほど、深く尊敬を集め親しみある存在である。

映画の歴史は1895年12月28日のリュミエール兄弟の上映によって始まり、20世紀初頭には文芸色の強い無声映画が多数作られた。毎年5月には南仏の都市カンヌにおいてカンヌ映画祭が開催され、世界中から優れた映画関係者が集まり華やかで盛大な催しが行なわれる。

食文化編集

食文化の面では、王制時代の宮廷文化と豊かな農産物とを背景に発展したフランス料理が有名である(なお、フランスはヨーロッパでも最上位に位置する農業国である)。前菜やスープ類から始まってメイン料理を経てデセール(デザート)へと進むコース料理が発達し、テーブルマナーも洗練されたものとなった。宮廷文化のおかげで(貴婦人らや甘いもの好きの王などを満足させるために)ケーキなどの菓子文化も発達した。そして、上流階級のフランス料理のほかにも、地方ごとにさまざまな特色を持つ郷土料理が存在している。ブルターニュ地方のそば粉を用いたクレープガレット。(小麦と塩とイーストしか使わないのにとても美味しい)バゲット[注 15]バタール、(バターがたっぷりで多層でサクサクの)クロワッサンなどのフランス独特のパンも世界中で知られている。 コンソメヴィシソワーズポタージュなどフランス発祥のスープも有名である。[注 16] 現代におけるフランス料理の形を確立させたのは、おもにアントナン・カレームオーギュスト・エスコフィエの両名のシェフによる功績とされている。[注 17] 近年ではたとえば「トリュフのパイ包みのスープ」を考案したポール・ボキューズなど有名なシェフも多く自らが経営する料理店で世界中からやってくる食通たちを満足させているし、現在もフランス料理は進歩し続けている。フランスはチーズワインの生産国としても名高く、AOC法によって厳格に品質管理されたフランスワインは世界中で高評価を得ている。また、ワインを蒸留したブランデーの生産も盛んで、特にコニャック地方で生産されるブランデーは品質のよさで知られ「コニャック」というブランドで呼ばれている。なおカフェ文化が育ったのもフランスであり、17世紀後半に生まれたフランスのカフェ文化は、現在まで広く世界中に根付いている。

ファッション編集

 
ヴァンドーム広場のシャネル本社

ファッションの大衆化が進んだ19世紀以降、特に20世紀に入ってからはフランスのファッションブランドが世界を席巻しており、ユベール・ド・ジバンシィイヴ・サンローランクリスチャン・ディオールココ・シャネルなどのファッションデザイナーによるオートクチュールプレタポルテのほか、これらのファッションブランドが展開する香水やバッグなどが人気を博している。ほかにも、ルイ・ヴィトンエルメスなどの旅行用品や馬具のブランドが衣類や靴、バッグ、小物、香水などのラインを出し世界中で人気を博している。また、パリコレクションが世界中のファッション雑誌やバイヤーからの注目を集めていることから、フランス以外の諸外国のファッションデザイナーの多くがコレクションへの参加を行っており、日本からもコム・デ・ギャルソン川久保玲)やケンゾー1999年まで高田賢三)、Yohji Yamamoto(山本耀司)などの多数のファッションブランドが毎年参加しているなど隆盛を極めている。

これらのファッションにおけるフランスの隆盛は、フランス文化を諸外国に広めるだけでなく、外貨獲得にも大きく貢献していることから、現在では業界そのものが政府による大きなバックアップを受けている。

世界遺産編集

 
「西洋の驚異」と称されるモン・サン=ミシェル

フランス国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が35件、自然遺産が3件存在する。さらにスペインにまたがって1件の複合遺産が登録されている。

祝祭日編集

日付 日本語表記 フランス語表記 備考
1月1日 元日 Jour de l'An
3月 - 4月 復活祭日曜日 Pâques 移動祝日
3月 - 4月 復活祭翌日の月曜日 Lundi de Pâques 移動祝日
5月1日 メーデー Fête du Travail
5月8日 第二次世界大戦戦勝記念日 Le 8 mai
4月 - 6月 キリスト昇天祭 Ascension 移動祝日
5月 - 6月中の日曜日 聖霊降臨祭 Pentecôte 移動祝日
5月 - 6月 聖霊降臨祭の翌日の月曜日 Lundi de Pentecôte 移動祝日
7月14日 革命記念日 Fête Nationale
8月15日 聖母被昇天祭 Assomption
11月1日 諸聖人の日 Toussaint
11月11日 第一次世界大戦休戦記念日 Fête de l'Armistice
12月25日 クリスマス Noël

スポーツ編集

フランスの3大人気スポーツはサッカー自転車ラグビーである。またペタンクは、国民的なスポーツで、あらゆる年齢層で年中よく親しまれている。フランスでは各所に「ペタンク場」が作られている。ほかにもモータースポーツや、(海岸地域などで)セーリング(ヨット競技)や下記のスポーツが盛んである。

テニス
ローラン・ギャロスが代表するテニスも盛んで、世界的に著名な選手や監督、指導者も多い。四大大会の一つである全仏オープンはグランドスラム唯一のクレーコートとして有名。現在はジル・シモンリシャール・ガスケガエル・モンフィスジョー=ウィルフリード・ツォンガファブリス・サントロセバスチャン・グロージャンなど数多くのトップ選手のいる強豪国でもある。
競馬
パリロンシャン競馬場凱旋門賞コースでは世界最高峰の競走として知られる。また、繋駕速歩競走が盛んであり、平地競走障害競走よりも人気があるといわれている。ヴァンセンヌ競馬場で行われるアメリカ賞は世界最高峰の競走で知られる(詳細についてはフランスの競馬を参照)。
柔道合気道
「Judo」と綴られる柔道は、フランスでの競技人口が日本を上回っているほどの人気がある。合気道も、習っている人口が日本を上回っている。
ウィンタースポーツ
アルプス地方ではスキーなどのウィンタースポーツが伝統的に盛んである。
スカイスポーツ
夏季のヴァカンスの長期休暇のシーズンになると、大人たちがパラグライダーモーター・パラグライダー、硬い翼を持つグライダーウルトラライトプレーンなどを使って、フランスの空を飛び交う。エアレースにもフランス人パイロットが参戦している。
ウォータースポーツ
大西洋岸(フランスの西側の海岸)ではサーフィンが行われ、ヨーロッパサーフィンの中心地である。同地域ではウィンドサーフィンも盛んである。

サッカー編集

フランスで一番人気のスポーツとしては、サッカーが挙げられる。フランスはこれまでに、FIFAワールドカップ2大会とUEFA欧州選手権 (通称: EURO)2大会の開催国になった。1984年欧州選手権で優勝したフランス代表の流麗なサッカーは「シャンパン・フットボール」と形容された。2回目の自国開催となった1998年ワールドカップでは大会初優勝を遂げ、直後の2000年欧州選手権でも優勝を果たした。メンバーの多くを移民の末裔や海外県出身者が占める代表チームは、国民統合の象徴的な存在にもなった。ロシアで行われた2018 FIFAワールドカップでは20年ぶり2度目の優勝を成し遂げた。女子でもFIFA女子ワールドカップの第8回大会の開催国として2019年に開催される。

国内の1部リーグにはリーグ・アンがある。バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞したフランス人選手としては、レイモン・コパミシェル・プラティニジャン=ピエール・パパンジネディーヌ・ジダンなどが挙げられる。また、日本人選手ではオリンピック・マルセイユ酒井宏樹RCストラスブール川島永嗣がいる。

また、FIFA初代会長のロベール・ゲラン、ワールドカップ創設の功労者ジュール・リメ、欧州選手権の提唱者アンリ・ドロネーHenri Delaunay)、ヨーロピアンカップの提唱者ガブリエル・アノGabriel Hanot)、UEFAの会長となったプラティニなど、国際サッカーの発展において重要な役割を果たしたフランス人は数多い。その後、サッカー人口が増加した。

サイクルロードレース編集

 
毎年7月に3週間以上かけて行われるツール・ド・フランス

世界最大で三大ツールの一つであるツール・ド・フランスが行われ、人気のスポーツである。ツール・ド・フランスの歴史は古く、1903年に第1回大会が行われて以来、二度の大戦によって1915年から1918年および、1940年から1946年の中断があるものの、2008年で95回を数える。しかし、近年ではフランス出身の選手はあまり活躍しておらず、1985年ベルナール・イノーを最後に総合優勝者は出ていない。その他フランスで行われる主な大会としては、パリ~ニースパリ〜ルーベドーフィネ・リベレツール・ド・フランスGP西フランス・プルエーパリ~ツールがある。

ラグビー編集

フランスにおいてラグビーは富裕層と南部を中心に人気を誇っている。国内ではサッカーと人気を二分するスポーツである。欧州6か国 (グレートブリテン・アイルランド2島で4か国)で実施されるシックス・ネイションズ (6 Nations)のメンバーに連ねており、欧州においてもイギリス (イングランドウェールズなど)に次ぐ強豪国である。フランス代表のパスとランが続く流麗で華やかなプレースタイルはしばしば「シャンパン・ラグビー」などと評される。2007年にはワールドカップ (RWC)自国開催したが、準決勝で南アに敗れ、初優勝はならなかった。フランス政府は全国9か所に、少年層から青年層までの有望選手が勉強しながら育成できる施設をつくっている。2023年にもRWCフランス大会が実施される予定。

モータースポーツ編集

ルノープジョーといった最古の量販車メーカーを抱えることもあって、自動車が実用化されだした20世紀初頭、1906年には世界初のグランプリレースがフランスで行われた。こうしてフランス国内では自動車レースが盛んに行われるようになり、フランスグランプリを開催している。ほかにも、1923年に初開催されたル・マン24時間レース、近年はフランス国内がコースに含まれなくなったが1979年初開催のパリ・ダカール・ラリーを主催する側として知られ、フランスからの参加者も多い。自動車会社としては、ルノー(ルノーF1)がF1、プジョー、シトロエンがおもにラリーで活躍しているほか、マトラリジェといった比較的小規模なメーカーもF1やル・マンで存在感を示している。多くのドライバーもモータースポーツ黎明期より数多く輩出しており、そのため優れた結果を残したドライバーも数多い。二輪車のフランススーパーバイク選手権 (fr:Championat de France Superbike)にも関心が集まる。

バスケットボール編集

フランスは伝統的にはバスケットボールへの関心が低かった。が、ここ20年ほど、フランス国内に黒人系の移民が増えるにつれて徐々に関心が高まってきた。(ただし興味を持っているのは主に移民系の黒人たちで、フランスの主流の白人は、概して、バスケットボールに対しては関心は低い[独自研究?]。) 近年[いつ?]、数多くのNBA選手を輩出し、中でもNBA史上初の外国人選手のファイナルMVP受賞者となったトニー・パーカーが有名。

国内にはLNBと呼ばれるプロバスケットボールリーグを持つ。代表はこれまでにオリンピック出場6回、世界選手権出場5回を誇る。2000年シドニーオリンピックでは銀メダル獲得。決勝戦でドリームチームIVと呼ばれたアメリカをあと一歩の所まで追い詰め、それまでの「アメリカ圧勝」の図式を崩した。この苦戦を機に、「ドリームチーム」という名前は使用されなくなった。

バスケットボール欧州選手権(通称「ユーロバスケット」)では、2005年に銅メダル獲得。代表チームの課題は、NBA選手が多いため、オフシーズンの代表招集に主力が全員揃わない傾向にある。代表チームのニックネームは「Les Bleus」。

注釈編集

  1. ^ 1999年までの通貨はフラン (₣)。
  2. ^ フランスのユーロ硬貨も参照。
  3. ^ フランク王国に由来していない例としては、ギリシャ語ガリア(Γαλλία)など。ガリアは古代ローマ時代の呼称。
  4. ^ カール・マルクス1852年の著書『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でボナパルティズムという用語が定着した。
  5. ^ a b オイルショックが発生した1974年は2.4%だった満15歳以上男女の失業率は第2次オイルショックがあった1979年には5.9%まで上昇、1990年代前半までは10%前後の失業率となっていた。Laborsta”. ILO. 2009年12月22日閲覧。
  6. ^ ミシュランのキャラクターはタイヤを纏ったミイラのようだが、実際に合成ゴムのブナは大戦で軍服に使われた。
  7. ^ ある団体の行動や習慣を「異常」と見るか、「多文化」と見るか、非常に難しい問題であると報告書に記述されている。多文化と異常行動の線引き、この難しい問題に対し、フランス政府は西欧的「人権」や「被害者の存在」に根拠を置くことでバランスを取っている。
  8. ^ 特に悪質な団体を取り締まるために、通称「反セクト法」(「アブピカール法」「セクト弾圧法」など数多くの俗称で呼ばれた。正確な日本語訳は「人権及び基本的自由を侵害するセクト的運動の防止及び取り締まりを強化する2001年6月12日の法律第2001-504号」)を制定し、被害者救済を確立するために判例を積み重ね、犯罪の未然防止や活動内容の監視のために各県に専門部署を設置したり、「子どもへの教育」と称して洗脳やひどい教育が行われていないか監視するための部門を設置したりするなど、フランス政府の「セクト対策」は多岐にわたる。裁判の判例や法律の制定を通じて、セクト被害やその救済という概念を刑法体系内に作り上げようとしている。
  9. ^ フランスの「セクト対策」に対しては、(フランス政府の外では)疑問視する声も多い。「人種差別」「宗教差別」「人権無視」「報道の自由の侵害」と指摘する声や、フランスは「人権の祖国」であったはずなのに、少数派に対し不寛容になってしまったフランス政府の実態に対する疑問も提起されている。
  10. ^ このセクト対策を「宗教弾圧」とする意見もある。宗教に干渉しているのでなく、フランス政府は、できるだけ犯罪行為に絞るように取り締まっている。ただしフランス政府は単純な取り締まりだけを考えているわけでもない。報告書は「セクトは大衆の需要を満たし大衆の望むものを提供しているからこそ繁栄しているのであり、単純に弾圧できるものではない」としている。
  11. ^ フランス国内でも、セクト対策は宗教弾圧になりうる危険性があり、ライシテの根幹にもかかわる問題のために、多数の議論を巻き起こし、この過程で「進化するライシテ」「新しいライシテ」などの概念が示された。
  12. ^ アルザス=ロレーヌ地方での使用言語はアルザス語ロートリンゲン方言ドイツ語版フランス語版英語版ロレーヌ方言など多様であるが、そういった事情は一切隠蔽した反独プロパガンダが行われた。
  13. ^ 19世紀には、国家観について、ナポレオン戦争期のヨハン・ゴットリープ・フィヒテドイツ国民に告ぐドイツ語版英語版』(1808年)と普仏戦争後のエルネスト・ルナン国民とは何か?フランス語版英語版』(1882年)の対比などから市民国家主義英語版民族主義との相違が明確にされていたが、欧州では高まる民族主義が世界大戦へと向かわせた。また、一方でルナンは、『知的道徳的改革』(: La Réforme intellectuelle et morale)において、フランスの植民地主義による侵略を正当化している。
  14. ^ 第一次世界大戦後の戦間期には、『帰郷ノート』などで知られるマルティニーク出身のエメ・セゼールは、セネガル出身のレオポール・セダール・サンゴールらとともに、科学的人種主義によって不当な扱いを受けていたアフリカ系黒人の文化の再評価を図るネグリチュード運動を担った。
  15. ^ 日本では「フランスパン」と呼ばれて親しまれている。
  16. ^ 雑学だが、フランスのクロケットが明治期の日本に到来し、日本で独自進化し日本風にアレンジされて発展したものが日本料理で「コロッケ」となり今日に至っている。
  17. ^ 特にカレームの考案したピエス・モンテーは、現代の日本の洋風結婚式における豪華なウェディングケーキなどの形で一般的に普及している。

出典編集

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参考文献編集

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  • アンドレ・モロワ『フランス史』上・下、新潮社〈新潮文庫〉。
  • アンドレ・モロワ『フランス革命』読売新聞社、1950年。
  • 山田文比古『フランスの外交力』集英社〈集英社新書〉、2005年9月。ISBN 4-08-720310-7

関連項目編集

外部リンク編集

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日本政府内

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その他