トルン・チェルビモンゴル語: Tulun Čerbi中国語: 脱欒扯児必生没年不詳)は、コンゴタン氏出身のチンギス・カンに仕えた千人隊長の一人。漢文史料では脱忽闌闍里必(『元史』)/脱欒扯児必(『元朝秘史』)、『集史』などのペルシア語史料ではTūlūn Jarbīと記される。

概要 編集

チンギス・カンに仕えたコンゴタン族長モンリク・エチゲの息子として生まれ、兄にはココチュ(テプ・テングリ)、弟にはスイケトゥ・チェルビダイル(諸説あり)らがいた。

1204年ケレイトを併合したチンギス・カンは千人隊制度(ミンガン)親衛隊制度(ケシク)の原型を創設し、モンゴル帝国の基盤を作り上げた。その際、ドダイドゴルクオゲレブチャラン、そしてトルンとスイケトゥ兄弟の6人を侍従(チェルビ)に任命した[1]。これ以後、トルンはチンギス・カンの側近として活躍するようになる。

1206年、モンゴル高原を統一したチンギス・カンはモンゴル帝国を建国し、千人隊制度(ミンガン)を整備した。トルンは父のモンリクや弟のスイケトゥ、ダイル、ストゥとともに千人隊長に任命されており、『元朝秘史』には以下のように記されている。

卿らは父と子と別々に、千[戸の民]をどのように統め来たったか、国民を取り集めようとして、[己が]父から[離れ、朕の]片翼となって[互いに]競い合いつつ、国民をともに取り集めてくれた[その勲功の]ゆえに、[朕はさきに卿に]侍従(チェルビ)という称号を与えたな。今や、己が[力にて]取り獲たる、[己が牧地内に]集め置きたるものは、[全て]己が千[戸の民]として[弟の]トルカンとともに相談し合って統めてはくれまいか。 — チンギス・カン、『元朝秘史』第211節[2]

なお、『集史』「コンゴタン部族志」はモンリクとストゥが左翼の千人隊長、トルンとスイケトゥが右翼の千人隊長であったとするが、『集史』「チンギス・カン紀」はストゥのみが左翼の千人隊長であったとする。後述するようにトルンは金朝遠征に従軍してその子孫は華北に投下領を得ていることなどから、トルンは本来は左翼の千人隊長であったのが右翼に所属を変えたのであり、モンリク家の所属は流動的あったのではないかと考えられている[3]

1211年に金朝への侵攻が始まると、トルンはチンギス・カン直属の中軍(イェケ・コル)に属して金朝軍に加わった。1215年にはチンギス・カンの命によってモンゴル・契丹・漢人の混成軍を率い、真定・大名といった重要拠点を攻略し、東平にまで至った。東平では水の守りに阻まれてこれを攻略することができず、周囲を掠奪してトルン・チェルビは北方に帰還した[4][5][6]。なお、この時トルン・チェルビが率いていた混成軍には石抹也先石抹孛迭児といった、後にモンゴル帝国の武将として活躍する契丹人将軍が加わっていた[7][8]

チンギス・カンは中央アジア遠征から帰還すると、今度はタングート(西夏)国への遠征を開始した。『元朝秘史』はタングート遠征に先立ってトルン・チェルビがチンギス・カンの西夏親征に反対したという逸話を伝えており、トルン・チェルビの発言を以下のように記している。

タンウトの民は 築きたる城持てるもの/動かぬ住処あるものぞ 築きたる城担ぎて[何処にか]往かれむ彼等は/動かぬ住処棄てて[何処にか]往かれむ彼等は  我らは[一旦]退いて、併科の玉肌が冷めたならば、また出馬することにしましょうぞ — トルン・チェルビ、『元朝秘史』第265節[9]

この発言に全ての皇子たち、ノヤンたちは賛同したが、チンギス・カンは「ここで退いたらタングトの民は我らが臆したと笑うだろう」と述べて親征を強行した。 また、『元朝秘史』によるとトルン・チェルビはチンギス・カンの命によって西夏最後の皇帝李睍を処刑し、西夏遠征での功績を称えて西夏皇帝の皇宮(カルシ)を与えられたという[10]

子孫 編集

トルン・チェルビの息子にはバイバクという人物がおり、この人物がトルン・チェルビの後継者となったと見られる。

バイバクとその息子のバラク、ブラルキらは皆「シリギの乱」においてクビライに忠誠を尽くして亡くなったため、その忠義を称えて『元史』巻193「忠義伝」に立伝されている。

コンゴタン氏モンリク家 編集

脚注 編集

  1. ^ 村上1972,248頁
  2. ^ 村上1976,9-10頁
  3. ^ 杉山2010,77-79頁
  4. ^ 『聖武親征録』「上遣脱欒闍児必、帥蒙古・契丹・漢軍南征、降真定、破大名、至東平、阻水不克、大掠而還、金人復取之」
  5. ^ 『元史』巻119列伝6木華黎伝,「詔木華黎以鯨総北京十提控兵、従脱忽闌南征未附州郡」
  6. ^ 『モンゴル秘史』では「ジョチ・カサル及びジュルチェデイアルチ・ノヤン、トルン・チェルビらの率いる軍勢が北京城を攻略した」と記されているが、これは「カサル軍が北京城を攻略した」「トルン・チェルビがチンギス・カンの命によって華北を攻略した」という2つの史実を混同したものであり、トルン・チェルビが北京城攻略に携わったというのは史実ではない(村上1976,168-169頁)。
  7. ^ 『元史』巻150列伝37石抹也先伝,「歳乙亥……又命也先副脱忽闌闍里必、監張鯨等軍、征燕南未下州郡」
  8. ^ 『元史』巻151列伝38石抹孛迭児伝,「乙亥……又従脱忽闌闍里必徇地山東・大名」
  9. ^ 村上1976,256頁
  10. ^ 村上1976,261-262頁

参考文献 編集

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 杉山正明「モンゴルの破壊という神話」『ユーラシア中央域の歴史構図』総合地球環境学研究所、2010年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年