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名称編集

ケレイト(Kereyid~Geryid)は、ケレイ(Kereyi~Gereyi)の複数形である。『集史』においてラシードゥッディーンは「ケレイ」の意味を、その祖先の顔色が「黒ずんだ色」をしていたことに由来するとしたが、おそらくは「カラス」のモンゴル語(keriye)に由来すると考えられる。モスタールト師によると、オルドスには今でもK'eritと称する大・小・黒・白の小遊牧民集団が残存しており、キルギス族の中にもKiräi~Giräiという名の有力支族がいるという。[3]

ケレイト部族はケレイト氏を始め、チルキル(ジュルキン)氏、トンカイト(コンカイト)氏、トゥマウト(トベエン)氏、サキアト(サカイト)氏、エリアト(アルバト)氏の6氏族からなっているが、支配層の一族がケレイト氏族の中から出て以来、ケレイトが彼らの総称となった。

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歴史編集

起源編集

ケレイトの起源は、ウイグル帝国(回鶻)を滅ぼしたキルギス帝国(黠戛斯)をモンゴル高原から駆逐したモンゴル系部族集団(九姓タタル)の最有力種であったと考えられている。やがてケレイトの祖先にあたるこの部族集団は、同じくキルギスを追い出したウイグルの影響を濃厚に受けた西モンゴル地方の部族のナイマン部族連合とモンゴル高原をめぐって熾烈な覇権争いを展開することになった。アブール・ファラジによれば、ケレイト族は11世紀の初頭にオングト、ナイマンら西方の遊牧諸部族とともにネストリウス派キリスト教を信仰し、ウイグル文字を用い、文化的に進んだ部族となっていたという。

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阻卜編集

遼史』に登場する阻卜という民族がケレイトに比定されている。

遼朝の聖宗が阻卜の諸部にそれぞれ節度使を任命して、その分割統治を推し進めると、これに抵抗する反乱が起き、可敦城(カトン・バリク)を包囲すると、烏古も呼応して立ち上がった。一旦は鎮圧されたものの、これを契機に契丹の西北経営に頓挫の兆しが現れはじめた。1026年、契丹軍の甘州ウイグル攻撃失敗に乗じて、阻卜諸部はそろって契丹に背き、契丹の統制力のゆるみに乗じて、北阻卜の磨古斯が阻卜諸部の統合を遂げ、1089年には遼朝もその王権を認めることとなった。この「磨古斯」なる人物は『集史』にあるマルクズ・ブイルク・カン(Marghūz Būīrūq Khān)に比定されている。

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マルクズ・ブイルク・カン編集

ブイル・ノールに住むタタル部族にナウル・ブイルク・カン(Nāūūr Būīrūq Khān)という部族長がいた。あるとき彼は機会を狙ってケレイト部族長のマルクズ・ブイルク・カンを捕えて契丹族の君主に引き渡すことに成功し、マルクズ・ブイルク・カンは木櫨に打ちつけられて処刑された。マルクズの妻クトクタイ・ハリグチ(クトクタニ・ケレクチン)[8]は復讐するため、タタル部族に酒を献上すると偽って、百オンドル(ウンドル)[9]の馬乳酒を5百万用意してタタル部へ向かった。しかし、中に入っているのは百人の武装した勇士であり、到着するなり百人の武装した勇士はナウル・ブイルク・カンをはじめとするタタル部人を次々と殺害した。こうして妻のクトクタイはマルクズの仇をとることができた。

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サリク・カン編集

『集史』にはサリク・カン(Sarïq Qān)[13]という人物が登場するが、これもマルクズと同一人物とされる。彼はアルチ・タタルと戦い、あるとき北モンゴリアの要地ブルカン山の奪取をめぐって激戦を交えた。サリク・カンははじめ、山の近くまで押し寄せたタタル族の一首長クムス・サイジャン(Kümǖs Saïǰāng)を打ち負かしたが、その勝利に酔いしれて油断しているすきに、他のタタル首長コリダイ・ダイル(Qōrïdāī Dāyīr)に不意を突かれて大敗北し、窮地に陥った。そこで、彼はやむなくそれまで敵対していた西隣の大国ベテキン・ナイマン族のブイルク・カン(ナルクシュ・タヤン・カン)に援助を求めた。ベテキン氏族の首長はこの好機を見逃さず、早速娘をサリク・カンの子のクルチャクスに嫁がせてサリク・カンを抱き込み、東モンゴリアへの勢力拡大を計った。かくしてベテキン・ナイマンと姻族となったサリク・カンは息子の嫁の兄にあたるカジル・カン(Qāǰïr Qān)と協力して、新たに軍を興しタタル族を打ち負かして、ようやく自国の再興を遂げたのである。この時、ケレイト部族を陰で支えていたのは勇敢さをもって知られていたモンゴル部族であり、ベテキン・ナイマンの首長はサリク・カンを助けた報酬として、その麾下にあったモンゴル兵を貸してくれるよう要求したが、サリク・カンはその野望に気付いていたため、要求には応じなかった。しかし、モンゴル部族もそんなケレイト族の衰えを察し、次第にケレイトを離れていった。

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クルジャクス・ブイルク・カン編集

マルクズには2人の息子がおり、それぞれクルジャクス(クルジャクズ、クルチャクス)・ブイルク・カン(Qūrjāqū Būīrūq Khān)、グル・カン(Kūr Khān)といった。後を継いだのは長男のクルジャクスで、彼もまた幾多の苦難をなめながら、遂にかつてのウイグル帝国の首都であるカラ・バルガスンを本拠地とし、ケレイト部の復興を遂げる。しかし、彼の権勢も一代で終わり、その死後は残った40人の子らがカン位をめぐって激しい争いを起こした。それを懸念していたクルジャクスは生前多くの子らにそれぞれの分地を与えていた。

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オン・カン編集

クルジャクス・ブイルク・カンには多くの子がおり、その一人トオリル(トグリル)は父が死んだとき、辺境に領地を与えられていた。クルジャクスの死後はその息子であるタイ・テムル・タイシ(Tāitīmūr Tāīshī)とブカ・テムル(Būqā Tīmūr)がその地位を統べていたが、トオリルは戻って来るなりその兄弟を殺して父の地位を奪いとった。この時、弟のエルケ・カラ(Irke Qarā)はナイマン部に難を逃れ、ナイマン部族の助力によって国を取り返し、トオリルを追い出すことに成功した。するとトオリルはモンゴル部族のイェスゲイ・バアトルのもとに難を逃れ、その助けによってエルケ・カラを追い出し、再び国を取り戻すことができた。しかし今度は叔父のグル・カンがやってきてトオリルを追い出し、その地位を奪った。それを聞いたモンゴル部のイェスゲイ・バアトルは再びトオリルを助け、グル・カンを追い出し、グル・カンはタングト地方に向かって逃亡すると、再び姿を見せることはなかった。ここでトオリルとイェスゲイ・バアトルは義兄弟の契りを結び、盟友(アンダ)の間柄となった。多年にわたってケレイトの君主として君臨したトオリル・カンであったが、またもナイマンの支援を受けたエルケ・カラによって国を奪われ、西方のカラ・キタイに避難して援助を乞うたが受け入れてもらえず、数年の間、数頭の羊を引き連れて放浪生活を送ることとなった。

1196年春、イェスゲイ・バアトルの息子テムジンが成長し、諸部族の長になったことを聞くと、トオリル・カンは彼に会うためグセウル湖へ向かい、取り次いでもらってテムジンと会見することができた。テムジンは父の旧友とあって快く出迎え、属下から徴収した家畜税を彼に渡した。その秋テムジンはトーラ川で宴会を開き、トオリルと父子の契りを結んだ。その後、ケレイトのジュルキン氏族へ進軍し、2人の首領サチャ・ベキとタイチュウを捕虜とした。また、タタル部の族長メグジン・セウルトゥらが金朝の議に従わないということで、皇帝の命を受けた王京丞相が軍勢を率いてタタル討伐を始めた。これを聞いたテムジンは父の仇を討つ絶好の機会と考え、同盟者であるトオリル・カンとともにタタルのメグジン・セウルトゥの所へ攻め入った。メグジン・セウルトゥは砦を築いて籠城していたが、テムジンらに捕えられ、その場で殺害された(ウルジャ河の戦い)。これを聞いた王京丞相は大いに喜び、テムジンに「ジャウト・クリ」という称号を、トオリル・カンには「オン(王)」という称号を与え、以来トオリル・カンはオン・カン(Ong Khān)と呼ばれるようになった。

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テムジンとの亀裂編集

1197年、オン・カン、テムジン同盟軍はメルキト部族へ遠征し、勝利を得た。この時テムジンは戦利品をすべてオン・カンに渡した。テムジンの援助によって窮地から脱したオン・カンは翌年(1198年)、テムジンに相談することなく再びメルキト部へ遠征するほどの兵力を集めることができた。オン・カンはメルキト部をブウラ・ケエルの地で破り、メルキトの部族長トクトア・ベキの子トグズ・ベキを殺し、その子チラウン、弟のクドを捕え、その家族と家畜を奪ったが、テムジンにはこれらの戦利品を何一つ分け与えなかった。

1199年、オン・カンとテムジンはナイマン部族に向かって進軍した。同盟軍はナイマン部の内紛に乗じてナイマン王ブイルク・カンを攻め、多くの捕虜と家畜を手に入れた。時に共に行動していたモンゴル・ジャディラト氏族のジャムカはテムジンを妬み、オン・カンを誘い込んでテムジンを裏切った。テムジンはサアリ・ケエルへ撤退したが、これを見ていたナイマンの将サブラクはオン・カンを追撃し、その弟ビルカとジャカ・ガンボ(ケレイテイ)の家族と家畜と輜重を奪い、ケレイトの領土に侵入して略奪を行った。オン・カンは息子のイルカ・セングンを敵軍にあたらせ、一方でテムジンに使者をやって援助を乞うた。テムジンは裏切られたにもかかわらず、援軍を向かわせてナイマン軍を潰走させ、奪われていたものをすべてオン・カンに返してやった。

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オン・カンの最期編集

1200年、オン・カンとテムジンはモンゴル部のタイチウト氏族を攻撃するためサアリ平原で会見した。同盟軍はタイチウト氏族へ攻撃を仕掛け、その首領クドダルとタルグタイ・キリルトクを破り、ウレンウト・トラスという地で捕えて殺した。その冬、オン・カンの弟ジャカ・ガンボと4人のケレイト部将がオン・カンを殺害しようと企てていたが、オン・カンに知られたため、ジャカ・ガンボたちはナイマン部へ逃亡した。

1202年、テムジンとオン・カンはタタル部を討ち、続いてメルキト、ナイマン、タタル、ドルベンカタキンサルジウトオイラト連合軍を討った頃、流浪の末ジャムカがオン・カンを頼ってきた。テムジンは敵対するジャムカを匿ったオン・カンを非難し、ジャムカはイルカ・セングンを言いくるめてテムジンを殺そうとした。

1203年、遂にテムジンとケレイトとの間で戦闘が起き、両者は完全に不和となった。秋、テムジンはオン・カン父子をチェチェエル・ウンデュル山のふもとで奇襲し、激戦の末オン・カンは敗走し、ナイマン部の領土を通過した際、オン・ウスンという地でナイマンの国境警備の将校によって殺された。国境警備の将校らはその首をナイマン王に送ったが、ナイマン王はオン・カンを殺したことに怒り、そのどくろを銀の器の中に入れて保存した。息子のイルカ・セングンはブリ・トベット地方へ亡命できたが、しばらくして彼の略奪行為がこの地方の住民の憎悪をかきたてたので、カシュガルホータンの諸州に隣接するクーシャーン地方へ逃れたが、クサト・チャル・カシュメという地で捕えられてそこの領主カラジ族のスルターン・キリジ・カラによって処刑された。

こうしてケレイト部族はテムジンのモンゴル部族によって征服された。

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モンゴル帝国以降のケレイト編集

1206年にテムジンがチンギス・カンとして即位しモンゴル帝国が成立した後も、ケレイト部はチンギス一門の姻族とされ、モンゴル遊牧部族連合の有力部族のひとつとして存続した。

チンギスの4男トルイの夫人でカアン(大ハーン)のモンケクビライの母となったソルコクタニ・ベキはジャカ・ガンボの娘で、オン・カンの姪にあたる。イルハン朝の開祖フレグ・ハンの正妻もケレイト出身のドクズ・ハトゥンで、イルハン朝下の西アジアで時期によってはキリスト教徒が優遇されるなどモンゴル王家のキリスト教徒に対する好意的な姿勢は、ケレイトの王族・貴族を通じてモンゴル帝国の王族・貴族に数多くのキリスト教徒が含まれていたことと無関係ではないと言われている。

また、ケレイト部族出身者で、モンゴル帝国のもとで軍人、官吏として活躍した者も少なからず歴史にあらわれる。例えば、オゴデイのときに書記官(ビチクチ)の長官として活躍したチンカイは出自について諸説あるが、ケレイト出身とする説が存在する。

モンゴル高原においてはケレイト部族の名はモンゴル帝国の解体とともにやがてその名は歴史から姿を消した。ただし、15世紀以降のオイラト部族連合に属し、現在も存続しているトルグート部はケレイトの後裔とされている。

一方、モンゴル帝国の拡張とともに中央ユーラシア全域に拡散したケレイト部族の名は西方ではモンゴル高原よりも長く残り、現在もカザフなど中央アジアテュルク系民族の間にケレイト部族の名を見出すことができる。

居住地編集

『集史』「ケレイト部族史」には「彼らの住地はオノン、ケルレンであり、モグリスタンの地にある」とある。

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言語系統編集

ラシードゥッディーンは『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』において、中央ユーラシア草原の遊牧民を大きく四つに分類し、第三類「以前は独立した首長を持っていたが、第二のテュルク部族とも第四のモンゴル部族ともつながりはなく、しかし外観や言語は彼らと近いテュルク部族」にケレイトを含めている。つまり、テュルク系ではあるが、モンゴル系に近い言語、もしくはテュルク系とモンゴル系の中間に位置する言語であったと推測される。そのため、ケレイトはテュルク系ともモンゴル系ともされている。

[24]

宗教編集

ケレイトは11世紀の初めにネストリウス派の僧侶によって改宗させられて[25]以降、ネストリウス派キリスト教を信仰していた。当時ネストリウス派は中国を始めとして東方諸国に広く浸透していたため、北方遊牧民であるケレイトにも信仰が広まった。そのため、ケレイトの君主であるマルクズ(Markuz)やクルジャクス(Qurjaquz)の名もキリスト教に関した名前(Marcus,Cyriacus)である。

[26][27]

構成氏族編集

『集史』「ケレイト部族志」によると、ケレイトは盟主である「絶対の」ケレイト氏を中心に6つの氏族によって構成されていた。

「絶対の」ケレイト編集

ケレイト部族の中核氏族であり、マルクズ、クルジャクス、トオリルら歴代のケレイト部族長を輩出してきた氏族。『集史』「ケレイト部族志」によると、「往昔一人の部族長がおり、七人の息子がいて、総べて肌が黒く、そのため彼等のことをケレイトと呼んだ」という[28]

ジルキン編集

ジュルキンとも。『モンゴル秘史』ではモンゴル軍の先鋒が勇猛なマングト部・ウルウト部であることを知ったオン・カンが「そうとあらば……そのジルキン氏の勇士どもに衝かせよう」と語っており、ケレイト部の中でも勇猛な氏族として知られていた[29]。別の箇所では「血塗れの武具を奪い取るというジルキンの勇士ども」という表現も見られる[30]

「数多の(オロン)」ドンガイト編集

トンカイト、コンカイトとも。『モンゴル秘史』では常に「オロン・ドンガイト(Olon Dongqayid,数多のドンガイト)」という名称で記されており、これ全体で一つの固有名詞であった。『集史』「ケレイト部族志」によるとアリーナク・バートルの一族がドンガイト氏族の出身であったとされ、またオゴデイの治世に大ビチクチとなったチンカイもドンガイト氏族出身であるという説がある。

「万の(トゥメン)」トベエン編集

トマウト、トベイトとも。『モンゴル秘史』では常に「トゥメン・トベエン(Tümen Tübeyen,万のトベエン)」という名称で記されており、これ全体で一つの固有名詞であった。ケレイト部の氏族の中ではモンゴル帝国に仕えて立身出世した者の数が比較的多い。

サキアト編集

サキアト出身の人物については全く記録がなく、また『集史』以外の史料には全く言及がないため、詳細は不明。

アルバト編集

サキアト同様情報が少ないが、『集史』「ケレイト部族志」にはアルバカル・バウルチという百人隊長がいたことのみが記されている。

その他のケレイト部出身者編集

『元史』の列伝には上記以外の「ケレイト部(怯烈)」出身者が記されているが、彼等がケレイト部内のいかなる氏族出身であったかは不明である。

  • シラ・オグル一族…シラ・オグル、ブルガイエセン・ブカらは代々ビチクチ(書記官)を務めた(『元史』巻134列伝21)。
  • フスン一族…フスンはチンギス・カンに仕えて「バルジュナ湖の功臣」の一人に数えられ、千人隊長となった(『元史』巻122列伝9)。
  • スゲ一族…『元史』では「李唐の外族」とされ、後唐の始祖李克用の末裔ではないかと考えられている(『元史』巻124列伝11)。
  • ジョチ・トルカク一族…主にヒタイ(旧金朝領華北)で活躍した(『元史』巻122列伝9)。
  • シリバイ一族…主にヒタイ(旧金朝領華北)で活躍した(『元史』巻133列伝20)。
  • シルギス一族…主にヒタイ(旧金朝領華北)で活躍した。

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歴代君主編集

ケレイトの君主は代々カン(汗 Qan)を君主号とした。

  1. マルクズ・ブイルク・カン
  2. クルジャクス・ブイルク・カン…マルクズの長子
  3. オン・カン(王罕、トオリル)…クルジャクスの子

脚注編集

  1. ^ ラシードゥッディーン集史
  2. ^ ラシードゥッディーン集史
  3. ^ 村上 1972,p30
  4. ^ 佐口 1968,p41
  5. ^ 村上 1972,p30-31
  6. ^ 宮脇 2002,p41,55
  7. ^ 島田 1993,p26
  8. ^ Harīkjīとは、「電光」「波動」という意味があり、彼女の顔には光り輝き、波打つ美しさがあったため、このような名前が付いたという≪志茂 2013,p870≫
  9. ^ undūrとは革で縫い合わせた非常に大きな容器のこと。
  10. ^ 志茂 2013,p869-870
  11. ^ 村上 1972,p30-31
  12. ^ 佐口 1968,p44
  13. ^ テュルク語で「黄金の王者」の意。
  14. ^ 村上 1972,p32-33
  15. ^ 志茂 2013,p870-871
  16. ^ 村上 1972,p31
  17. ^ 佐口 1968,p44
  18. ^ 志茂 2013,p870-873
  19. ^ 村上 1970,p157,282-285
  20. ^ 佐口 1968,p44-47
  21. ^ 佐口 1968,p47-51
  22. ^ 佐口 1968,p52-72
  23. ^ 志茂 2013,p867
  24. ^ 宮脇 2002,p138
  25. ^ これについてアブル・ファラジュの『東方教会史』に「ネストリウス派の総大主教ジャン(ヨハネ)は、ホラーサーンのマルヴ(メルヴ)の首都大主教エベド・イシューから、次のような文面の書簡を受けた。《東北方、トルキー(モンゴリアを指す)の内地に住むシェリト(ケレイト)という民族の王がある日、雪に覆われていた自国のある山へ猟に出て道に迷った。彼は助かる望みを全く失ったが、その時、一人の聖者が彼の前に現れ、こう言った。もし汝がイエス・クリストを信ずることを願うならば、私は汝をこの危険から救い出し、汝に路に示してやろうと。王はキリストの群羊の一つとなることを彼に約した。その時、聖者は道案内をつとめ、王をよい路へ連れて行った。自分の幕営へ帰った後、この王は自分の国に滞在していたキリスト教徒商人にその宗教の教義のことを質問した。王は洗礼を受けなければキリスト教徒になれないということを彼らから知った。しかし、彼は一冊の福音書を貰って、毎日それに礼拝した。王は私を招いて洗礼を施してくれるか、あるいは洗礼をしてくれる聖職者を派遣するよう希望している。彼は私に斎戒のことについて、我々の食物は肉と乳しかないので、我々はどうして斎戒を守るのであろうかと質問した。彼は、20万の人々が自分の手本に従う用意があると付け加えて言った。総大主教は首都大主教に対し、改宗を希望する全ての人を洗礼するための聖瓶を携えた2人の聖職者と助祭をその王の所へ派遣し、彼らにキリスト教の儀礼を教えるよう、手紙で返答した。また、この聖職者たちは、彼らに肉断ちの期間は肉を禁止すべきであるが、その国では大斎節のための食物がまったくないと言っているから、乳を飲むことを許してよいと答えた。》」とある。アブル・ファラジュはこの事実を回暦398年(1007年)のことと伝えている。シリアの著作家マリも総大主教ヨセフ伝の中で同じ事実を伝えている。J.S.Assemani,《Bibliotheca Orientalis》(ローマ、1719年)第3巻484頁≪佐口 1968,p43≫
  26. ^ 佐口 1968,p42-47
  27. ^ 村上 1972,p33-35
  28. ^ 志茂 2013,p868
  29. ^ 村上 1972,p125
  30. ^ 村上 1972,p221
  31. ^ 佐口 1968,p41

参考文献編集

関連項目編集