ドルベイ・ドクシンモンゴル語: Dörbei doqsin,中国語: 朶児伯朶黒申,? - ?)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えた将軍の一人。ドルベン部族の出身。『元朝秘史』では朶児伯朶黒申(duŏérbǎi duŏhēishēn)、『集史』ではدوربان نویان(Dūrbān nūyān)と記される。

概要 編集

ドルベイ・ドクシンがチンギス・カンに仕えるようになった経緯・事蹟については全く不明であるが、遅くともモンゴル帝国が建国された1206年までにはその配下にあった。『元朝秘史』には「ドリ・ブカ(Dori buqa>duŏlǐ bùhuā/朶里不花)」という人物が千人隊長に任ぜられたと記されており、この人物をドルベイ・ドクシンと同一人物とする説もあるが、音が違いすぎるとしてこれを否定する説もある[1]

ドルベイ・ドクシンが初めて活躍するのは1217年(丁丑)のトゥメト族の叛乱討伐の時で、この時ドルベイ・ドクシンは「四駿」の一人ボロクルとともにトゥメト族の住まうモンゴル高原北西部に派遣された。しかし、密林の小道を進軍する際にトゥメト族の奇襲を受けてしまい、ボロクルはここで戦死してしまった[2]。これに激怒したチンギス・カンは自ら親征しようとするもムカリらに諫められ、ドルベイ・ドクシンに「軍士を堅く装わせ、永劫の天つ神を拝め奉ってトゥメトの民を降さんことに努めよ」と命じたという[3]。チンギス・カンの命を受けたドルベイ・ドクシンはトゥメトの平定に成功するも、その近隣のキルギス族の叛乱が続き、結局これら北西の諸部族(モンゴル語では『ホイン・イルゲン』乃ち『森林の民』と総称された)は翌1218年ジョチによって平定された[4]

その後、チンギス・カンのホラズム遠征が始まるとこれに従軍し、ホラズムの王子ジャラールッディーン・メングベルディーインダス河を渡ってインド方面に逃れると、これの追撃のために派遣された[5]。インドから帰還して以後はホラーサーン地方で活躍し、メルブの叛乱鎮定などを行ったことが知られるが、その後の事蹟は知られていない[6]

脚注 編集

  1. ^ 村上1972,382頁
  2. ^ 『聖武親征録』「是歳(丁丑)、吐麻部主帯都剌莎児合既附而叛。上命博羅渾那顔・都魯伯二将討平之、博羅渾那顔卒於彼」
  3. ^ 村上1976,89-90頁
  4. ^ 『元朝秘史』ではこの北西諸部族の叛乱に関する時系列が混乱しているが、『聖武親征録』や『集史』の記述に従って1217年=丁丑にトゥメトの叛乱とボロクルの死、1218年=戊寅にジョチの出兵とするのが正しいと考えられる(杉山2010,43-44頁)
  5. ^ この時チンギス・カンがインドに派遣した将軍について、『元朝秘史』はバラ・チェルビのみを記す一方、『世界征服者史』はドルベイ・ドクシンのみを記し、ラシードの『集史』のみが両方の名前を挙げている。ボイル教授は実際に派遣されたのはドルベイ・ドクシンのみではないかと推測するが、定説となるには至っていない(村上1976,215頁)
  6. ^ 村上1976,239頁

参考文献 編集

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明「モンゴルの破壊という神話」『ユーラシア中央域の歴史構図-13~15世紀の東西』総合地球環境学研究所イリプロジェクト、2010年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 3巻』平凡社、1976年