ナクシュバンディー教団
ナクシュバンディー教団(ペルシア語: نقشبندی、アラビア語: نقشبندية, ラテン文字転写:Naqshbandīyah、ウズベク語: Naqshbandiya、トルコ語: Nakşibendilik、英: Naqshbandi, Naqshbandiyah)とは、イスラム神秘主義のスーフィー(スーフィズム)教団の一派である。
本拠編集
歴史編集
創設編集
創設者は14世紀ブハラで活動したバハー・ウッディーン・ナクシュバンド(Bahā’ al‐Dīn Naqshband,1317‐1389)。彼の名にちなんでナクシュバンディー教団と呼ばれている[2]。 バハー・ウッディーン・ナクシュバンドは、もともとホージャ・アブド・アルハーリク・グジドゥワーニー(Abd al‐Khāliq Ghujduwānī,?‐1179または1180。1220没とも)が創設したホージャガーン教団に属していた[2]。
ホージャ編集
指導者アフマド・カーサーニー(マフドゥーミ・アァザム[3] 1464-1542)の子孫の称号はホージャとよばれた[要出典]。ホージャ(またはホージャ家)は、ティムール朝の崩壊以降[4]、東トルキスタンのウイグル人の指導者としての役割を担い、17世紀から19世紀にかけての東トルキスタン(現・中華人民共和国新疆ウイグル自治区)地域の政治に大きな役割を果たした。「カシュガル・ホージャ家」とも呼ばれる[3]。
イスハーキーヤ(黒山党)とアーファーキーヤ(白山党)編集
アフマド・カサーニーの次男のムハンマド・イスハーク・ワリー(?-1599)はサマルカンドからカシュガル、ホータン、アクス、クチャに滞在し、1599年にサマルカンドに帰還した[5]。ムハンマド・イスハーク・ワリーの系統は、カシュガル・ホージャ家のイスハーキーヤまたはカラタグルク、黒山党[5]とよばれた。
他方、アフマド・カサーニーの長男のイーシャーニ・カラーン[6](ムハンマド・アミーン)の系統がある。ムハンマド・アミーンの子はホージャ・ユースフ(?-1652/53)といい、東トルキスタンに移住した。ホージャ・ユースフの子がホージャ・アファークとして知られるダーヤット・アッラーであった[7]。この系統は、アーファーキーヤまたはイーシャーニーヤまたはアクタグルク(白山党)と呼ばれた[7]。
ホージャ・アファークの没後、息子のホージャ・ヤフヤーが継いだが殺害された[3]。チャガタイ家のアクバシュ・ハーンはその他のホージャ・アファークの子供たちをインドへ送還したという[3]。
アーファーキーヤ(白山党)はイスハーキーヤ(黒山党)との抗争に敗北し、東トルキスタンを追放され、1671年から1672年にかけて西寧(現・中華人民共和国青海省西寧市)に移り[7]、そこで布教に成功し、おおくの中国ムスリム信徒(回民)を獲得した[7]。
分派編集
脚注編集
参考文献編集
- 川本正知「バハー・ウッディーン・ナクシュバンドの生涯とチャガタイ・ハン国の終焉」『東洋史研究』70(4), pp.768-738. 2012.
- 小松久男編 『中央ユーラシア史』. 山川出版枇,2000年. ISBN 978-4634413405
- 新免康・菅原純「カーシュガル・ホージャ家アーファーク等の活動の一端-ヤーリング・コレクションProv.219について-」『東洋史研究』61-3,2002年12月,京都大学東洋史研究会、33-63頁。
- 河原弥生「「『ホージャ・ハサン・サーヒブキラーン伝』フェルガナ盆地における民間所蔵史料の研究」東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、『アジア・アフリカ言語文化研究』no.71 p.205 -257,2006年。
- 清水学「中央アジアのイスラームとイスラーム運動」一橋大学大学院経済学研究科Discussion Paper 2004 No.7, 2005年3月