19世紀

西暦1801年から西暦1900年までの100年間

19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀

千年紀: 2千年紀
世紀: 18世紀 - 19世紀 - 20世紀
十年紀: 1800年代 1810年代 1820年代 1830年代 1840年代
1850年代 1860年代 1870年代 1880年代 1890年代
19世紀に君臨した大英帝国

目次

19世紀の歴史編集

国民国家の成立編集

 
フランス七月革命。ヨーロッパでは革命により近代的な国家が生まれた。

西欧ではフランス革命の影響により自由主義ナショナリズムが広がった。19世紀初頭のナポレオンの興亡や反動的なウィーン体制、「諸国民の春」や数々の市民革命の勃発の後、ナショナリズムの高揚によりドイツイタリアなどの新たな統一された強力な国家が登場した。 またナポレオン戦争による混乱に乗じて1810年代から1820年代にはスペイン・ポルトガルの支配からラテンアメリカ諸国が各地で独立した。しかし大土地所有者の優遇やモノカルチャー栽培などで独立してからも近代化は進まず、欧米列強への従属がこの後も長く続いた。

帝国主義の興隆編集

 
インド大反乱。アジア・アフリカ諸国には苦渋の時代であった。

19世紀のイギリス工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった(パクス・ブリタニカ)。この過程で、大陸国家であるロシア海洋国家のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における世界大戦の遠因が形成された。

アジアアフリカにとっては苦渋の時代であり、トルコタイ王国などの国では西欧文化を取り入れ近代化が試みられた。清国の半植民地化が実質的に始まったのは、アロー戦争敗北後に天津条約北京条約を締結してからである。オスマン帝国もヨーロッパ諸国による介入でギリシャ独立戦争において敗北し、ムハンマド・アリーエジプトでの台頭を止めることが出来なかった。インドではイギリスが19世紀にマラーター戦争シク戦争を行い、インドを植民地化した。1857年にはインド大反乱が勃発したが、翌年にイギリスはこれを鎮圧し、ムガル帝国は終焉を迎えた。

日本でも1853年アメリカペリー浦賀に来航、江戸幕府開国を認めさせ、日本も欧米を中心とした世界経済に組み込まれた。1868年には長らく続いた幕藩体制は崩壊し(明治維新)、新たに発足した明治政府は欧米文化を摂取して急速な近代化を目指した。19世紀末には、近代化に成功した日本やタイ王国などの一部の国以外は、西欧列強の植民地にされるか、強い影響下におかれた。

列強の植民地争奪戦編集

19世紀中頃に、ドイツ、フランス、アメリカ合衆国はイギリスに続いて産業革命をなしとげた。こうした後進産業国では政府の強力なリードのもとで産業育成がなされた。19世紀の末期には資源の豊富なアメリカ合衆国や重化学工業分野が成長したドイツの発展が著しく、事実上イギリスの覇権は崩れた(第二次産業革命参照)。これにより1870年代の露土戦争前後から19世紀末には列強の植民地争奪競争がおこなわれた。日本も日清戦争日露戦争などを通じ、こうした植民地争奪戦に乗り出していく。

できごと編集

  • 日本では江戸時代の後期及び末期(幕末)から明治時代にあたる。
  • 中国ではの時代の後期から末期にあたる。
  • イギリスではジェームズ・ワットの圧縮蒸気機関が開発され、その10年後にはワットの複動式蒸気機関が完成し、炭鉱において地下300メートルの深さまで掘ることが可能になった。毎年さまざまなタイプの石炭を何百万トンも産出するようになり、世の中が一変した[1]

1800年代編集

 
江戸時代の旅行ブーム。1802年には十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の刊行が始まり、文化文政時代のおおらかな気風も相まって各地への旅行が庶民でも楽しまれるようになった。画像は歌川広重の「東海道五十三次」の「日本橋」。
 
阮朝越南の成立。黎朝衰退後に台頭した西山三兄弟を倒し、阮福暎は嘉隆帝と名乗ってベトナム全土を統一した。画像は首都の順化(ユエ)に今も残る順化皇城の延寿宮中国語版
 
ゴヤの「マドリード、1808年5月3日(プリンシペ・ピオの丘での虐殺)」。

1810年代編集

 
シタデルの虐殺。エジプト総督ムハンマド・アリーはアラビア半島遠征への壮行会に乗じてこの国の支配者層であるマムルークを虐殺し、権力基盤を固めた。
 
ナポレオンのロシア遠征。画像はアドルフ・ノーザンの「ナポレオンのモスクワからの退却」。
 
革命への反動。画像はウィーン会議の様子を描いたJ.B.Isabenの絵画。
 
ナポレオン戦争の終結。画像はワーテルローの戦い
 
メデューズ号の筏」。モーリタニア沖での難破で船員147名のうち15名しか生存しなかった。画像はこの事件を描いたフランス人画家テオドール・ジェリコーのもの(ルーブル美術館蔵)。
 
パンジャーブシク王国。イギリスのインド進出に最後まで抵抗したのがシク王国である。画像は国王ランジート・シングの宮廷(ダルバール)を描いた細密画。

1820年代編集

 
ギリシア独立戦争。画像はウジェーヌ・ドラクロワの「キオス島の虐殺」。
 
グアヤキルの会談。スペイン支配からラテンアメリカを別個に独立させてきた二人の指導者ホセ・デ・サン・マルティンとシモン・ボリーバルがこの地で会見した。
 
清におけるアヘンの輸入超過。1820年代後半にはアヘン密輸により清の財政悪化が懸念され始めた。画像はアヘン吸引をする清の庶民。

1830年代編集

 
ポーランドの十一月蜂起。ポーランド人はロシアの支配からの独立を求めたが鎮圧される。この知らせを受けたショパン革命のエチュードを作曲した。
 
画狂人北斎。数ある浮世絵師の中でも市井の中で90歳近くまで絵筆をとり続けていた北斎は構図や構想では群を抜いており海外での評価も高い。画像は1831年頃に出版された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」。
 
ウジェーヌ・ドラクロワ「アルジェの女たち」。1834年に描かれたこの作品はロマン主義の異国趣味を示すとともに、東方世界を退廃的で官能的なものと見なす「オリエンタリズム」を示す作品でもある(ルーヴル美術館蔵)。
 
帆船から蒸気船へ。交通革命により蒸気機関が搭載された船が海の主役になった。画像はウィリアム・ターナーの「戦艦テメレールロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)」でトラファルガー海戦で戦った名だたる戦艦が蒸気船に引かれて解体されに向かうところである。
 
チャーティスト運動。1838年には「人民憲章」がまとめられ更なる選挙権の拡大が唱えられた。

1840年代編集

 
アヘン戦争。イギリスの砲撃により大破する清の軍艦。
 
ビーダーマイヤー時代。ウィーン体制の相対的安定は政治や国際情勢ではなく小市民としての平穏な生活を優先する人々の嗜好に合致していた。画像はビーダーマイヤー時代を代表するドイツ人画家カール・シュピッツヴェークの「日曜日の散歩」。
 
アイルランド併合による弊害。イギリスの搾取による大飢饉の発生(1841-1851)。
 
諸国民の春。1848年のベルリンにおける三月革命。同時期にウィーンでも革命が起こり宰相メッテルニヒはイギリスに亡命しウィーン体制は崩壊した。

1850年代編集

 
第一回万国博覧会。ロンドンで行われガラスと鋼鉄でできた水晶宮が話題となった。
 
白衣の天使。イスタンブール近郊のスクタリにてクリミア戦争での負傷兵を見舞うフローレンス・ナイチンゲール
 
オスマン帝国の改革。クリミア戦争を乗り切ったオスマン帝国はアブデュルメジト1世のもと大胆な近代化に取り組んだ。かつてのトプカプ宮殿から西欧化されたドルマバフチェ宮殿への移動もその流れの一つである。画像はこの宮殿の「儀式の間」。
 
パリ大改造。ナポレオン3世により生まれ変わったパリは近代都市計画の模範となった。画像はカイユボットの「パリの通り、雨の日」。
 
黒船来航ペリー司令長官率いるアメリカ東インド艦隊の出現は200年以上続いた日本の「泰平の世」を揺るがした。画像は1854年に再び日本を訪れて日本に上陸したペリー一行を描いたもの。

1860年代編集

 
エジプトのサムライたち。徳川幕府がフランスに派遣した横浜鎖港談判使節団の一行がスフィンクス像前で撮った写真。
 
太平天国の乱の顛末。拝上帝会洪秀全を天王とする宗教運動はやがて清朝を揺るがす大反乱へと発展した。画像は1864年の天京攻防戦で、この戦いで太平天国は清朝に殲滅されたのである。
 
同治中興。アロー戦争後に即位した同治帝の時代から清朝では洋務運動と呼ばれる近代化が進められた。画像は漢人官僚の李鴻章が1865年に南京に作らせた金陵機器製造局の写真。
 
メキシコ出兵。これにより大西洋を越えたナポレオン3世の遠大な野望は潰え、彼自身の求心力の低下にもつながった。画像はエドゥアール・マネの描いた「メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑」。
 
大政奉還。江戸幕府15代将軍徳川慶喜は倒幕運動の高まりの中で朝廷に政権を返上する決断を下した。画像は邨田丹陵 の歴史画「大政奉還図(聖徳記念絵画館蔵)」で京都二条城に集まった慶喜と諸藩重臣たちが描かれている。
 
スエズ運河開通。この運河によりヨーロッパからアジアへの航路は大幅に短縮された。
 
大陸横断鉄道。大西洋側と太平洋側から伸びた鉄路がプロモントリーサミットで結ばれた。写真はこの地での1869年5月10日の開通記念式典の模様。

1870年代編集

 
ドイツ帝国の成立。ドイツ皇帝の戴冠式は普仏戦争に敗れたフランスのヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われた。画像はアントン・フォン・ヴェルナーによるもの。
 
第二次産業革命。科学技術の発展とその組織化により動力に石油・電気が用いられるようになり、工業は大規模なものとなった。特に統一後のドイツの革新が世界を席巻した。画像はドイツ人画家アドルフ・フォン・メンツェルの「鉄圧延機工場」。
 
ベルリン会議露土戦争後のこの会議によって列強諸国による地域分割の原則が確定した。
 
アラジンに扮したディズレーリが、ヴィクトリア女王にイギリスの王冠とインドの皇帝冠を交換するよう迫る様子を描いた風刺画(1876年)。

1880年代編集

 
皇帝アレクサンドル2世の暗殺。農奴解放令を始めとする大改革に取り組んだアレクサンドル2世ではあったが、現状に不満を持つ急進派の標的とされあえなく絶命した。画像はサンクトペテルブルクでの爆発による皇帝暗殺の様子を描いたもの。
 
世界に広がる浮世絵。浮世絵はヨーロッパ諸国のジャポニズム(日本趣味)に影響を与えた。画像は1887年に描かれたフィンセント・ファン・ゴッホの「タンギー爺さん」。
 
ノイシュヴァンシュタイン城。プロイセンによるドイツ統一に屈服したバイエルン国王ルートヴィヒ2世による城。中世の君侯に憧れ次第に精神を病んでいった王の夢の城とされている。画像は1890年代の城の写真。
 
ニューヨークの自由の女神。アメリカ独立100周年を祝ってフランスからアメリカに贈られた女神像。19世紀末までにはアメリカは世界最大の工業国となり、新天地を求めた多くの移民がこの女神像を眺めつつ入国していった。
 
大日本帝国憲法の発布。「憲法発布略図」楊洲周延画。

1890年代編集

 
ゴーギャンとタヒチ。フランスのポスト印象主義の画家ゴーギャンは新天地を求めタヒチへ旅立った。タヒチは必ずしも楽園とばかりは言えずゴーギャンは無理解と貧困に苦しめられたがその画業は深められた。画像は「三人のタヒチ人」(スコットランド国立博物館蔵)。
 
日清戦争。日本の勝利と清の敗北により東アジアの冊封体制は崩壊することになる。画像は小林清親の「於黄海我軍大捷 第一図」。
 
中国分割に乗り出した列強諸国の諷刺画。
 
映画の誕生。フランス人のリュミエール兄弟によるこの発明はメディアの可能性を一挙に広げるものとなった。

1900年代編集

文化編集

文学編集

音楽編集

 
ワルツを踊る人々

思想編集

科学編集

  • 19世紀は制度としての科学が確立し、「科学の世紀」とも呼ばれる。科学が自然哲学から分離し、技術への応用が進展した。

技術編集

人物編集

ヨーロッパ編集

政治家・王族編集

 
ナポレオン・ボナパルト。画像はダヴィッド「アルプス越えのナポレオン」。
 
ウイーン体制の立役者であるオーストリア宰相メッテルニヒ
 
サルデーニャを中心としたイタリア統一を果たした宰相カヴール
 
イタリア独立戦争で両シチリア王国を屈服させたジュゼッペ・ガリバルディ
 
ナポレオン3世(左)とビスマルク(右)。
 
1900年のホーフブルク宮殿における宮廷舞踏会にて参加者に取り巻かれたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
 
閣僚に奴隷解放宣言の初稿を提示するアメリカ大統領エイブラハム・リンカーン
 
ハワイ王国最後の女王リリウオカラニ
 
暗黒大陸と呼ばれていたアフリカで宣教活動を行い現地の探検を行ったデイヴィッド・リヴィングストン
 
アフリカを南北にまたぐセシル・ローズ
 
エチオピア皇帝の正装をしたメネリク2世
 
エジプトの近代化を推進したムハンマド・アリー
 
ギュルハネ勅令を出して恩恵改革(タンジマート)を行いドルマバフチェ宮殿を建設させたオスマン帝国のアブデュルメジト1世
 
インド大反乱で担ぎ上げられたものの廃位されミャンマーに流された最後のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世
 
チャクリー改革を行いタイ王国の独立を維持したラーマ5世(チュラーロンコーン)。
 
マレー半島南端にシンガポールを開港したイギリス人のトーマス・ラッフルズ
 
フィリピンに独立のためにスペイン植民地政府に銃殺されたホセ・リサール
 
清朝末期の政局を左右した西太后(慈禧太后)。
フランス編集
オーストリア=ハンガリー編集
ロシア編集
イギリス編集
ドイツ(プロイセンほかドイツ領邦を含む)編集
北欧編集
イタリア編集
スペイン編集
ベルギー編集
ギリシア編集

軍人編集

実業家編集

科学と技術編集

思想と哲学・人文諸学編集

宗教編集

文学編集

美術編集

音楽編集

社会事業家編集

探検家・旅行家編集

料理編集

その他編集

アングロアメリカ編集

ラテンアメリカ編集

サハラ以南のアフリカ編集

西アジアと北アフリカ編集

南アジア編集

東南アジア編集

オセアニア編集

東アジア編集

編集

越南編集

日本編集

19世紀生まれの生き残り編集

アメリカの老人学研究団体ジェロントロジー・リサーチ・グループによれば、生年月日に確実な証拠のある人物で、19世紀生まれの生き残りは2017年4月16日現在、世界に2人のみ(ヴァイオレット・ブラウン田島ナビの2人、いずれも女性)となっている[2][注 2]

2013年6月12日、日本木村次郎右衛門(男性での史上最高齢者)が116歳で死去し、19世紀生まれの男性は全員がこの世を去ったことになった。2017年4月15日にはエンマ・モラーノが117歳で死去し、1800年代(1800年 - 1899年)生まれの人物は全員がこの世を去ったことになった。

脚注編集

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注釈
  1. ^ ただし、この時点ではA型、B型、C型の3つであるとされた。
  2. ^ いずれも1900年生まれ。
出典

関連項目編集

外部リンク編集

  •   ウィキメディア・コモンズには、19世紀に関するカテゴリがあります。