ナリン(Narin、1281年 - 1359年)は、大元ウルス末期に活躍したタングート人

元史』などの漢文史料では納麟(nàlín)と表記される。

概要 編集

ナリンは代々西夏国に仕えていた名家の末裔で、祖父はクビライに仕えた儒学者の高智耀であった。1302年(大徳6年)、名臣(高智耀)の子孫であることを理由に丞相ハルガスンの推薦を得てケシクテイ(宿衛)に入った。1306年(大徳10年)には中書舎人に任じられ、1311年(至大4年)には宗正府郎中とされた。1312年(皇慶元年)には河南廉訪司事とされ、また延祐年間初頭(1310年代)には監察御史に任命された。その後も1317年(延祐4年)に刑部員外郎、1319年(延祐6年)に河南行省郎中、1323年(至治3年)に都漕運使を歴任し、泰定帝イェスン・テムル・カアンの治世には湖南・湖北両道廉訪使に任命された[1]。なお、御史台系列の官職に多く就いているのは、そもそも祖父の高智耀の提案によって御史台が設置されたという経緯があったためと考えられている[2]

1328年(天暦元年)には杭州路総管に任命され、翌年には江西廉訪使とされた。この頃、南昌では飢饉が起こったが江西行省は官倉を開くことを渋っており、ナリンの説得によって倉が開かれ民は救われたという。1330年(至順元年)には湖広行省参知政事とされ、元統年間に刑部尚書、江南行台治書侍御史、江南行台中丞を歴任した。1335年(至元元年)に入ると中書参知政事、ついで同知枢密院事に任命された。江浙行省右丞に任命された際は辞職を乞うたが許されず、改めて浙西廉訪使に任命されたものの固辞した[3]

それから数年後、1342年(至正2年)に行宣政院使に任命された。1343年(至正3年)は河南行省平章政事、1344年(至正4年)は中書平章政事、1347年(至正7年)は江南行台御史大夫を歴任した。1348年(至正8年)には老齢を理由に官を辞することを申し出たが許されず、大尉の地位を授けられたが、それから間もなく御史の弾劾を受けて姑蘇に隠居した[4]

1352年(至正12年)より江淮地方で紅巾の乱が悪化すると、ナリンは南台御史大夫に任命され、江浙・江西・湖広三省の軍馬を統べてこれに対処することになった。ナリンは集慶の城郭を修築して防備を整え、江浙行省の杭州が陥落した際にはこれを奪還せんとする淮南行省平章政事シレムンを説得して宣州の守護を優先させ、典瑞院使トゴチの協力もあって宣州は陥落を免れた。しかし紅巾軍の勢力は強大で徽州・広徳・常州・宜興・溧水・溧陽が既に陥落し、ナリンの駐屯する集慶も危機に陥った。そこでナリンは治書侍御史左ダナシリに城中を、中丞の伯家奴に東郊をそれぞれ守らせ、湖広行省平章政事のエセン・テムルに救援を求めたが、エセン・テムルは既に江北に向かうよう命を受けており救援には迎えないと回答した。これを受けてナリンは監察御史の鄭鄈を再び派遣してエセン・テムルを再び説得し、遂に救援要請に応じたエセン・テムルの軍団によって紅巾軍は敗走し集慶は救われた。更に、江浙行省平章政事の三旦八・右丞佛家閭らも兵を率いて合流したため、この一帯の紅巾軍は皆敗北して撤退した[5]

1353年(至正13年)には慶元に隠居したが、1356年(至正16年)9月に江南行台の所在地を紹興に移したのに合わせ、ナリンは江南行台の御史大夫に任命された。その翌年にナリンは紹興に移り、1358年(至正18年)には海路より朝廷を訪れようとしたが、黒水洋に至った所で強風に阻まれ失敗した。1359年(至正19年)、再び海路より直沽まで至り、糧道を絶とうとしていた山東の俞宝を息子とともに破った。同年8月、納は遂に京師まで至り、皇帝はこれを厚く労り、皇太子アユルシリダラも酒脯を与えたという。しかしこれ以後ナリンの病状は悪化し、帰路の途上、通州で79歳にして亡くなった[6]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻142列伝29納麟伝,「納麟、智曜之孫、睿之子也。大徳六年、納麟以名臣子、用丞相哈剌哈孫答剌罕薦、入備宿衛。十年、除中書舍人。至大四年、遷宗正府郎中。皇慶元年、擢僉河南廉訪司事。延祐初、拝監察御史。以言事忤旨、仁宗怒叵測、中丞朵児只力救之乃解。又言風憲恃糾劾之権而受人賂者、宜刑而加流。四年、遷刑部員外郎。六年、出為河南行省郎中。至治三年、入為都漕運使。泰定中、擢湖南・湖北両道廉訪使」
  2. ^ 杉山2004,501頁
  3. ^ 『元史』巻142列伝29納麟伝,「天曆元年、除杭州路総管。鋤奸去蠹、吏畏民悦。明年、改江西廉訪使。南昌歲饑、江西行省難於発粟。納麟曰『朝廷如不允、我当以家貲償之』。乃出粟以賑民、全活甚衆。平章政事把失忽都貪縦不法、納麟劾罷之。至順元年、拝湖広行省参知政事。元統初、召為刑部尚書、未至、改江南行台治書侍御史。尋陞中丞。至元元年、召拝中書参知政事、遷同知枢密院事。尋出為江浙行省右丞、乞致仕、不允、除浙西廉訪使、力辞不赴」
  4. ^ 『元史』巻142列伝29納麟伝,「至正二年、除行宣政院使。上天竺耆旧僧彌戒・徑山耆旧僧惠洲、恣縦犯法、納麟皆坐以重罪。請行宣政院設崇教所、儗行省理問官、秩四品、以治僧獄訟、従之。尋為江浙行省平章政事。三年、遷河南行省平章政事。明年、入為中書平章政事。七年、出為江南行台御史大夫。尋召拝御史大夫、所薦用御史、必老成更事者。八年、進金紫光禄大夫、請老、不許、加太尉。御史劾罷之。退居姑蘇」
  5. ^ 『元史』巻142列伝29納麟伝,「十二年、江淮盜起、帝命為南台御史大夫。納麟承詔即起。仍命兼太尉、設僚属、総制江浙・江西・湖広三省軍馬。詔遣直省舍人海玉伝旨慰諭之。納麟北面再拝曰『臣雖耄老、敢不黽勉従事、尽餘生以報陛下』。至則修築集慶城郭。会江浙杭城失守、淮南行省平章政事失列門引兵往援、次于采石。納麟使止之曰『聞杭賊易破不足憂、今宣城危急、先宜以兵救宣城』。乃調典瑞院使脱火赤率蒙古軍応之、大破賊于堈下門、宣州以安。已而賊陷徽州・広徳・常州・宜興・溧水・溧陽、蔓延丹陽・金壇・句容、略上元・江寧、游兵至鍾山、集慶勢甚危。納麟乃力疾治兵、部署士卒、命治書侍御史左答納失理守城中、中丞伯家奴戍東郊。是時湖広行省平章政事也先帖木児軍和州、納麟遣使求援。也先帖木児曰『我奉命鎮江北、不敢往援江東』。納麟復遣監察御史鄭鄈力促其行、也先帖木児引步騎度采石至台城、入候納麟疾。納麟喜、即以其故聞于朝。已而也先帖木児兵東趨秣陵、殺賊二千餘人、平湖熟鎮、尽復上元・江寧境、乗勝入溧陽・溧水、賊潰奔広徳。其拠龍潭・方山者奔常州。時江浙行省平章政事三旦八・右丞佛家閭亦引兵来会。所在群賊皆敗北、州郡悉平」
  6. ^ 『元史』巻142列伝29納麟伝,「十三年、納麟固請謝事、従之、命太尉如故、乃退居慶元。十六年九月、詔以江南行台移置紹興、復以納麟為御史大夫、仍太尉。明年、移治紹興。十八年、赴召、由海道入朝、至黑水洋、阻風而還。十九年、復由海道趨直沽。山東俞宝率戦艦断糧道、納麟命其子安安及同舟人拒之、破其衆於海口。八月、抵京師。帝遣使労以上尊、皇太子亦饋酒脯。而納麟感疾日亟、卒于通州。年七十有九」

参考文献 編集

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 元史』巻142列伝29納麟伝