ノート:アザーン

最新のコメント:19 年前 | 投稿者:Ypacaraí
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アザーンの文句は、シーア派では少し違うはず。それも付け加えるべきでは?


記述を整理したついでに2箇所、百科事典の記事として不要と思われた点をカットしてしまいましたので、ここに転記します。

アザーン(トルコ語ではエザーン(ezan)と発音・表記される

トルコ語の表記・発音も結局のところアラビア語の単語のトルコ語訛りに過ぎないので、不要な記述だと思います。ではペルシア語でなんと言うのか、ウルドゥー語でなんと言うのか、と書き連ねるわけにもいきませんし、それをやってしまったら今度はほかのアラビア語起源の単語の項目に「~語では~という」などと書かなくてはということにもなりかねないですし。

たしかハディースに「アザーンはアラビア語でなければならないが、ムアッジンも信徒も異国人である場合外国語のアザーンも許される」っていうのがあったような・・・だれか確認おねがいします

コメントなので、記事にそのまま残しておくのもどうかと思いましたが、調べた限りでは見当たりませんでしたので、とりあえず本文から削ってノートに移してみました。多分そういうハディースは実際にあるのだろうとは思うので、幾分か前の部分に反映させたつもりです。
Safkan 21:54 2003年9月21日 (UTC)

わたしはトルコ語の表記、ほしいです。「訛りなのでいらない」という方針を進めていくと、アメリカ人の人名「アイザック Isaac」はヘブライ語の訛りなので、その表記・発音を取り上げる価値もない、百科事典には記述すべきでない、ヘブライ語の人名の所でまとめるべきだ、ということになります。もとの言葉からどのように変化したか、をみると、もとの言語との違いがみえてきます。違いはその言語が持つ特徴です。その特徴から、その言語の文化的背景まで見えてきます。翻訳家がよく言うように、言葉が指す内容・概念(言葉の実体)はどうしても、違う言語には100%正確に伝わりません。どこが抜け落ちたのか、なにが勝手に付け加えられたのか、「どう変化したか」をみることには重要性があります。それは言語だけの問題ではありません。文化の問題でもあります。違う言語を話す人々が「どのように受け止めたか」を軽視しすぎです。TS 03:14 2003年9月22日 (UTC)

なるほど。では、それでしたら、エザーンの内容が、トルコでは

Allahü Ekber, Allahü Ekber,(アッラーヒュ・エキベル、アッラーヒュ・エキベル)
Allahü Ekber, Allahü Ekber,(アッラーヒュ・エキベル、アッラーヒュ・エキベル)
Eşhedü ella ilahe illa'llah,(エシュヘデュ・エッラー・イラーヘイラーッラー)
Eşhedü ella ilahe illa'llah,(エシュヘデュ・エッラー・イラーヘイラーッラー)
Eşhedü enne Muhammeden Resulu'llah,(エシュヘデュ・エンネ・ムハンメデン・ラスールッラー)
Eşhedü enne Muhammeden Resulu'llah,(エシュヘデュ・エンネ・ムハンメデン・ラスールッラー)
Hayya ale's-salah,hayya ale's-salah,(ハイヤ・アレッサラー、ハイヤ・アレッサラー)
Hayya ale'l-felah,Hayya ale'l-felah,(ハイヤ・アレルフェラー、ハイヤ・アレルフェラー)
Allahü Ekber, Allahü Ekber,(アッラーヒュ・エキベル、アッラ-ヒュ・エキベル)
La ilahe illa'llah.(ラー・イラーヘイラッラー)

と変化した発音で行われ、ときにラテン文字で表記されることも明記すべきですね。私は、いちいち記していたらキリがなくなると考えますので、やはり反対しますけども。Safkan 06:09 2003年9月22日 (UTC)

ううむ。私の出した例も極端だったかもしれませんが、Safkanさんのあげた例は極端だと思いました。私とSafkanさんでは、「『いちいち記していたらキリがなくなる』のキリがどこまでか」について、違う感覚を持っているのかもしれません。TS 05:12 2003年9月23日 (UTC)

むしろあえて極端な例を出してしまったわけですけども、もうひとつ別の極端な例を出します。トルコでアザーンが何と呼ばれているかが大事な問題であるならば、ezanについて書くならペルシア語ではアラビア語のつづりのままだがazānと発音する、と書くべきでは、それならイスラームのところに「ペルシア語ではエスラームと発音する」「トルコ語ではIslamと表記するが短母音化してイスラムと発音されることが多い」とか書いたほうがいいかな、じゃあウルドゥー語ではなんて言うの、インドネシア語では?ということに許しかねないのをキリがない、と思うわけです。例えば使徒のところにはギリシア語しか書いてありませんが、このような国際的な概念語には各国語の派生の元になった言葉が抑えてあればそれでいいのではないでしょうか。Safkan 05:58 2003年9月23日 (UTC)

「トルコでアザーンが何と呼ばれているかが大事な問題であるならば」ーーーうまくいえませんが、ちょっと問題意識にずれがあるように感じました。ううん、なんというか、原語を重視する立場はよくわかります、けれども言葉の違い(発音・表記の違い)は「ある概念、物、事が他の文化でどのように変容しているのか」ということへの入り口だと思うのです。うまく表現できませんが・・・派生にすぎない、訛りに過ぎない、という言い方は、文化の本質がそこに潜んでいる「変容」への軽視、と感じてしまうのです。一次資料にあたるのは大事です、原語は重要です、妙な誤解を防ぐためにも必要です。でも、「変容・変化」は、ばっさり切り捨てるにはもったいない、というか・・・乱文失礼TS 12:50 2003年9月24日 (UTC)

うーん。おっしゃることは理解できたと思いますし、賛同もします。しかし、ここでezanと表記することもやはり「トルコ語の原語による記述」には異ならないのではないでしょうか。
あるいは、「ある概念、物、事が他の文化でどのように変容しているのか」を重んじるのであれば、TSさんがマカームの項で取られたように、各国ごとのアザーンの行われ方を小項目に分けて記述するのほうがベターではないでしょうか(それって最初に私があげた例と同じだと思いますが…マカームでは各地によって音楽の演奏され方に違いが出ますからバリエーションを重く見ることは大事ですが、アザーンは基本的にアラビア語で行っているわけですし)。私は、そのように変容を重視する末に、上で私があげたような極端な考え方にも繋がりかねないことを重くみます。もうひとつ極端な例を思いつきましたが、シーア派のことが記述されているのに、シーア派の多いイランのペルシア語やイラクのアラビア語方言による発音が記述されていないのは何故か、と考えるのはおかしいでしょうか。こちらもまとまらない意見ですいません。Safkan 17:02 2003年9月24日 (UTC)

変容を重視しすぎると極端な方向へ行ってしまう、確かにそうですね。バランスが大事だと思いました。まあ、アザーンは基本的にアラビア語で行っているので、トルコ語表記・発音のezanは、このアザーン項になくてもいいかな、と思うようになってきました。それより、この項にはシーア派で唱えられているアザーンの句についてもっと書くべきだと思いました。確かイランやアフガニスタンやイエメンなどではここに記されているものに更に違う句を付け加えているはず(アリーがアッラーの証明であることを私は誓う、とか、アリーがアッラーに続く御方である事を私は誓う、とか、アリー、我らが主人、信徒達の長、とか)(こういうことを言うのもヴァリアント重視に過ぎるかもしれませんが)。後、アザーンの音楽性とか(シリア・エジプトあたりはかなりメロディック(旋律的)、華やか)TS 03:23 2003年9月25日 (UTC)

そのあたりのことは、TSさんを含めお詳しい方々が補われれば素晴らしい記事になると思います。私は、外国はトルコにしか行ったことがありませんし、日本国内のモスクは代々木上原の東京ジャーミー(トルコ政府の建てたモスク)しか訊ねたことがないし、朗読CDもトルコ人の発音するものしか持っていませんので、お手伝いできませんし…。Safkan 08:29 2003年9月25日 (UTC)


昔の東京回教寺院で、ずっとムエッジンを勤めた人が帰郷したあと、入れ替わり立ち替わり色んな人がやった時期があったが、
その頃のアザーンをテープに録音したのがありますよ。Ypacaraí 2004年12月6日 (月) 09:46 (UTC)返信

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