ノート:ジュセリーノ・ダ・ルース/個別の予言記述の掲載終了について

最新のコメント:15 年前 | トピック:個別の予言記述の掲載の是非について | 投稿者:モトカル

個別の予言記述の掲載の是非について

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Wikipedia:削除依頼/ジュセリーノ・ダ・ルース20080721での審議において、2008年8月2日 (土) 13:31 (UTC)差分、管理者の一人でもあるKinori氏より、個別の予言記述は除去されるべきものであり、特定版削除があった場合には、復帰の必要はない、との見解が表明されました。これはこの見解が採用されることはすなわち、実質的に個別の予言記述の掲載は今後一切行なえなくなることを意味します。 この記事のありかたの根幹を問う大問題であり、しかも至急結論を出さなければいけない問題です。皆様のご意見をお聞かせ下さい。--新鳩244号 2008年8月2日 (土) 14:26 (UTC)--(文言修正)--新鳩244号 2008年8月3日 (日) 08:52 (UTC)返信

(コメント)最初に叩き台として、私が考える、個別の予言記述を掲載することのデメリット、メリットをお示ししたいと思います。
  • デメリット - Kinori氏の指摘するように、WP:NOTに抵触している面は否めません。
  • メリット - ジュセリーノ関連の情報源は、たま出版やバラエティー番組など一部の利害関係者に偏っており、情報源として使える中立の検証者は少ないのが現実です。その中で、個別の予言記述を全て掲載し、その結果を記述していくことは、中立性を多少なりとも確保する役割を果たしてきました。
この際、個人的ないきさつや思い入れは抜きにして、皆様の冷静な議論をお願いいたします。--新鳩244号 2008年8月2日 (土) 14:26 (UTC)返信
私は「予言の一覧」を載せることが「ウィキペディアは何ではないか」(WP:NOT)に抵触しているとは思いませんし、きちんと出典を示して「検証可能性」を満たし、「独自研究は載せない」ように主観的な解釈をはさんだり加えたりしなけれなば、「中立的な観点」に立った記事になると思います。むしろ、ジュセリーノの予言は90パーセント当たると述べているような書籍やマスメディアがほとんどという状況にあって、それらの出典だけに基づいて書くよりも、むしろ上記のように三大方針を満たした予言の一覧を提示するほうが、新鳩244号さんがおっしゃるように中立性を確保することになると思います。 --モトカル(会話) 2008年8月2日 (土) 15:29 (UTC) (修正)--モトカル(会話) 2008年8月3日 (日) 13:22 (UTC)返信

まず、「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」において”ウィキペディアではないもの”として示されているものに該当するからといって、「Wikipedia:削除の方針」の「ケース E: 百科事典的でない記事」にそのまま該当するわけではない」という旨が明言されていることを明確にした上で、「予言の一覧」が”ウィキペディアではないもの”に該当するとされそうなものについて以下に検討します。

  • いかなる種類の宣伝(プロパガンダ)も擁護もする場所ではありません。 
「あるイデオロギーを持った人が何を主張しているのか、中立的な観点から客観的に記述することはあります」とされているように、予言とその結果という事実を中立的な観点から書くだけなので該当しません。
  • 独自の調査結果を発表する場所ではありません。
予言もその結果も出典に基づいて書くので該当しません。
  • 事実の暴露や報道をする場所ではありません。 
 個人のプライバシーや不謹慎とみなされる事象を書くわけではなく、既に世間に公開された予言を掲載するので該当しません。
  • 引用、格言、人物といったリストの記録所ではありません。
 「記事のトピックに極めて強く関連していたり、大きな功績があったりする場合には、全く問題ない」とされているように、ジュセリーノという人物にとって、いつどういう予言をし、その結果がどうだっ たかということは最大の関心事ですから該当しません。
  • データベースではありません。
 単なる情報やデータを無差別に掲載するわけではなく、ジュセリーノの予言について解説した節もあり、「事前の予言」か「事後の予言」かを区別し、どの媒体での予言かという出典を明確にして掲載するので該当しません。

また、「Wikipedia:削除の方針」のケース E: 百科事典的でない記事として上げられているいずれのものにも該当しないと思います。--モトカル(会話) 2008年8月3日 (日) 15:55 (UTC) (追記・修正)--モトカル(会話) 2008年8月3日 (日) 16:19 (UTC)返信

削除依頼に関わり、会話ページでお誘いも受けましたので、意見を述べさせていただきます。まず、個別の予言を一切禁止、というふうには考えていません。重要なものについては紹介しなければならないし、説明のための一、二の例示も良いことだと思います。
私が百科事典的でないというのは、延々と予言を並べる表・一覧作りであり、さらにそれをウィキペディアのユーザーが判定して評価していこうとする姿勢です。既存の事典にも著名な予言者の項目を設けたものはあるでしょうが、しかし、一覧を掲げて当たり外れの判定を試みたものがあるとは思えません。そういうことをするのは、百科事典ではない、何か別のものです。
世間に中立的な評価がない、というときに、間違いを正す尖兵としてウィキペディアを使うのは、目的外利用です。そうした目的のためには、(かまたあきよしさんのように)そのためのサイトを個人の責任で立ち上げるのが最善です。ブログではなくウィキというシステムを使いたいなら、ウィキを立ち上げればよいのです。
中立的な観点については、Wikipedia:独自研究は載せない#中立的な観点の後段にある箇条書き3点を参照してください。資料がないときに無理をするな、ということです。また、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかが削除基準ではないというのは、掲載と削除の間に編集除去があるためです。編集除去のほうが簡単だから、それですむなら削除に持ち込むな、ということなのです。そして、予言の列挙を「引用・格言」集でないと言ったり、「データベースではない」というのは、普通には無理というものではないでしょうか。--Kinori 2008年8月9日 (土) 12:45 (UTC)返信
Kinori さん、コメントをありがとうございます。
>私が百科事典的でないというのは、延々と予言を並べる表・一覧作りであり、さらにそれをウィキペディアのユーザーが判定して評価していこうとする姿勢です。
”百科事典的”という言葉はいつも、何を書くかということについて議論が起こったときに出てくる言葉です。確かに、それはウィキペディアの本来の目的から逸脱するのを是正する際に”よきブレーキ”となる言葉ではある一方、一般人が自由に編集するオンライン百科事典という既存の百科事典にはない特色を生かそうとするときに”足かせ”になってしまうこともある言葉だと思います。
以前にも述べたように、ジュセリーノという人物にとって、いつどういう予言をし、その結果がどうだっ たかということは最大の関心事だと思います。ただ、私も、現在の状態がベストだとは思っていません。予言の判定は以前からあったものですが、予言についての考え方は硬軟様々あり、日時がはずれただけで、当たっていないという厳格な見方から、日時や場所や被害の程度がその通りでなくとも比較的近い時に、予言と似た事象が起これば、その予言が当たったという見方までありますから現在のように○、×、△で特定の評価をするのは中立的でないと言えますし、その指摘は既に(ノート)でも述べています。IPユーザーが予言が外れたことを強調したいようで、判定のタイミングを、±2週間から1ヶ月程後にしてはというノートでの提案を無視して書き込んでいる状況もあるので、判定はせずに、事実として起こったこと起こらなかったことを単に書くという方向にした方がいいと思っています。
>世間に中立的な評価がない、というときに、間違いを正す尖兵としてウィキペディアを使うのは、目的外利用です。
予言が当たっていないことに焦点を置いた記述をすれば、”間違いを正すとことを目的にしている”ということになってしまいますが、出典に基づいて予言を載せることは、読者の判断のための材料を増やすことであり、それ自体は”間違いを正すという目的にしている”ということにはならないと思います。ただ、そのためには、主観的な見解を書かないようにしなければなりません。
>中立的な観点については、Wikipedia:独自研究は載せない#中立的な観点の後段にある箇条書き3点を参照してください。資料がないときに無理をするな、ということです。
ご指摘の箇所は「ごく小さな少数派にしか支持されていない観点を掲載する」ことについて述べられたことであり、今回のことは観点を掲載することではなく、かつ出典もあるので別の問題です。
>Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかが削除基準ではないというのは、掲載と削除の間に編集除去があるためです。編集除去のほうが簡単だから、それですむなら削除に持ち込むな、ということなのです。
編集除去の方が簡単だからというより、「ウィキペディアは何ではないか」はあくまで「一定の水準に達するための努力目標」とされているからだと思います。ですから「ウィキペディアは何ではないか」で述べられているものは、「削除の方針」で削除対象になっている「百科事典的でない記事」とされているものより幅広いケースについて言及しています。
>予言の列挙を「引用・格言」集でないと言ったり、「データベースではない」というのは、普通には無理というものではないでしょうか
「ウィキペディアは単なる知識ベースではありません」という節にある「データベースではありません。」で述べていることは、記事にデータ(資料)的なものがあってはいけないということではなく、節の名前にも”単なる”という形容詞がついているように、内容がデータのみで、百科事典的な解説のない記事を作ることはふさわしくないということを言ってます。ですから、その後に「統計・周辺の施設を書くことでその記事をより深いものに出来る、あるいは説明に不可欠であるのであればそれは歓迎されるでしょう。 」と述べられているように、むしろそのデータがあることで、「”記事をより深いものに出来る”、”説明に不可欠である”場合は歓迎される旨が述べられているのですデータの掲載は望ましい」ことになると思います。--モトカル(会話) 2008年8月10日 (日) 11:04 (UTC) (修正)--モトカル(会話) 2008年8月10日 (日) 11:43 (UTC)返信
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