ノート:ヨーロッパにおける政教分離の歴史/過去ログ3

最新のコメント:7 年前 | トピック:しきりなおし | 投稿者:2001:268:C068:F624:42D:8F80:D852:D29D

本論の議論を経ずに貼られた独自研究タグについて 編集

本論の議論や分割などの重要な議論の最中にもかかわらず、本論が確定せねば議論にならない各論の項目について、みだりに独自研究タグをはりつける行為は明白に議論妨害で議論を攪乱させます。まずは本論の出典、分割議論を確定させた上で、骨組みを組み立ててから各論の文献情報などについて確認すべきです。議論の焦点をぼかし、攪乱する原因となります。よって独自研究タグをはがします。本論の議論が終わってから各論について検討しましょう。--2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8 2017年2月22日 (水) 18:09 (UTC)

記述を差し戻そうとしましたら、議論中にもかかわらず、121.107.209.16さんがタグ貼り付けだけでなく、勝手に編集行為を行い加筆しているのを発見しました。これは明確な議論進行の無視と思われますし、編集合戦になりかねない重大な危険行為です。よって記事を議論開始時の状態に戻します。以後121.107.209.16さんはこのようなことを絶対になさらないでください。--2001:268:C068:C252:EC34:AF2A:EBB7:F6F8 2017年2月22日 (水) 18:15 (UTC)


Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることを読んでください。出典が明記されていないのですし、議論中だからテンプレートをつける必要があります。問題を解決してから、はがしてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 12:49 (UTC)

出典をつけた加筆について理由なく、しかも削除を提案することなく、削除するのは、白紙化といわれるもので、Wikipedia:荒らしの典型です。  荒らし行為はやめてください。これ以上続ければ、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:17 (UTC)

2001IP氏が削除した文章ですが、

962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[1]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[2]。しかし、その後の叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[3]。宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[1]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[2]。アメリカ合衆国でも宗教的理由で迫害された人々が移住してきた歴史があるため、建国以来政教分離の原則が確立しており[4][5]、アメリカ合衆国憲法修正1条では国教の設置が禁止された[6]。(ただし、公定宗教は認められており、英国国教会、アメリカ合衆国大統領の就任式宣誓などは政教分離の原則違反にはならない)[6]。

現在、多くの国で、信教の自由を保障するための政教分離原則が人権宣言や憲法で保障されるようになっている[1][2]。

これのどこがなにを理由に削除されるべきなのですか。山田本を利用していないからですか?

そして、フランス革命以降のフランスにおける法制の動向、そして米国の動向について削除するのも、滅茶苦茶すぎて話になりません。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:29 (UTC)

また、年表を削除した理由も不明ですし、いずれにしても、不当な白紙化に該当します。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:40 (UTC)

そもそも内容の妥当性とかの前に、まず議論中は編集合戦になるような行動を慎みましょうよ、という当たり前の話だと思うんですけど、そういう最低限の礼節みたいなものも期待しちゃいけないんですか?まず議論中はとりあえず記事内容を現状維持しましょう。議論も現状の記事内容について何ですから、議論当事者同士が議論途中で好き勝手に加筆し始めたら議論も錯綜しますし、無用な対立になりますし、議論も混乱するでしょう?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:43 (UTC)
礼節をいうなら、出典くらいつけましょう。しばらく待ちますので。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 13:46 (UTC)
根本的な問題として、この記事ちゃんと参考文献挙げてますよね?はっきり言えば、121.107.209.16さんが現状の記述の参考文献や出典も確認せずに、ただ単にごねているようにしか私には思えない。私はすでに関係論文も挙げて、現在の記述はとくに問題ないということはちゃんと提示したはずですが。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 13:58 (UTC)
私が出典の明記といっているのは、本文中に注釈を挿入するという意味です。参考文献があるといっても、どの記述がどの文献を出典としているかは、明示しなくてはなりません。これは学術論文でも基本でしょう。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:05 (UTC)
具体的に争点のある箇所について出典の明記はなされるべきです。しかし、一般的に常識と考えられていたり、一般常識でなくてもその分野で前提とされているものなどについていちいちの注記を要求するというルールではないと思われます。そういった事柄については参考文献、あるいはノートなどの議論において他の文献で相応の記述が確認されれば普通は妥当と見なすのがウィキペディア的には正しいあり方ではないでしょうか。しかるに、121.107.209.16さんはしかるべき争点を提示せずにいたずらに出典の明記を求めているようにも思え、さらに争点に対して回答が得られても文献と一字一句も同じでなければいけないというような極端な論理を展開しているように思われますが、これは大変問題があることのように思われます。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:12 (UTC)


歪曲しますね。コメント依頼すればいいでしょう。「一般的に常識」というのが怪しいのです。挙げた箇所だけでなく、脚注でつけられていない箇所は、私的なエッセイが多いです。

近代的な市民社会とそれに立脚した近代的な国民国家は、近代の西ヨーロッパに成立したものであるが、中世の西ヨーロッパ世界においては国民を単位とした政治社会は希薄であった。そこでは、古代ローマ帝国の帝権の延長線上に自身を位置づけ、世俗世界での至上権を主張するドイツの皇帝と、キリスト教信仰と教会組織を持ち不可謬権と聖書解釈を独占しようとするローマ教皇が、それぞれローマ法とカノン法という独自の法を持ち、権力と権威を二分していた。したがって国民を単位とする政治社会である近代国家が生起するためには、帝権と教皇権を超克していかねばならず、特に「国家の中の国家」と言われた教会組織の取り込みあるいは克服がなされねばならなかった。

「国家の中の国家」と言われた教会って、誰がいっているのか、明記すべきです。

そして、霊性史としては、

今日の欧米では、国教制をとるにせよ(イギリス)、公法上の法人格を与えるにせよ(ドイツ)、私法上の組織として扱うにせよ(アメリカ・フランス)、国家と霊性を分離し、信教の自由を認めるのが一般的であり、むしろこのような自由が認められない諸国に対して批判的である。しかし、今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている[* 7]。たとえば2005年10月28日に出された「自民党新憲法草案」が事実上の政教分離の緩和を目指しており、教育現場での神道教育の導入につながるのではないかという懸念がカトリック教会などから提示されている。[18][19][独自研究?]。そのため宗教と政治の関係を単純な公私の関係で割り切ることはできなくなりつつあるといえる。[独自研究?]

と、唐突に自民党批判。とくに、「今日の保守主義思想はしばしばこのような宗教(的な倫理規範)と政治との乖離状態を批判し、宗教の持つ公共性への見直しも進められている。これはいわゆる愛国心教育に関わる問題である」はエッセイでしょう。

正教会の箇所は、「政教分離の歴史」との関連がまったく不明です。山田を読め、といいますが、それのどこのページに書いてあるのかさえも書けないという、本当に読んだのか?という疑念もわいてきます。他人は検証できるように、ちゃんと脚注をつけてください。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 14:30 (UTC)

まずそこは今まで議論に出てきていませんし、そうした個別事例の問題であれば、そこから論じればよいのに、分割提案という形で話をしたのは121.107.209.16さんのほうです。121.107.209.16さんはそもそもそういった個別議論を展開していたのではなくて、まず古代中世に政教分離がさかのぼることの出典を求めていましたよね?分割提案をしながら個別に記事内容を検討するなんてことは正直不可能ですから、まずはいっぺんに論点を出したりしないで、個別に争点を解決していきませんか?まずご自身の出された分割提案の議論に集中しましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 14:38 (UTC)
厳密にいえば、これらは分割提案とは別件です。分割するにしても、出典のない「個人的なエッセイ」は、削除を検討されるべきものです。分割するにしても、分割前に情報源が確認できなければ削除すべきものです。個別に争点を解決していくためにも、こちらはこちらで回答してください。何度も言いますが、出典のない記述は、独自研究といわれても仕方ないです。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 15:06 (UTC)
現在の記事内容の分割議論の途中で別件についても議論をするというのはとても無理です。まず分割議論に集中しましょう。お願いします。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:11 (UTC)

  質問 本記事をざっと読んだ限りですが、本記事の記載内容は「政教分離の歴史」というよりも「西欧におけるカトリック教会と国家の関係史」といったほうが良いのではないでしょうか。私は、まず記事名を前者から後者に変更したほうが話がスムーズに進むように思います。すると、世界中における宗教と国家の関係に応じて、例えば正教会については「東欧における正教会と国家の関係史」、日本においては「日本における宗教と政治の関係史」などとそれぞれ記事を立項することができます。これらをまとめた上位記事として、「宗教と国家」とか、それこそまさに「政教分離の歴史」などという記事を立てることができると思うのですが。--Susuka会話2017年2月24日 (金) 15:27 (UTC)

私はそもそも政教分離の歴史という記事名がまずいと思っております。これは政教分離がもともと国家と教会の機構的分離をいうという点では正しいのですが、政教分離というとどうしても近代的な政教分離原則を意識してしまいます。だから古代から話されたり特殊専門的な「霊性」という言葉が出てくると「?」となりますよね。意味は変わらないのですが、「聖俗分離の歴史」とすればだいぶ違和感はなくなる気はします。「西欧におけるカトリック教会と国家」というのに似た意味として「中世の国家と教会」というのも私は考えたのですが、こうした関係の意味を必ずしも明確にしない記事名は、これはこれでなんとなく別の方面から問題点を提起されそうな気もします。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 15:38 (UTC)
私が「分離」という言葉を外したのは、政教「分離」の前段階として政教「一体化」といってもいい歴史的進展に結構な分量が割かれており、必ずしも「分離」のみを書いているわけではないためです。ならば、「国家と教会の関係」というテーマ史として(その関係の近疎・上下を問わず)語れるようなタイトルにしたらよいのではないか、と思った次第です。ちなみに、テーマ史が時代別に分割された前例としては『世界の一体化』が挙げられます。--Susuka会話2017年2月24日 (金) 15:52 (UTC)
わかります。その点私も迷ったのですが、一方で結合から分離方向へ向かうという方向性においては逆はないので、その点を明確にしないと何かしら問題が出そうかなと。世界の一体化も一体化していくという方向付けがついていることで歴史記事としてうまく収斂していると思いまして。聖俗分離の歴史のいいところは、率直に言って「聖俗」という言葉が特殊学問的響きに近いので、歴史学的意味における記述内容であるこということにおそらく誤解が生じないということかなぁと。実は神学の側はこういう歴史学的見方に対して否定的です。国家とカトリック教会ってやるといずれ神学側から「いやちょっとそこは。」的なものがかなり出てくると思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 16:03 (UTC)
世界の一体化の先例は非常にいい例ですね。私もそうしたことを言いたかったのです。中世の国家と教会として分割に同意されるならば、私もそれに同意できます。私は「ヨーロッパにおける世俗化」の方がいいと思いますが。また、宗教改革については提案している通り、さらにまた別の記事にしたらいいでしょう。神学側の批判についてですが、それは批判があると紹介すればいいだけではないでしょうか。あるいは、個々の歴史認識で評価が全面にわたって異なるのであれば、それもそれぞれ個別の箇所で併記すればいいでしょう。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 16:58 (UTC)

しきりなおし 編集

議論が錯綜してますので、一度仕切り直しを提案いたします。利用者‐会話:アルトクール#解決の参考を教えて頂ければと思います。で頂いた助言から私なりに以下の流れでの議論を提案いたします。

  1. 既存の分割提案、出典要求、改名提案などすべての議論を中止、無効とする。
  2. まず記事が歴史記事であるということから、とりあえず「国家と教会の分離の歴史」に対する歴史学的成果を中心に記述されることを確認する。
  3. 次に現状の「政教分離の歴史」というタイトルの妥当性を考慮し、必要であれば歴史学的記事としてふさわしい記事名に変更する。
  4. 記事の内容を精査し、節ごとに参考文献・出典を確認しながら歴史学的記事としてブラッシュアップする。
  5. 必要であれば分割する。

以上、ご同意頂けますでしょうか。議論が拡散し、保護依頼中にもかかわらず、標準名前空間側の編集行為も行われており、編集合戦につながりかねませんのでこの記事の議論について、この流れで了解を取りたく思いますが、議論の提起者である121.107.209.16さんの合意をいただきたく思います。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 16:53 (UTC)

1の「無効」は反対します。しかし、議論の流れ次第ではもちろん取り下げもありえます。また、4のブラッシュアップのための期間を要求するということであれば、中止は合意します。2は、歴史の記事であるからといって、歴史学以外の、例えば法学や、あるいは現代史を書くための新聞記事などを利用することを不可とするのであれば、反対。記事名の件は、具体的な記事名をいってください。4、5は同意します。(しかし、5と1が矛盾していませんか?)--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:05 (UTC)

議論の流れの話です。1→5の流れで議論を進めることをご了承くださいませんか?歴史学以外の内容についてはこの記事では盛り込まず、とりあえず別にするという形にしないと議論になりませんので、そこをまず了承してください。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:09 (UTC)
この記事では近代以降を扱うべきではないといっているのですか?--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:13 (UTC)
違います。歴史学的見地から大枠を構成すること、古代・中世・近世・近代においてだいたい何が記述されるべきかの基本的な部分は歴史学的文献によることを合意しようという話です。具体的には大枠のフレームとしては『教会から国家へ』で提示されている国制史的理解が現状もっとも歴史学的には受け入れられている(この点については異論はなかったはずです)と思われますので、それを用いることを想定しています。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:17 (UTC)
『教会から国家へ』が「政教分離の歴史」として書かれているというのであれば、脚注を用いて明記してください。アルトクール氏の助言にあるように、分割提案と出典要求とでは、出典の明記の方が先に解決すべきなのは確かです。もし出典を明記するブラッシュアップをこれよりなさるのであれば、一ヶ月(あるいはどれくらい必要か目安をいってください)ほど議論や分割提案を停止するのは賛同します。しかし、待ってもブラッシュアップされない場合、また出典が明記されない「エッセイ」にとどまる場合は、その時にまた対処します。近代以降に関して、歴史学以外の情報源を使用してはならない、というのは同意できません。Wikipedia:信頼できる情報源には複数の出典を使用することが好ましいとありますし、法学者だからエルンスト=ヴォルフガング・ベッケンフェルデの「世俗化過程としての国家の成立」は使えない、となるのですか?井上論文が使えないというのであれば、それについてもまた議論しなくてはなりませんし、明確に反対します。また、百科事典を利用してはならない、というのは、ウィキペディアが百科事典であることを理解されていないのではないでしょうか。ウィキペディアは学術論文でも名鑑でもありません。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 17:40 (UTC)
勘違いがあるのですが、『教会から国家へ』はベッケンフェルデの理論を引き継ぎ、発展させたもので、しかも両者ともに「国家と教会の分離が近代国家の成立」であるということでは共通しているだけでなく、じつは他の国制史家もこの点はすべて基本的に一致しているのです。そのうえで日本ではその国制史モデルの典型として『教会から国家へ』はスタンダードとしていつも言及されています。要は学界で最も受け入れられているのです。ベッケンフェルデの議論の足りないところを補って完成させたのが『教会から国家へ』だという了解で、両者を切り離す必要はありません。井上論文うんぬんについては競合しないよう、法学的な憲政史的意味の政教分離原則の歴史と法制史的な各国の政教分離関連法についてはそれこそ政教分離原則の歴史という記事を作って別個にすることで収容可能と考えております。こちらは当面政教分離の歴史としますが、歴史学的見地の「国家と教会の分離」という意味での政教分離の歴史とし、おいおい必要であれば改名していくという流れを想定しています。百科事典的にも二つの領域について混線することなく記述でき、大変整理されると思われます。どうでしょうか?--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:50 (UTC)
要は民事法の専門家の井上修一さんとドイツ国制史家山田欣吾さんの論文を重ねても扱っている時代もテーマも学問領域すら全く違うので、論点は重ならないので議論は平行線になります。どっちも盛り込んで喧嘩させたような記事を作るという無理をするのでなく、どちらも独立した別個の記事で汲み取るという共存をするほうが百科事典的には適切であると私は提案します。どちらも大切であるということは双方変わらないということはここまで合意できていると思うからです。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 17:58 (UTC)
それでは振り出しに戻るだけではないですか。ベッケンフェルデを『教会から国家へ』が継承発展させたのだろうとは周辺情報からも推定可能ですが、しかし、そもそも、『教会から国家へ』を聖典にして、それ以外を異端とするような言い方はWikipedia:中立的な観点#偏った記述は帰属化・明確化するに違反します。山田欣吾以外を出典として用いると論旨が崩れるようなものを書こうとしているのでしょうか?そうであれば、それは特殊な解釈であり、特殊な証拠が必要です。歴史学以外の文献を使用不可とする提案には断固反対しますし、「しきりなおし」提案にも反対します。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:02 (UTC)

聖典化してありがたがろうということを言ってるのではなく、国制史的理解の「信頼すべき情報源」として扱おうという話です。法制史的理解や憲政史的理解についてまでいっておりません。しかし文献の話はとりあえずおきたいと思います。肝心なところはそこにないからです。まず歴史学的な政教分離の歴史と法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史を分け、こちらには歴史学的な意味での国家と教会の分離史だけを書くことにしようということだけ合意しましょう。そこから整理しましょう。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:08 (UTC) ちなみに具体的に歴史学的にこの記事が書かれていることを記事内で明記し、憲政史的意味については別項にあることなどを配慮して記せば、中立的な観点的にも問題ないと思われます。観点記述の帰属化・明確化という点は問題ないからです。名称的に重複すると思われる事柄でも必要であれば分野別に記事を立て共存させることができるということはウィキペディアは基本的に認められています。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:14 (UTC)

ですから、それだと振り出しですので、反対します。「歴史学的な政教分離の歴史と法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史を分ける」根拠がありません。「歴史学的な意味での政教分離の歴史」が果たして、2001IP氏のような意味が「学会の定説」なのか、歴史学事典などではどのように記載されているのか、明示すればいいだけです。明示しないで演説ばかりされてもお互い無駄な浪費です。素直にまず出典を明記すればいいだけです。改めてKanbun版を読んでも、実に出典が書かれていないし、なんとなく思想史に興味がある人が関連性を明確に説明しない(できない)ままに、趣味的に恣意的に書いているようにしか見えません。しかし、ベッケンフェルデについての紹介論文(新保)を読むと、10世紀以降の世俗化から政教分離原則の法制化までの流れを納得できるわけです。私はインターネットでも確認できる情報源を提示して相互に確認できるよう努力してきました。しかし、あなたは本を持っていると主張するわりに(確認できないことです)、脚注で明記できないのは、やはり「政教分離の歴史」として書かれていないからではないかと疑わざるをえない。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:27 (UTC)
だいいち、「しきりなおし」と称して、議論が拡散しているだけです。#本論の議論を経ずに貼られた独自研究タグについてでは合意案を提示しているのに、それには答えようとしないのはなぜですか。--121.107.209.16 2017年2月24日 (金) 18:31 (UTC)
では121.107.209.16さんは「歴史学的な政教分離の歴史」と「法制史・憲政史的な政教分離原則の歴史」を分けることに反対ということですね。とりあえずここは一度平行線と言うことにしましょう。まずはこの点について今後一致点を見つけるためにじっくり話していきましょう。それまでは他の議論はとりあえず中断でお願いします。この論点が解消されないと次の議論がそもそも成り立たないと思われますから。--2001:268:C068:FC51:A409:298D:91E7:14F3 2017年2月24日 (金) 18:33 (UTC)

まず記事内容については一致点がないので、議論は長引きそうなことが予想されます。そこでスムーズな議論進行のために以下の2点を最初に合意するのがよいと思われます。

  1. 記事内容にどのような学問の成果が反映されるべきか議論で合意されるまでは一連の編集合戦前の「2017年1月18日 (水) 12:03‎」の版を保存し、タグの貼り付けや加筆などはしない。
  2. ただし、記事の出典がわかった場合は既存の記述の脚注の付記だけは認める。

1点目につきましては議論途中で記述が増加したりタグ貼り付けが行われると議論が攪乱されるため、名前空間をなるべく議論に即した状態に保つとともに、編集合戦を防ぐと言うことを意図しております。 2点目につきましては付近の記述の脚注に明記されているものを含め一応いくつか参考文献を手元に集め、確認したところ記事の記述の出典がほとんどわかったので、長引く議論の間に記事に脚注を追加していくことで、あらかじめ議論の絞り込みが可能と思われるためです。いくつか入手困難なものについては取り寄せなどしておりますが、今時点の判断で言えば、かなりの記述の出典は特定できる手応えがあります。 そういうわけで、以上二点について遵守頂くということをまず合意して議論に戻りたいと思いますが、いかがでしょうか。--2001:268:C068:F634:65A8:E026:8D64:8652 2017年2月25日 (土) 04:53 (UTC)

1は反対。問題があるからタグ付けを行うのですし、ノートでの議論に参加者を募る意味でもタグ付けや分割告知は必要です。また、私が加筆した部分について、何の問題があって削除しようとするのですか。「編集合戦」になるのは、議論も告知もなしに貴殿が削除するからです。自分だけがこの記事の編集権があると主張するようなことは、ウィキペディアでは不可能です。新保論文についても加筆を控えるようにいわれたままですが、いつまでも自分の「編集権」を主張するのはやめてください。私も今後必要あれば加筆もするし、タグ付けはしていきます。現在、合意不可能で平行してすすめるしかないといわれていますが、私の編集も、貴殿の編集も、他の方の編集も、制限されるべきではありません。ただし、これよりいままで出典がついていなかった箇所を修正していくということであれば、それまで私の方からは編集を控えることは考慮してもよいですが、2001IP氏の言い分に完全に同意したのではないし、編集はオープンであるべきでしょう。工事中テンプレートを貼ることに反対はしませんが、どれくらいの時間が必要なのかを明言してほしいです。半年間待ってくれといわれても困りますので。通常は工事中テンプレートは3日ほどです。しかし、すでにいったように私は一月ほど作業に時間がいるというのであれば、待ちます、といっています。これは相当の譲歩であるということはご理解ください。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 15:25 (UTC)
疑問なのですが、独自研究タグなどは、出典が脚注などで明示された時点で削除していけるものです。それだけのことなのに、他人にのみ編集を遠慮してくれと要求するのは真意が分からないです。自分の論文とみなしているのか、勘ぐらざるをえませんが、それは記事の私物化といっていいですよ。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 15:34 (UTC)
「政教分離原則の歴史」と「政教分離の歴史」とを分けるという提案についてですが、政教分離原則#歴史を確認しますと、ここの記事の要約のような内容になっていました。出典もほとんどなく、独自研究としか思われない内容の記載もあります。これを2001IP氏が書いたのでしょうか。もしそうであれば、政教分離原則政教分離の歴史という構造になっているのであり、それをさらに政教分離原則の歴史を設置してしまうと記事の関係がまったくわからなくなります。やはり、「中世ヨーロッパの国家と教会」という記事に移動し、ここは叙任権闘争、宗教改革、近代の革命という画期について書くということが一番効率がいいですが、この件について反対なのか、賛成なのかを全く答えようとしないから、会話になっていないのです。それと、アルトクール氏の所でのコメントで私が「ネットで確認できないものは信頼できる情報源ではない」などと主張しているみたいな歪曲をされていますが、これは完全な誤解、というより意図的としか思えない、つまり悪意ある歪曲です。私は山田本も他の大学紀要論文もいずれも有効といっています。他人の発言を歪曲して第三者に伝えるあなたの行動に、私は不信感を抱かざるをえません。歴史学の文献だけを採用し、法学文献は使用できないという提案に反対ということで、歴史学であっても、法学であっても、あるいは新聞でも、きちんと内容との関連性があれば、記載可能です。--121.107.209.16 2017年2月25日 (土) 16:09 (UTC)
「政教分離原則の歴史」についてまとめるのが方向性として良さそうに思います。現状では宗教史のうちwikipedia編集者が政教分離に関係しそうだと独断で判断した事例を列挙しているだけであり、それが政教分離に係累する事例にあたるのかどうか2次史料、3次史料から裏付けが取れない状況にあります。なにより困るのは政教分離原則に関して記述している信頼できるほぼすべての論文が古代キリスト教だの中世キリスト教普遍世界だのに言及しておらず、wikipediaに加筆された膨大な情報についてはたして一読者として「こんなもの読む意味あるのか」と不安になってしまうことです。政教分離原則にも加筆したのですが[1]【一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる】ものだと思います。その周辺からの加筆が常識的であり、せいぜいそれ以前について加筆するについても信頼できる2次情報、3次情報に基づくべきでしょう。--大和屋敷会話2017年2月25日 (土) 20:13 (UTC)
「一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる」については、この中でいう政教分離が厳密には政教分離原則を指しているということを念頭に置けば、一般的理解として歴史学でも共通しております。多くの政教分離原則に関わる学問は近代以降のことを扱うので、こういう共通理解は伝統的であり、その点についてはおっしゃるとおりです。しかしながら歴史学ではそうした政教分離原則そのものを近世における特殊事象としてだけでなく、先行する古代中世ヨーロッパの政治社会そのものに広く存在した社会構造の進展の産物として把握しています。そのために国家と教会の分離という意味での政教分離という視点で国家の世俗化過程を問題にします。ベッケンフェルデ論文のように叙任権闘争を世俗化第一期、一般的な意味での政教分離原則の成立を世俗化第二期という形で理解するのはいまのところ学界では共通理解であり、それは山田欣吾『教会から国家へ』でより明確な形で言及され、基本的にはその問題関心と枠組みは学界共通のものとして共有されております。山田欣吾はベッテンフェルデが指摘した世俗化の過程の前段階としてカロリング朝の政教一致体制が重要であることを指摘し、カロリング朝国家を「教会」であると位置づけました(教会国家論)。そしてヨーロッパの長い政教分離過程の出発点にカロリング朝的教会国家体制をおき、9-11世紀におけるその展開と12世紀以降の世俗化過程という形で整理した枠組みを提供しました。個別論点について細かい相違はありますが、国家の世俗化過程、政教分離過程の大枠そのものに有力な異論が存在するということはありません。その点については121.107.209.16さんが間接的に証明してくださったものと私は思っております。文献上の言及は多数ありますが、直接的に山田欣吾『教会から国家へ』のこの分野での影響力を伺わせるものとしては、現在のところ包括的なカール大帝期のカロリング朝研究の決定版ともなっている五十嵐修『王国・教会・帝国』での言及と修正(キリスト教帝国論)を見てもわかりますし、ビザンツ帝国での政教関係において重要な示唆を与えている大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ』も山田の教会国家論をスタンダードに山田が立論に当たって参照したベックの議論を発展させる形で議論しております。そのうえで近代的な政教分離原則に関わる信教の自由という点では、かねてより古代のコンスタンティヌス帝とリキニウス帝によるミラノ勅令が知られており、これに関してはキリスト教成立から勅令による古代における信教の自由の確立までを精緻かつ浩瀚に描き出した保坂高殿さんの研究があり、信教の自由の問題は歴史学的には近代国家におけるそれの成立にとどまっておりません。この研究は現状独立している感があり、カロリング朝以降へのつながりには空白があり、明確でないのですが、歴史学的な政教分離の問題関心はすでに近代国家成立という一事態を越えて、ヨーロッパ史上の社会全体における国家と宗教の関係を問うという広がりを見せております。こうした歴史研究の蓄積と2000年以降近年における展開を考えますと、狭い意味での政教分離原則の成立史とは別個に、この国家の世俗化過程全体についてはとくに政教分離原則そのものの成立史とは独立して書かれる必要性があると思われます。そもそも「【一般的な理解としては政教分離と信仰の自由の保障は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる】もの」という点に関しては別して憲政史や法制史など直接的に近現代に関わる研究はあるものの、むしろその研究分野を考えれば、政教分離原則の歴史節に収めることは十分な可能なように思われますし、そのような記述に対して、分量的な問題があっての分割の必要性を除き独立させる必要性を感じません。それに対し、この記事で述べられている歴史学的な内容については政教分離原則の歴史の一般的理解とは位相を異にする歴史学的な研究展開と動向が記述されており、別個の記事として十分成り立つ物と思われます。したがって、記事名としての「政教分離の歴史」は適切かという問題点はありますが、記述そのものについて一般的理解を理由に限定することは困難なように思われます。政教分離の文献を調べれば紛れもなく一般的理解についての記述が大半を占めることは以上の点からも十分予想されますが、だから国家と教会の分離の意味での政教分離の歴史として歴史学的な国制史理解などが中心になることはありえないというのは成り立ちがたいように思われます。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 01:01 (UTC)

  コメント とはいえ、一般的に「政教分離」といえば第二期の「政教分離原則」がメインですよね?そういう読者が「政教分離の歴史を知りたい」という動機で『政教分離の歴史』の記事を閲覧したら、「何故、古代から延々とこのような議論をしているんだ?」と思ってしまうでしょう。ですので例えば、歴史学的に「政教分離」はいわゆる近代の「政教分離原則」と中世ヨーロッパにおける国家と教会の対立と分離(叙任権闘争など)の二つを扱う考え方が主流になっている、という上述の説明を記事の冒頭で説明するべきでしょう。その点について了解したうえで記事割りですが、

一例として提示します。--Susuka会話2017年2月26日 (日) 02:54 (UTC)

Susukaさんへの返信。他の関連記事との関係性はほかでの議論もありそうですから、とりあえずおいておいて、私は基本的には『古代から中世にかけての政教分離』に近い形(ほかにも改名の候補はありますが)で本記事を改名するのが適切であると思っています。「政教分離の歴史」という現在の名称自体にまず混乱の原因があるという点では一致しているように思えます。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 03:07 (UTC)
わかりました。記事の体系的な整理の議論については、しかるべき場所とタイミングにて行うとしましょう。まず本記事の改名を行うのには賛成ですが、そうなると近代の箇所や日本の政教分離の箇所の転記も同時に行う必要がありますね。--Susuka会話2017年2月26日 (日) 03:11 (UTC)
はい。その点は全く賛成です。私の「しきりなおし」節冒頭の議論の流れもそのようにすることを前提に提案しております。改名してからまず冒頭に「〈政教分離の歴史〉への史学的視座」のような概説説明をつけ、日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところはばっさり転記していくことを念頭に置いています。--2001:268:C068:C81F:1129:92DF:4EC4:A375 2017年2月26日 (日) 03:29 (UTC)
  • 「日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところ」の意味が分かりません。日本には政教分離の歴史がないという判断に根拠はあるんでしょうか?このあたりの独善的な「仕分け」が信用できない一番の理由なのですが。本記事の場合、「基本的視野」「歴史的展開>概要」の項目がすべて独自研究の公表になっており、「wikipedia編集のさいの基本的視野」がおかしいのだと考えます。ここでは投稿者の独自の哲学を開陳しているだけであり信頼できる二次情報・三次情報の裏付けがない、ここからしておかしいのだと思いますよ。--大和屋敷会話2017年2月26日 (日) 18:33 (UTC)
歴史学的な文献に基づいて、『古代から中世にかけての政教分離』に改名したら「日本の政教分離うんぬんのあまり関係ないところはばっさり転記していく」という話です。それとも寡聞にして知らないのですが、古代中世日本史でヨーロッパのような国家と宗教組織の分離というような議論がおこなわれていたのでしょうか。また歴史学の言う政教分離は「国家と教会の分離」の意味なのですが、日本にキリスト教が伝来したのは一般に1549年とされておりますから、古代中世という時代区分においては、日本が外されることは一般通俗的にもとくに問題がないように思われます。次に歴史学的な政教分離論についてはすでに文献を示しているので裏付けがないというのはただ単に大和屋敷さんがそういう文献を確認していない、そういう議論を知らないだけというように思えます。大和屋敷さんの挙げた文献がとくに歴史学的な政教分離議論をフォローしているものでないことはすでに説明いたしました。歴史学的理解そのものについても文献が挙げられていますし、そういう議論が歴史学的に十分認知・共有されていることについてもすでに十分な量の文献が示されています。--2001:268:C068:C81F:9C83:7E94:5D68:8492 2017年2月26日 (日) 22:15 (UTC)
  • 日本の政教分離の歴史について記述場所をなくすのはおかしいです。むしろアメリカの記述がそもそも無いのも違和感があります。中国やインド、イスラム(トルコ等)についての記述が可能な余地も残しておくべきです。キリスト教に焦点をおくにせよ政教分離の歴史について記述するばあい、一般的な視座としては叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命(世界大百科事典「政教分離」)まででしょう。ついで各国法制史における政教分離の経緯が記述されるのが通常だと考えます。上にも書きましたがwikipediaの当記事のばあい「基本的視野」がそもそも独自研究でありおかしいのだと考えます。とくに「霊性史」を視座においてしまっているからこの部分で膨大な(そして関係があるのか無関係なのかwikipedianには判定しようのない)記述のコレクションが出来てしまっているのだと考えます。--大和屋敷会話) 2017年2月27日 (月) 04:14 (UTC)「古代から中世にかけての政教分離」というカテゴリについても、すくなくともそのような視座に立つ底本があって、それをもとに執筆するような態度でなければ独自研究を展開するだけになるので不安です。日本の場合でも奈良仏教・平安仏教から国家論がすでに展開されており(たとえば[2])それの要約を記述することは可能でしょう。また江戸期からの国学および神道における国家観は明治以降の政教分離に重大な影響を与えたわけですから、wikipedia読者(とりわけ日本の読者)の期待に沿う記事内容のはずです。かように考量すれば聖霊史をもとにしたキリスト教における国家観の歴史にのみ膨大な執筆スペースを用意できないことはご理解頂けるのではないかと考えます。--大和屋敷会話2017年2月27日 (月) 04:32 (UTC)
  •   コメント 私が先に提案した『古代から中世にかけての政教分離』が念頭に置いているのは、本記事の記述の多くを占めるカトリックと西欧国家との叙任権闘争などについての話なので、一意に定まる記事名にするなら『古代から中世にかけてのカトリックと西欧国家との関係』といったところになろうかと思われます。さきに大和屋敷さんが挙げられた奈良仏教・平安仏教の例は『古代から中世にかけての日本における宗教と政治との関係』といったところでしょうか(これを「同時代だから同一記事」とするのは、さすがに無理があると思います)。米国については『アメリカ合衆国における政教分離原則』などという記事名でしょう。やはり、他の場所に議論を移すなどして体系的な議論を行うべきでしょうか。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 05:37 (UTC)
Susukaさんと同様の意見ですが、少し違う点から指摘いたします。大和屋敷さんのいう政教分離が政教分離原則のことであり、現状ここで述べられている政教分離が歴史学的意味の国家と教会の分離のことであり、そもそも同じ政教分離といいながら概念としては違うということがあります。『古代から中世にかけての政教分離』という記事名に改名するという議論はそういう流れで出てきており、しかもこの点について現状の記述がその観点と異なる独自の研究であるという出典はありません。むしろ現状の記述が大枠において歴史学的理解に基づいた記述であることを裏付ける文献が提示されております。そのうえでそこに日本の記述が含まれないのは誤解を招くという議論であれば、日本の記述がなくても誤解しないような記事名を考えればよいのではないでしょうか。提示された文献についても直接的に歴史学的なものでないと思われますし、歴史学上の通説的理解と無理して並べるならば、むしろその研究がどれだけ一般的な影響力があるかという点について歴史学的見解に即した形で、大和屋敷さんが求められたように、ご自身で2次資料、3次資料での裏付けを考慮し、提示する必要があるように思われます。議論の場所としてもそれを行うのは政教分離原則のノートで、たとえば歴史節の内容の加筆候補として提示しておこなうほうが適切なように思われます。--2001:268:C068:E8C9:F0F4:5FE:2BE3:CD41 2017年2月27日 (月) 05:51 (UTC)
出典がない独自研究と疑われる記述を行っているのは2001IP氏です。以下の資料がWikipedia:信頼できる情報源に違反するということを証明しないと、あなたの主張は成立しません。
  • 新保弼彬「世俗化理論の歴史的展開とその諸相(1)」九州大学言語文化論究 (通号 5) 1994
  • 山野一美「政教分離」日本大百科全書(ニッポニカ)小学館 
  • 世界大百科事典第2版「政教分離」
  • 新 田 浩 司「政教分離と市民宗教についての法学的考察」『地域政策研究』(高崎経済大学地域政策学会) 第 14 巻 第2・3合併号 2012年1月 21頁〜 35頁
  • 井 上 修 一「フランスにおける政教分離の法の展開」佛教大学教育学部論集 第2 号(20 0年3月)
  • 佐々木弘道「合衆国憲法の政教分離条項」成城法学(64) , pp.79 - 98 , 2001-01 --121.107.209.16 2017年2月27日 (月) 14:24 (UTC)
  •   コメント 今回の論争は、IP氏お二人がそれぞれ出典を提示して、「『政教分離の歴史』とはこういうものだ」と対立されているわけですよね?ならば、「『政教分離の歴史』については大きく見て二つの見方がある」と記載するのが、読者に対して誠実な対応であると思うのですが。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 14:29 (UTC)

私も基本的に2つの観点を一つの記事で共存させるかはともかく、それぞれを個別のものとして読者にしかるべき形で提示するのが誠実な対応であるという点については全く同意見です。私から見ますと、121.107.209.16さんが現状の記述を執拗に否定し、そしてなぜか私が121.107.209.16さん自身の提示した文献を否定したように考えてらっしゃるように121.107.209.16さんが思われて、論争がどちらを取るかという方向で進んでいるようにおっしゃっているように思いますが、私はそういうことを言っているのではありません。私はそもそもこの記事の現状の内容に基づけば『政教分離の歴史』というタイトル自体が誤解を招いており、そのせいでしなくてもよい不毛な論争が発生しているように思いますので、この記事を歴史学的内容に純化し、しかるべき改名をすれば別して全体像としての政教分離の歴史なるものも新規作成可能であると思われますし、別に政教分離原則記事の歴史節という場所もあります。そうしたウィキペディアで用意されたいくつかの方法を用いれば、現在提示されている2つの観点は安定した形で両立共存可能であると思っています。1つの政教分離の歴史にこだわる必要はない、という立場です。--2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A 2017年2月27日 (月) 16:07 (UTC)

  提案 例えば、お二人が『古代から中世にかけての政教分離』と『近代の政教分離原則』とを分担して作成することは出来ないのでしょうか。ここで論争を続けるよりは、余程Wikipediaの発展につながると思います。--Susuka会話2017年2月27日 (月) 16:32 (UTC)

ここで展開されているような無意味な循環論争を防ぐためにも一つの記事での二つの観点の共存は無理に望まず、現状の記事をより主題を明確化した『古代から中世にかけての政教分離』というようなものに改名して、別して『近代の政教分離原則』を設けるというような形での決着はよいと思われます。政教分離原則は近代的な寛容精神に基づくものですから、この議論の決着もウィキペディアの方針的に問題なければ検証可能な二つの観点に等しく寛容なものであるといいと個人的には思います。--2001:268:C068:CCA2:5913:8007:BF97:9301 2017年2月28日 (火) 11:59 (UTC)

差し戻し 編集

別して編集合戦を理由として保護依頼された記事に関しては基本的にその編集合戦の始まる前の版が保存されることが適切であるように思われます。また直接的には121.107.209.16さんは分割とその後の差し戻しを問題として編集を行っており、編集合戦の主因はそこにあるものと思われます。しかるに、その後の分割提案についての議論最中に独自研究などの新たな観点を追加し、タグ添付を行いました。しかし分割議論と独自研究の議論を同時に進めることは率直に言って不可能です。まずは切り離して議論をする必要があり、そのため今回についてはそもそもの分割議論の始まりである「2017年1月18日 (水) 12:03‎」に差し戻し、その後の論点についてはまず必要とされる他の議論を片付けた上で行われるべきと思われます。さしあたってウィキペディアの慣例に則り「2017年1月18日 (水) 12:03‎」版に差し戻します。--2001:268:C068:F634:616F:F309:54A6:F018 2017年2月26日 (日) 02:51 (UTC)

何をしているんですか?分割提案も撤回していないし、出典が明記されるべきところを明記されていません。何一つ問題が解決していませんし、議論中だからこそ、議論の告知が必要なのです。それを削除するのは、このノートでの議論を隠蔽しようとすることに他なりません。私だけでなく、Susukaさん、大和屋敷さん、そしてアルトクールさんも助言やコメントをされているではないですか。ウィキペディアは皆で編集するものです。自分の書いたものを他人にいじられたくないならば、他のサイトでやる方が賢明ですよ。それから、学会に所属しているといっていますが、それはもはや何の関係もありません。実名で編集されているならまだしも、お互いに匿名です。学会に所属しているかどうか確認できない以上、いくら学会での「常識」を主張しても、その出典はありますか?という話でしかありません。あなたが本当に日本のヨーロッパ中世史学会の人であるとしたら、その学会での議論レベルはこの程度なのかと思いますよ。ウィキペディアは色んな専門分野を持ったひと、プロアマ含めて色んな人が編集できるシステムです。そのことだけはご理解ください。--121.107.209.16 2017年2月27日 (月) 14:12 (UTC)
121.107.209.16さんは何か高度なことを論じておられると思うのですが、私には少し論理の飛躍があってよく理解できかねます。隠蔽工作したかのような話はどういう証拠や状況に基づいているのかという点についての説明が私にはよくわかりません。隠蔽するような意図でないことは上で慎重に説明したつもりですし、もし私が後ろめたいことがあり、議論の隠蔽を仮に望むならば、アルトクールさんに相談をして議論自体の妥当性や方針的な問題点について伺い、わざわざ議論に注目を集めることは普通しないと思います。私の行動はアルトクールさんにアドバイス頂いた内容を自分で判断してあくまで議論進行の上のことであり、攻撃意図のないこと、通例のウィキペディアの慣行上も適切であろうことを考慮した上での判断であることを表明しております。またアルトクールさんの応答自体に根拠づけをおこなっているわけではなく、個人的な判断により、個人的な責任において行ったことであり、アルトクールさん自身は親身に話を聞いてくださっただけで中立的な立場です。私が「自分の書いたものを他人にいじられたくない」というような話もしきりに出てくるのですが、事実誤認であるということをまず主張するとともに、その点についてはどうしてそう思われるのかという点についての十分な説明がなく、この突飛な主張は悪意によるものとは直接的には思いたくありませんが、やはりどことなく印象操作のように思えてしまいます。もちろん私の主張そのものが分割提案に対して現状の記述自体を保護する意図を持っていることは否めませんが、それは「自分が書いたもの」だからというのは121.107.209.16さんの個人的感想にすぎません。私が歴史学界の話を出したのは私が歴史学界の権威を持ち出したり、個人的な歴史学界での立場などをひけらかしたりしたわけではなく、あくまで代表的な歴史学的著作に基づいて歴史学界での動向を一定の検証可能なものとして提示するためにおこなったのであります。直接的にどちらかの立場に優劣をつけようという意図があったわけではなく、121.107.209.16さんの行われる無作為的な文献の提示に対して、あくまで説明の必要上複数の歴史学文献を示して歴史学界の共通理解というものを素描いたしました。さらにそうした歴史学的政教分離については私の示したものだけでなく、121.107.209.16さん自身がお示しになった文献にも明確に言及しているものがありましたからその存在について検証可能性は満たされていることは議論参加者の共通理解であったはずです。その点について瑕疵があるという121.107.209.16さんの論点は私の知る限り、ウィキペディアの方針文書から導き出すのは困難であるように思われます。分割による記述の移動も、独自研究による記述の削除も基本的には現状の記述を減らす結果となります。121.107.209.16さんは分割を提案したと思ったら独自研究を突然持ち出したりとしていらっしゃいます。そうした今までの議論の推移で強い削除的方向性で意見を主張なさっていることから、あまりこういうことは言いたくなかったのですが、私はむしろ現状の記述の大部分を認めたくない121.107.209.16さんの強い意図を感じざるをえません。121.107.209.16さんの意味での政教分離の歴史は現状の記述を改名移動したあとに別して新規記事を作成するなり、政教分離原則記事の歴史節を利用すればすむ話のようにも思われます。現状の記述に対する検証可能な2次的な文献と、さらにその文献の認知度などについても具体的に検証できる3次的な文献もあるのに、現状の記述自体を直接的に独自研究だとするおおざっぱな主張はいささか乱暴に思え、理解しかねます。--2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6A 2017年2月27日 (月) 15:50 (UTC)
「ノートでの議論があるときは、タグ添付や加筆をしてはならない」というのはウィキペディアの方針文書でありますか?むしろ、独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすることはやってはいけないとされており、あなたの行動がそれに該当します。「現状の記述に対する検証可能な2次的な文献」があるといいますが、山田欣吾『教会から国家へ』は「基本的視野」の出典として明記されていません。他にも五十嵐修『王国・教会・帝国―カール大帝期の王権と国家』、藤崎衛『中世教皇庁の成立と展開』などを提示しましたが、「政教分離の歴史」としては十分に関連性が証明されていません。国家の世俗化神権政治(テオクラシー)記事ならそれらも適切でしょうが、それらをすべてこの記事で一括して説明しようとするのが、Wikipedia:独自研究は載せないでの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に該当する疑いがあるのです。「参考文献」と「関連書籍」は違います。きちんと脚注を用いて、出典を明記してください。独自研究ではないかと疑われたくなければ、出典を明記すればいいだけです。分割提案と独自研究の指摘に対応するのは「不可能」といいますが、他人の指摘を理解しようとしないで、独自研究のまま放置して改善の努力をしないからでしょう。「無作為」とは意味不明ですが、私の提示した文献は「政教分離の歴史」に関連があります。Kanbun版はWikipedia:検証可能性に違反し、Wikipedia:中立的な観点での「意見を事実として記さない」に違反し、Wikipedia:過剰な内容の整理に該当しているのではないかと指摘しているのです。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 15:16 (UTC)
  •   質問 では、話を整理するために2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6Aさんに伺いたいのですが、2001:268:C068:E8C9:10C1:D707:1DC2:ED6Aさんが提示されている文章には、政教分離と古代から中世にかけてのカトリック教会と西欧国家との関係性(叙任権闘争など)とのつながり(この関係性を「政教分離」と表現しているか、など)についてはどのように言及されているのでしょうか。簡単に要約していただくと議論の役に立つのですが。--Susuka会話2017年2月28日 (火) 15:42 (UTC)
  コメント割り込み失礼します。参考に「政教分離」について各種事典での説明は以下の通りです。
  • ブリタニカ国際大百科事典:政治と宗教は分離されるべきであるという考え方。 アメリカ合衆国では憲法上の原則。
  • 知恵蔵:国家と宗教とを分離させる憲法上の原則。国家と宗教とが未分化で明確に区別されていなかったり、両者が密接に結合している場合、個人の信教の自由は認められない。その意味で、政教分離と信教の自由は表裏一体の関係にある。政教分離の思想は欧米で生まれたもので、近代化と共に非キリスト教国にも浸透していった。
  • 百科事典マイペディア:国家権力と宗教を分離すること。信教の自由の必要条件をなす。未開社会,古代・中世社会では政治と宗教が一体となり宗教的権威によって支配が行われた。
  • 世界大百科事典:「国家の非宗教性,宗教的中立性の要請,ないしその制度的現実化」。[歴史]として「ヨーロッパにおいて政教分離は一回的できごとではなく,歴史過程のなかで徐々に進行したが,巨視的に見れば三つの画期を指摘することができる。聖職叙任権闘争,宗教戦争,およびフランス革命である。 中世世界においては,国家と宗教(キリスト教)の区別は未知の事柄であった。」
  • 日本大百科全書(ニッポニカ):「国家と宗教とを分離させる憲法上の原則をいう。中世および近世ヨーロッパにおいては、国家と教会、国権と教権が密接に結合していたため信教の自由が認められず、国教または公認の宗教以外は異端として刑罰を含む迫害を受けた。17、18世紀ごろから宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度がしだいにヨーロッパ社会に広まり、現代国家においては、政教分離は信教の自由の保障のための憲法原則として広く採用されることになった。」

このように、マイペディアでは未開社会,古代・中世社会の「祭政一致」(神権政治)を、世界大百科事典では聖職叙任権闘争,宗教戦争,フランス革命を、日本大百科全書では17世紀以降宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度と説明しており、既存百科事典ではほとんどが近代以降に焦点をあてています。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 15:57 (UTC)

121.107.209.16さんについての返信。Wikipedia:独自研究は載せないでの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」は2つの事実を合成して新たな事実を提示することで、ここに述べられている内容は直接的に文献から確認できるものでありますから、そういうものに当たるとするのはかなり難しいように思われます。少なくともこの記事は現状歴史学的な政教分離論をメインに論じており、それ以外の新しい事実を記載しているものではないと思われます。そしてそもそもそうした情報の合成は文献を確認せずに論じることは不可能なように思われますが、121.107.209.16さんはこれまでの議論でこの記事の文献や私が提示した文献を考証した形跡がなく、はっきり言ってしまえば単純な誤解により議論をこじらせております。だから「国家の世俗化神権政治(テオクラシー)記事ならそれらも適切でしょう」というような率直にこれらの語義を十分に理解していないゆえと思われる突飛な主張が出てきたり、私が「自分の書いたものを他人にいじられたくない」と思っているというような印象操作に当たる主張を繰り返され、ご自身の論点の弱点を無理に取り繕うことをしてらっしゃるように思われます。現状の内容がWikipedia:検証可能性に違反し、Wikipedia:中立的な観点での「意見を事実として記さない」に違反するという点についても、検証可能な文献を挙げてここに展開されている論理の存在は意見としてではなく、事実的に問題はないということを再三再四確認しておりますが、それについても関連する歴史学的な学説の存在やその学説の影響性まで示しても全く受け入れず、ご自身が提示した直接的には政教分離の歴史とは関わらない文献をその影響性や中立性、妥当性も考慮せずに提示し、土俵が違う議論を展開して煙に巻くという行動をとっていますね。それに山田欣吾『教会から国家へ』は現状の記述が独自研究でないという参考文献として提示されたもので、記事に直接的に利用されていないことで逆に本記事の記述の信頼性を保証しているものですが、そうした点についても言を左右にして、次々と方針を持ち出しては議論を拡散するという方法をとっています。はっきり言ってしまえばこのような議論の仕方は議論参加者にも無用の負担を強い、記事の改善も後回しにするもので、まさにWikipedia:腕ずくで解決しようとしないが問題視している行動そのものであるように思われます。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 15:59 (UTC)

Susukaさんへの返信。歴史学文献では説明は一般に数ページ単位で長くなるので、中略を入れると合成と思われかねないゆえ、一言で表現するものを探すと「西ヨーロッパにおいては国家教会というプロセスをとおって政教分離に達し」(森安達也『近代国家とキリスト教』pp.271-272)たという記述や「ヨーロッパでは政治ないし国家の『脱宗教化』、『世俗化』がなされ、宗教と政治の分離という原則が確立されるに至った」(山田欣吾『教会から国家へ』p.1)などがそれに当たると思われます。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:13 (UTC)

2001IP氏は「腕ずくで解決しようとしない」の「いつまでも納得しない」に当たるでしょう。さて、ようやく引用してもらいましたが、それだけで古代や中世からの総覧を行うのはやはり無理です。政教分離は近代の意味での使われ方ですし、到達点としての政教分離という意味です。古代から中世までの記載は、それぞれの記事に移動するなり、「教会と国家」のような記事として新規に作成すべきです。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:22 (UTC)
ということは、古代・中世と近代以降の二つに記事を分割するということで、お二人は合意できるということでしょうか。--Susuka会話2017年2月28日 (火) 16:25 (UTC)
121.107.209.16さんへの返信。文献を読んでいらっしゃらないのに早合点しないでくださいませ。山田欣吾は以上の記述に続けて、p.2~p.15にかけて、その前段階としてのカロリング朝の意義を論じる教会国家論を展開しております。以上の部分はSusukaさんの質問に答えて、政教分離と関連する文献であることを明確にするために提示した部分に過ぎません。
Susukaさんへの返信。私は合意可能と思っております。訂正。「歴史学における政教分離」への改名を提案します。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:31 (UTC)
「改名」だとリダイレクトになってしまうので、反対します。「政教分離の歴史」は記事として残したうえで、「古代・中世」と「近現代」を分割すると、記載がなくなります。分割するとして、なにをこの記事に残すのかを話した方がいいです。また、宗教戦争は宗教改革の歴史として分割する方がやはり適切でしょう。「近世における政教分離」というより、「宗教改革」の方が一般的です。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:42 (UTC)
あるいは、「政教分離の歴史」は記事として残さない場合。「政教分離の歴史」に私が「基本的視野」に加筆した部分、および近現代部分を政教分離原則#歴史に移動するのもいいでしょう。その場合は、「政教分離の歴史」のリダイレクト先は政教分離原則です。そして、「政教分離原則#歴史」において「古代から中世にかけての教会と国家」「宗教改革の歴史」へのリンクをつける、というのはいかがでしょうか。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 16:49 (UTC)
訂正。歴史学的政教分離論ではドイツ国制における政教分離(1803年)に終点をおくので、むしろ「歴史学における政教分離」という記事にしてしまうほうがわかりやすいかもしれません。宗教改革を独立させるという議論は普通に論外。「政教分離の歴史」がどこのリダイレクトかなどというのは正直私はどうでもいいです。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 16:59 (UTC)
1.「古代から中世にかけての教会と国家」に同意できないのはなぜですか。
2.また、「宗教改革を独立させるという議論は普通に論外」というのはこれまた論外ですね。わかりやすさ、一般の読者のことを考えてください。宗教改革が中世と近世のいずれの時期にあるとお考えなのですか。
3.リダイレクトがどうでもいいというのならば、「政教分離の歴史」に私が「基本的視野」に加筆した部分、および近現代部分を政教分離原則#歴史に移動し、「政教分離の歴史」を政教分離原則へのリダイレクトとすることで同意されますね。--121.107.209.16 2017年2月28日 (火) 17:09 (UTC)
  1. 基本的に現状の記述が歴史学的政教分離論であるから分割には反対というのが私の立場ですから、それに反する宗教改革だけの独立は全く論外です。
  2. 同上。読者のアクセシビリティを考えても歴史学的政教分離論が一体として記述されるのが望ましいことはいうまでもありません。
  3. 歴史学的政教分離論の記述が残されるならば、それ以外の歴史学的政教分離論に関わらない部分はどうでもよいですが、そのかわり本記事を基本的にそのままの状態で「歴史学における政教分離」に改名するという点を了承してくだされば同意いたします。そうでなければ歴史学的政教分離論についてのページがなくなりますから、同意は出来ません。--2001:268:C068:CCA2:488C:5F6D:F281:D940 2017年2月28日 (火) 17:19 (UTC)
回答を書いていますが、加筆されましたね。加筆は歓迎しますが、私が出典を明記したものを削除するのはいただけません。しかし、議論も長くなりそうですし、政教分離原則への転記は合意されているので、まずは転記しておきます。ただし、議論の結果次第ではまたこの記事に復旧する可能性もあります。--121.107.209.16 2017年3月1日 (水) 16:36 (UTC)
  コメント 「議論も長くなりそうですから」じゃなくて、きっちり「合意でいいですか?」「いいですよ」のキャッチボールをしてからやってください。編集の強行と変わりありません。--アルトクール会話2017年3月1日 (水) 16:58 (UTC)
  •   近現代の政教分離については政教分離原則に主に加筆されたらどうですかね(アメリカの独立宣言以降、フランス革命以降など、国ごとに政教分離が明確化した時代以降でもかまいません)。政教分離原則#歴史も独自研究の状態なんですけど、重複になってます。これぜんぶ、「政教分離」という視点でまとめるより、17世紀以前の、宗教と政治が深く結びつき合ってた時代のことは宗教改革にまとめたほうがいいと思うんですが。その時代に、政教分離という概念はないですよね? どうも、「政教分離の歴史」と言い切ってるのは全体的に独自研究だなという印象を払拭できませんよね。--ぽてから会話2017年3月1日 (水) 17:06 (UTC)
  • いや、当記事の基本的な問題点は「執筆方針の視座が独自研究になっていること」なんですよ。霊性史(唯物的史観ではなく心のありようのつながりに焦点を当てた史観とでもいうもの、当記事の場合ですと教会にとっての国家論とでもいった視線)を基礎においており、こういう視点での研究は外部の信頼できる場所でおこなう分にはかまわないのですが、wikipediaは研究機関ではなく、あくまで「すでに現存する・信頼できる情報源をもとに執筆された・百科事典」ですので、霊性史史観からの執筆にはそもそも無理があるんです。というより底本がない。霊性史史観で執筆を始めると関係のありそうな事例をぜんぶ集めてくることになりますので、結果として当記事のような状態になっているのだと考えます。そうではなく「信教の自由のための制度的保障」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」(中山勉)を基本軸に、信頼できる3次情報から執筆してきて、2次情報で肉付けしていく方針をとれば視座が定まると思うのです。最初にどのような方向性で執筆してゆくかは、どういう情報源をコレクションしていくかに関わってくるので重要です。当記事と「政教分離>歴史」での役割分担については、あくまで「政教分離>歴史」は概要、こちらが本体という関係であって共通部分があってしかるべきです。--大和屋敷会話2017年3月1日 (水) 17:59 (UTC)
  • 政教分離原則とその制度的実現の歴史と国家機構と宗教組織の分離としての政教分離の歴史は関連がありますが、基本的に後者が長い過程を経てヨーロッパで実現され、前者はその成果にすぎないという点について本論でも明確に示されておりますし、この点については繰り返し3次情報まで示して歴史学界内の共通理解であるという点はすでに示しました。両者を混同している議論がここまで延々と繰り返されているのですが、はっきり言って無意味です。霊性史史観という言葉は寡聞にして聞きませんが、良心の自由・信仰の自由という問題も西ヨーロッパで独自に発展し、歴史学的には国家機構と宗教組織の分離とお互い影響を与え合い、一体とした形で進行したという点についても共通理解が成立しております。その際議論の核心となるキリスト教的な良心のことを一般的な良心とは異なるために特に霊性という神学的な言葉で言い表すのは慣行に過ぎません。霊性という言葉が気に入らないということであれば、それを「キリスト教的な良心」で置き換えて差し支えないものです。中山勉さんの論の引用箇所は直接的に現代の制度的政教分離を問題にしていることが明らかですから、果たして政教分離の歴史全体を見渡すものとして基礎に置くのにふさわしいのか、そもそもこれまでの議論で中山勉さんの文献は提示されてもおらず、突然もってこられてもそれをどう評価して良いのかは判断できかねます。それと政教分離という記事は現在なく政教分離原則へのリダイレクトになっており、あるのは政教分離原則の記事です。国家機構と宗教組織の分離という意味の政教分離と近代国家の一装置としての政教分離原則とその制度は概念として異なるものですから、政教分離原則の歴史節と政教分離の歴史記事が直接的にどちらがどちらを包摂する関係にあるということはないはずです。--2001:268:C068:F624:42D:8F80:D852:D29D 2017年3月2日 (木) 02:15 (UTC)
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