ノート:三田渡の盟約

最新のコメント:6 年前 | トピック:外部リンク修正 | 投稿者:InternetArchiveBot

利用者:豊の防人会話 / 投稿記録による2011年5月27日(金)06:17の初版[1]の大部分が大清皇帝功徳碑2011年5月1日(日)14:30[2]のコピペである。履歴継承もされていない。削除対象と思われる。--218.45.80.54 2011年5月28日 (土) 06:12 (UTC)返信

今度はアカウント変えて同じことをしているが。--hyolee2/H.L.LEE 2011年6月4日 (土) 11:20 (UTC)返信

コピー部分がほとんどないのにコピーと主張するHyolee2氏へ 編集

李氏朝鮮の国家元首が朝鮮国王だったのは下関条約から日本に併合されるまでのごくごく短期間でした。三田渡の盟約は李氏朝鮮の国家元首を約350年にわたって規定する李氏朝鮮の全歴史上、一二を争う重要歴史事項です。この項目がないというのはそもそもありえません。 この記事のコピーがどうのと妙なイメージで語らず、具体的にどこがコピーなのか明示してください。--英霊の魂 2011年6月4日 (土) 11:22 (UTC)返信

コピペ場所 編集

原文以外でコピペされているところはどこですか?--Ks aka 98 2011年6月4日 (土) 11:43 (UTC)返信

「Wikipedia:削除依頼/三田渡の盟約」の転記 編集

今回の削除騒動の原因は、Hyolee2氏ですが、Hyolee2氏はどこがコピペなのかいまだにまったく根拠を示していません。最近興宣大院君がコピペを理由に全削除され、すぐに復活しましたが、これも削除の原因はHyolee2氏でした。興宣大院君に関してもHyolee2氏は削除の根拠を示さず、無用な騒動だけを引き起こしました。Hyolee2氏による「大清皇帝功徳碑#和議の内容からの履歴不継承の転載」はまったく意味不明です。
Hyolee2氏は原文の漢字が読めないのか読まないのか知りませんが、結果としてまったく原文を読んでおらず、不誠実きわまりません。根拠は下記で具体的に示します。
まず和議の内容の原文は、碑文ではありません。Hyolee2氏は原文を読んでいないため、まずこういう基本中の基本を理解していません。和議の原文は「朝鮮王朝実録」仁祖録の1637年1月28日に書かれているものです。これが原点です。Hyolee2氏はそもそも原点を理解していません。
Hyolee2氏に言い逃れされたくないので、原文をあえて掲載します。
三田渡の盟約#概要
寬溫仁聖皇帝, 詔諭朝鮮國王。 來奏, 具述二十日之詔旨, 憂計宗社、生靈, 有明降詔旨, 開安心歸命之請者, 疑朕食言耶? 然朕素推誠, 不特前言必踐, 倂與以後日之維新。 今盡釋前罪, 詳定規例, 以爲君臣世守之信義也。 爾若悔過自新, 不忘恩德, 委身歸命, 以爲子孫長久之計, 則將明朝所與之誥命、冊印獻納, 絶其交好, 去其年號, 一應文移, 奉我正朔。 爾以長子及再一子爲質, 諸大臣有子者以子, 無子者以弟爲質。 萬一爾有不虞, 朕立質子嗣位。 朕若征明朝, 降詔、遣使, 調爾步ㆍ騎、舟師, 或數萬、或刻期會處, 不得有悞。 朕今回兵, 攻取椵島, 爾可發船五十隻, 水兵、槍砲、弓箭, 俱宜自備。 大兵將回, 宜獻犒軍之禮。 其聖節、正朝、冬至、中宮千秋、太子千秋及有慶弔等事, 俱須獻禮, 命大臣及內官, 奉表以來。 其所進表、箋程式及朕降詔勑, 或有事, 遣使傳諭, 爾與使臣相見, 或爾陪臣謁見及迎送、饋使之禮, 毋違明朝舊例。 軍中俘係, 自過鴨綠江後, 若有逃回, 執送本主。 若欲贖還, 聽從本主之便。 蓋我兵死戰、俘獲之人, 爾後毋得以不忍縛送爲辭也。 與內外諸臣, 締結婚媾, 以固和好。 新舊城垣, 不許繕築。 爾國所有兀良哈人, 俱當刷還。 日本貿易, 聽爾如舊。 但當導其使者赴朝, 朕亦將遣使至彼也。 其東邊兀良哈避居於彼者, 不得復與貿易, 若見之, 便當執送。 爾以旣死之身, 朕復生之。 全爾垂亡之宗社, 完爾已失之妻孥, 爾當念國家之再造, 異日字子孫孫, 毋違信義, 邦家永奠矣。 朕因爾國狡詐反覆, 故玆敎示。 崇德二年正月二十八日。 歲幣以黃金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、茶千包、水㺚皮四百張、靑皮三百張、胡椒十斗、好腰刀二十六把、蘇木二百斤、好大紙一千卷、順刀十把、好小紙一千五百卷、五爪龍席四領、各樣花席四十領、白苧布二百匹、各色綿紬二千匹、各色細麻布四百匹、各色細布一萬匹、布一千四百匹、米一萬包爲定式。

Hyolee2氏が根拠不明にコピペ元と主張しているもの。
大清皇帝功徳碑#和議の内容

  • 朝鮮は清国に対し、臣としての礼を尽くすこと。
  • 朝鮮は明の元号を廃し、明との交易を禁じ、明から送られた誥命と明から与えられた朝鮮王の印璽を清国へ引き渡すこと。
  • 王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること。 
  • 清国が明を征服する時には、求められた期日までに、遅滞なく援軍を派遣すること。 
  • 内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること。
  • 城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること。
     
  • 清国皇帝の誕生日である聖節・正朔である正月一日・冬至と慶弔の使者は、明との旧例に従って送ること。
     
  • 清国が鴨緑江の河口にある島を攻撃する時に、兵船五十隻を送ること。
     
  • 清国からの逃亡者を隠してはいけない。 
  • 日本との交流を許すこと。
  • 清国に対して黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること。

Hyolee2氏が根拠不明にコピペ先と主張しているもの。
三田渡の盟約#概説

  • 朝鮮は清に臣下の礼をつくすこと。
  • 朝鮮は明からの誥命(朝鮮国王冊封の文書)と冊印(朝鮮の国璽)を清に献納すること。
  • 明と絶交し明の年号は使わないこと。
  • 王の長男と次男、および大臣の子、大臣に子がない場合はその弟を人質として清に送ること。また何か不慮なことが起これば、人質の王子を*朝鮮王に擁立するので覚悟しておくこと。 
  • 清が明を征服する時は、命令を下し、使いを送るので、場合によっては数万規模の歩兵・騎兵・船員を求められた期日までに、遅れることなく派遣すること。
  • また清が椵島(鴨緑江の河口にある島)を攻め取るため、船50隻・水兵・槍砲等を準備しておくこと。
  • 聖節(清の皇帝の誕生日)や正月等、慶弔時は慣例に従い、大臣や内官が献礼にくること。
  • 清軍の脱走兵が鴨緑江をわたり、朝鮮に逃れた場合、送還すること。 
  • 内外の諸臣と婚姻を結び、友好を固くすること。
  • 新旧の城郭は清の事前の許可なく修理・増築を行わないこと。
  • 日本と貿易を行うこと。
  • 毎年黄金100両・白銀1000両のほか、水牛角弓面200副・豹皮100丁張、鹿皮100張等、20種目の物品を献納すること。

和議の原文は、日本人であれば高卒レベルの漢字力と漢文力があれば、漢字辞書に頼らなくてもだいたい読み下せます。上記の内容を見比べれば一発でわかります。
Hyolee2氏がコピペ元と主張しているものはアバウトな意訳です。しかしHyolee2氏がコピペ先と主張しているものは、原文をかなり忠実に読み下したものです。出てくる項目の順番も原文に忠実です。ディテールもかなり忠実に反映しています。Hyolee2氏がコピペ元といってるものは出典先も明示していないアバウトな訳です。Hyolee2氏が必死に削除しようとしている三田渡の盟約のほうが明らかにレベルが高い翻訳であることは一目瞭然です。日本人であれば。しかも出典も明確にしています。
最後にそもそも論です。私は三田渡の盟約は李氏朝鮮の歴史の中で3番目に重要な事項だと思います。事実上議論の余地はありません。一番重要なのは李成桂による李氏朝鮮建国(1393年)で二番目に重要なのは日本の韓国併合に伴う李氏朝鮮滅亡(1910年)で三番目に重要なのが三田渡の盟約(1637年)です。四番目が下関条約(1895年)でしょう。
明を建国した朱元璋と李氏朝鮮を建国した李成桂は、7歳違いで、ほぼ同時代を生きました。これは偶然ではありません。高麗はその末期に元の衰退と明の隆盛に呼応するかたちで、親元派と親明派に分かれ、親明派だった李成桂が下克上の末、新たに建国した国が李氏朝鮮でした。李氏朝鮮は建国と同時に明の属国でした。李氏朝鮮と清の滅亡もほぼ同時でした。李氏朝鮮の滅亡は1910年で清の滅亡は1912年です。これも日本は西欧列強の動きが背後にあり、偶然ではありません。李氏朝鮮は明とほぼ同時に誕生し、清とほぼ同時に滅亡したわけです。明と清は共に李氏朝鮮の宗主国でした。建国のいきさつを考えれば、明が滅亡したさい、李氏朝鮮は滅亡してもおかしくなかったし、実際問題滅亡しかけました。丙子胡乱のことです。しかし三田渡の盟約でかろうじて李氏朝鮮は滅亡を免れ、属国とはいえ、国の存続に成功しました。三田渡の盟約までの245年間は明の属国で、三田渡の盟約以降下関条約(1895年)まで259年間は清の属国でした。偶然ではありますが、ほぼ折り返し地点でもありました。
三田渡の盟約は朝鮮半島の歴史上、決定的に重要な項目であり、今回の削除騒動はほとんどインネンのようなものです。上記にてその根拠を示したつもりです。こういう筋の悪すぎる理由で削除されるべきではないと強く思います。--113.39.3.146 2011年6月7日 (火) 12:15 (UTC)

ここまで転記。以上。--113.39.3.146 2011年7月12日 (火) 14:17 (UTC)返信

削除依頼時の議論内容 編集

以下を参照のこと。--113.39.3.146 2011年7月12日 (火) 14:17 (UTC)返信
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%B8%A1%E3%81%AE%E7%9B%9F%E7%B4%84&curid=2368630&diff=38076381&oldid=37993322

外部リンク修正 編集

編集者の皆さんこんにちは、

三田渡の盟約」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年9月23日 (土) 15:56 (UTC)返信

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