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三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)は、清と李氏朝鮮との間で行われた丙子の乱の終戦講和条約である。1637年1月30日李氏朝鮮の首都漢城の郊外三田渡[1]で締結された。この記念に大清皇帝功徳碑が建てられた。

三田渡の盟約
(三田渡の屈辱)
(丁丑下城)
各種表記
ハングル 삼전도의 굴욕
정축하성
漢字 三田渡의 屈辱
丁丑下城
発音ジョンドエ クルョ
チョンチュッカソン
日本語読み: さんでんとのくつじょく
ていちゅうげじょう
2000年式

MR式
Samjeondoui gulyok
Jeonchuk haseong
Samchŏntoui kukyok
Chŏnch'uk hasŏng
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の皇帝ホンタイジ三跪九叩頭の礼をとる朝鮮王仁祖(銅版)
ソウル特別市松坡区蚕室洞にある三田渡碑(大清皇帝功德碑、韓国では恥辱碑ともいわれる)

李氏朝鮮は、初代国王である李成桂1393年の初代皇帝朱元璋から権知朝鮮国事[2]に封ぜられて以降、一貫しての属国であり続けたが、三田渡の盟約をもって、明の属国からの属国へとかわった。李氏朝鮮は正式に清の属国となり、毎年上納される物品の量はその後減らされたものの、三田渡の盟約の大枠は日清戦争後の下関条約1895年4月17日)まで守られ続けた。

目次

概説編集

  • 主な内容
    • 朝鮮は清に臣下の礼をつくすこと。
    • 朝鮮は明からの誥命(朝鮮王冊封の文書)と冊印[3]を清に献納すること。
    • 明と絶交し明の年号は使わないこと。
    • 王の長男と次男、および大臣の子、大臣に子がない場合はその弟を人質として清に送ること。また何か不慮なことが起これば、人質の王子を朝鮮王に擁立するので覚悟しておくこと。 
    • 清が明を征服する時は、命令を下し、使いを送るので、場合によっては数万規模の歩兵・騎兵・船員を求められた期日までに、遅れることなく派遣すること。
    • また清が椵島[4]を攻め取るため、船50隻・水兵・槍砲等を準備しておくこと。
    • 聖節(清の皇帝の誕生日)や正月等、慶弔時は慣例に従い、大臣や内官が献礼にくること。
    • 清軍の脱走兵が鴨緑江をわたり、朝鮮に逃れた場合、送還すること。 
    • 内外の諸臣と婚姻を結び、友好を固くすること。
    • 新旧の城郭は清の事前の許可なく修理・増築を行わないこと。
    • これまで通り日本との貿易を許すこと。
    • 毎年黄金100両・白銀1000両のほか、水牛角弓面200副・豹皮100張、鹿皮100張等、20種目の物品を献納すること。
  • 1637年1月28日にホンタイジが仁祖に送った詔勅(原文)
寬溫仁聖皇帝, 詔諭朝鮮國王。 來奏, 具述二十日之詔旨, 憂計宗社、生靈, 有明降詔旨, 開安心歸命之請者, 疑朕食言耶? 然朕素推誠, 不特前言必踐, 倂與以後日之維新。 今盡釋前罪, 詳定規例, 以爲君臣世守之信義也。 爾若悔過自新, 不忘恩德, 委身歸命, 以爲子孫長久之計, 則將明朝所與之誥命、冊印獻納, 絶其交好, 去其年號, 一應文移, 奉我正朔。 爾以長子及再一子爲質, 諸大臣有子者以子, 無子者以弟爲質。 萬一爾有不虞, 朕立質子嗣位。 朕若征明朝, 降詔、遣使, 調爾步ㆍ騎、舟師, 或數萬、或刻期會處, 不得有悞。 朕今回兵, 攻取椵島, 爾可發船五十隻, 水兵、槍砲、弓箭, 俱宜自備。 大兵將回, 宜獻犒軍之禮。 其聖節、正朝、冬至、中宮千秋、太子千秋及有慶弔等事, 俱須獻禮, 命大臣及內官, 奉表以來。 其所進表、箋程式及朕降詔勑, 或有事, 遣使傳諭, 爾與使臣相見, 或爾陪臣謁見及迎送、饋使之禮, 毋違明朝舊例。 軍中俘係, 自過鴨綠江後, 若有逃回, 執送本主。 若欲贖還, 聽從本主之便。 蓋我兵死戰、俘獲之人, 爾後毋得以不忍縛送爲辭也。 與內外諸臣, 締結婚媾, 以固和好。 新舊城垣, 不許繕築。 爾國所有兀良哈人, 俱當刷還。 日本貿易, 聽爾如舊。 但當導其使者赴朝, 朕亦將遣使至彼也。 其東邊兀良哈避居於彼者, 不得復與貿易, 若見之, 便當執送。 爾以旣死之身, 朕復生之。 全爾垂亡之宗社, 完爾已失之妻孥, 爾當念國家之再造, 異日子子孫孫, 毋違信義, 邦家永奠矣。 朕因爾國狡詐反覆, 故玆敎示。 崇德二年正月二十八日。 歲幣以黃金一百兩、白銀一千兩、水牛角弓面二百副、豹皮一百張、鹿皮一百張、茶千包、水㺚皮四百張、靑黍皮三百張、胡椒十斗、好腰刀二十六把、蘇木二百斤、好大紙一千卷、順刀十把、好小紙一千五百卷、五爪龍席四領、各樣花席四十領、白苧布二百匹、各色綿紬二千匹、各色細麻布四百匹、各色細布一萬匹、布一千四百匹、米一萬包爲定式。

関連年表編集

  • 1619年 - 第15代朝鮮王光海君は、後金(のちの)が争ったサルフの戦いにおいて、明に1万人の援軍を派遣したが、李氏朝鮮の将軍姜弘立後金ヌルハチに降伏。姜弘立は、「李氏朝鮮は後金に対して戦う意志は無く、明の強制的な要請によって援軍を送ったのだ」と弁明。
  • 1623年 - 李氏朝鮮で西人派がクーデター。それまで明と後金の両者に対し中立的な外交政策をとっていた光海君が廃位され、仁祖が即位(仁祖反正)。西人派は後金との交易を停止するなど反後金親明的な政策を行う。
  • 1624年 - 李氏朝鮮で西人派が内部抗争。論功行賞に不満をもった李适(りかつ)が反乱を起こす。李适は前年のクーデターの首謀者の1人。反乱はすぐに鎮圧されたが、反逆者の一部は後金に逃げこみ、後金に李氏朝鮮を攻撃するよう進言する。
  • 1626年 - 後金のヌルハチ死去。
  • 1627年 - 丁卯胡乱が起こる。ヌルハチの後を継いだホンタイジが、3万人の軍勢で李氏朝鮮を攻撃。首都漢城は陥落、仁祖は江華島に逃げた。こうした状況下、後金のほうが李氏朝鮮に和平交渉を提言、李氏朝鮮もすぐに和議を受け入れた。このとき江華島で合意された内容は以下のとおり。
    • 後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約であること。
    • 李氏朝鮮は明の年号「天啓」を使わないこと。
    • 李氏朝鮮は李氏朝鮮の王子の代わりに、王族の李玖(いぐ)を人質として差し出すこと。
    • 後金と李氏朝鮮は、今後互いの領土を侵害しないこと。
  • 1636年 - 満州族・モンゴル族・漢族の推戴を受けるかたちで、ホンタイジが皇帝に即位。国号を後金から清に改める。明への配慮で李氏朝鮮はホンタイジの皇帝即位を認めず。
    • 12月 -丙子の乱が起こる。ホンタイジは10万の兵を率いて親征し李氏朝鮮を征討。 仁祖が清軍の存在に気がついたのは安州まで占領された12月13日のことだった。もはや江華島に逃げこむ算段はかなわず、仁祖は1万3000人の将兵を引き連れ、南漢山城に籠城。食料は50日分しかなかった。
  • 1637年
    • 1月1日 - 清軍は軍勢を20万人にまで増強し、仁祖が籠城する南漢山城を包囲。
    • 1月18日 - 李氏朝鮮は清の陣営に降伏の文書を送るが、清皇帝は受け取りを拒絶。(大淸國寬溫仁聖皇帝陛下と書くべき上書の陛下を省いた為)
    • 1月21日 - 李氏朝鮮は再び降伏の文書を送るが、清皇帝は受け取りを拒絶。(仁祖が首都への帰還を拒んだ為)
    • 1月23日 - 李氏朝鮮は再び降伏の文書を送るが、清皇帝は受け取りを拒絶。文書をやりとりしている期間も清による南漢山城への砲撃はやまず、城内は厭戦気分が漂う。1月19日の仁祖録には「虜放大砲於城中, 砲丸大如鵝卵, 或有中死者, 人皆駭懼」24日のそれには「砲丸飛落行宮, 人皆辟易」と25日のそれには「砲聲終日不止」と記述されている。
    • 1月27日 - 李氏朝鮮は王が城を出て自身が直接清皇帝に赦しを乞う旨の文書を清の陣営に送る。
    • 1月28日 - 清が具体的な降伏条件を李氏朝鮮に指示。王の長子や諸大臣の子を人質に捕る、黄金を一百両、白銀を一千両納める等。
    • 1月29日 - 崔鳴吉と李英達が降伏条件を受け容れる旨の書状を清皇帝へ進上。
    • 1月30日 - 仁祖は南漢山城より三田渡に在す清皇帝の元へ罷り出て三跪九叩頭の礼をとる。

脚注編集

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  1. ^ ソウル特別市松坡区蚕室洞。
  2. ^ 朝鮮国代官。
  3. ^ 朝鮮の国璽。
  4. ^ 鴨緑江の河口にある島。

関連項目編集

外部リンク編集

写真
碑文