ノート:下北弁
- 記事本文中の"2.下北弁形成の歴史的背景" の最下段「以上より、下北弁は海上伝播の影響が強く、陸上伝播の影響は弱いものであったといえる。」をこちらにcut&paste
- 陸上伝播の影響が弱いなら、三八上北地方の人と会話が出来ないほどの孤立言語となるはず。また、海上伝播が強いなら、津軽弁や関西弁などと同化したはず。トピックを並べて、あたかも全体の特徴の根拠とするのはPOV。海上伝播の影響が「プールに目薬」というレベルよりも大きかったのは確かだと思いますが、この結論は乱暴です。「このウェブサイト」と記載内容が似ていますが、このウェブサイトは個人の意見のようです(HPに但し書きあり)。もね~るmoner 2006年12月8日 (金) 19:21 (UTC)
本文の一部転記
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話される地域
下北弁と南部弁との境界に関しては、南部弁と津軽弁のような明瞭な境界は無い。下北半島の付け根にある野辺地町市街、東通村と接する六ヶ所村の北部は、下北弁と南部弁の混じる地域とみなしてよい。したがって下北弁の話される地域は、野辺地町北部ならびに六ヶ所村北部より北の下北半島地域となる。
下北弁は北海道道南の方言に影響を与えたため、渡島半島の東部地域では下北弁にかなり似た方言をきくことができる。
下北弁形成の歴史的背景
藩政時代、下北半島は南部藩(盛岡藩)に属していた。当時は、青森ヒバや海産物の積み出しで賑わい、南部藩の重要な湊が開かれていた(下北七湊)。これらの産物は北前船によって上方に運ばれ、上方からは珍しい品々がもたらされた。また、物とともに京都祇園祭の流れをくむ祭り(田名部まつり、川内八幡宮例大祭、箭根森八幡宮例大祭など)、歌舞伎(福浦歌舞伎)などの文化がもたらされた。その陰には、上方や北陸地方の商人・船乗り・漁民の往来や移住があった。
また当時、南部藩と津軽藩は激しい対立関係にあったにもかかわらず、下北の人は海を介して津軽の人々と交流していた。これは、下北地方(代表として大湊ネブタがある)で古くからネブタが行われてきたことからもうかがえる。交流は上方や津軽のみならず、北海道の松前藩との間でも盛んであった。
近年においては、本州最北端である下北半島は海に囲まれた「陸の孤島」「最果て」と言われるが、下北の人にとって海は物理的に他の地域とを隔てるものではなく、有効に利用できるものであった。陸上交通が発達した昭和に入ってからも、漁民は漁船を使って北海道(主に渡島半島)や津軽方面へ出かけるといったことがあった。
このようにして、下北の言葉は海を介して入ってきた言葉の影響をかなり強く受けて形成されていったのである。
藩政時代、南部藩領の代官所が田名部(たなぶ)に置かれ、南部藩の重要な街道の一つである田名部街道(国道279号)および北浜(きたはま)街道(国道338号)が下北半島に延びていた。加えて、南部藩直轄の牧野である南部九牧(なんぶくまき)の内3つ(大間の牧、奥戸の牧、蟻渡の牧)が下北半島内に置かれ、馬の繁殖、育種に力が注がれていた。さらに、東通村目名には盛岡の七軒丁(しちけんちょう)が神楽を伝え、現在では南部色の薄い下北地方にあって、南部藩領であった面影をとどめている。
江戸後期になると、南部藩は北方警備のために多くの藩士を藩領沿岸部に駐屯させた。下北半島沿岸部にも数百人の南部藩士が領内各地からやってきた。当然それらの人々がもたらした言葉の影響は若干あったと考えられる。しかし、それも大きな影響を及ぼすほどのものではなかった。
戊辰戦争後、会津藩の斗南藩(となみはん)移封に伴い、約1万5千人以上の会津の人々が下北にやってきた。これらの人々の多くは、敗北による精神的疲労、長距離移動による疲労、飢えと寒さ、新天地ので過酷な労働によって下北半島の気候風土になじめず、亡くなったり、数年で斗南の地(むつ市斗南ヶ丘)を離れた。しかしながら、これほど多くの人々がやってきたにもかかわらず、下北弁には会津方言の影響がほとんどみられない。
下北弁形成に及ぼした地理的条件
- 下北半島は青森県北東部に位置し、「まさかり半島」という別名の通り、「鉞(まさかり)」の形をした半島である。
- 野辺地町からむつ市田名部までの「まさかりの柄」に相当する部分は、南北約50km、東西約15kmと細長い形である。陸奥湾側には田名部街道(国道279号)が、太平洋側には北浜街道(国道338号)が走り、鉄道では大湊線が野辺地-大湊間を結んでいる。
- このような「まさかりの柄」部分の南北の長さ、半島方面へのルートの少なさが下北への南部弁の陸上伝播を抑制し、下北弁の南部弁との乖離を促したものと考えられる。
- 「まさかりの刃」に相当する部分は、むつ市を中心に、津軽海峡に面した「北通り」、陸奥湾に面した「西通り」、太平洋に面した「東通り」の3つの地域に分けられる。また、半島中央部には恐山山地があるため、陸上での往来が容易でなかったことが、地域ごとに異なった下北弁が生まれる原因となったのではないかと考えられる。
下北弁は南部弁か?
方言学上の分類によれば、下北の方言は旧南部藩(岩手県中北部、青森県東部、秋田県鹿角地方)の方言を南部方言とした場合には南部方言に含まれる。しかし、青森県の方言として考えた場合は下北方言は独立して扱われる方言である。旧南部藩の方言は分化が著しく、一つの方言とみなすには無理がある。下北の方言もしかりである。さきにも述べたように、下北のことばは南部弁と津軽弁の中間にあたるだけでなく、上方や北陸のことばの影響も受けて発達した方言である。「南部方言であるが、南部方言ではない方言」それが下北方言である。
一方、帰属意識による分類によれば青森県の方言は津軽弁と南部弁に2分されるという。また、これは広く認識されているという見方もある。とはいうものの、それは大多数が住む津軽地方や南部地方の人々からみた認識であり、下北地方の人々からみた認識ではない。下北弁話者からすると南部弁への帰属意識は希薄である。マイノリティである下北地方の人々の認識を無視した分類を持ってして帰属意識による分類とすることはできない。したがって、帰属意識の面からの分類においても青森県の方言は少なくとも3分以上されるといえる。
歴史的背景、地理的条件の節の内容は出典などありますでしょうか。これは下北半島の歴史を述べたものであっても、方言の形成にどう影響したかまで分かっているのでしょうか。江戸時代以前のこの土地の方言の記録はほとんどないのではないかと思いますが、それならば上のような説明は推測でしかないということになります。--Henlly2010年4月29日 (木) 06:04 (UTC) 一部マークアップ修正。--Henlly(会話) 2017年9月12日 (火) 05:13 (UTC)