ノート:京阪神緩行線/過去ログ1

最新のコメント:13 年前 | トピック:呼び方について | 投稿者:永尾信幸
過去ログ1 過去ログ2

駅一覧について

この路線の場合、単なる「駅一覧」では意味をなさないかと。というのは、もともと、東海道本線山陽本線の一部であり、すでに作成された琵琶湖線JR京都線JR神戸線をつなぎ合わせただけであると感じたからです。接続路線等は本来個々の駅項目で触れられていますし、仮に駅一覧を作成するのであれば例えば快速線、外側線との接続などの特色を出す必要があるかと。以前東海道・山陽新幹線でも単純な駅一覧の結合を行なって議論となりました。「運行形態での通称」であれば単なる一覧とせず、もう少し検討の余地があるかと思いますね。Sat.K 2006年2月16日 (木) 02:35 (UTC)

仮称105系について

具体的な内容について記した文献を教えて頂きたいと思います。特にその話が出た時期ですね。

私が知っている大鉄が求めた高速運転用の普通車仕様は4扉縦座席(ロングシート)、250%乗車時で100キロまでの平均加速度1.3km/h/s、均衡速度103キロ、歯車比4.82程度というもの(電車1960年2月号「大阪付近電車輸送の将来」大鉄運転部列車課長木村博氏)ですが、この性能の車両というのは当時は不可能に近いと考えられます。特にこの車両を求めた理由の1つがラッシュ時の快速電車の運転間隔を15分間隔から12分間隔にするにあたり、普通電車も7.5分間隔から6分間隔にする必要が生じ、待避駅から待避駅まで逃げ切るために必要との事でした。当時は快速がモハ80形でしたが、1964年9月から113系が入るに至り、更に高性能な車両でなければ要求を満たせないと考えられます。(空車ならまだしも250%乗車時ですので)

ただ、この形式についてはピクトリアル1964年4月号で久保田氏が大阪緩行用の高加減速車の要求について、快速の増結で対処できる問題であり研究課題として残すとは言うモノの、具体的な改善案が即決で出る当たり、本社では積極的に投入する意思はなかったと考えられます。(1960年当時、増発したいと言ってる快速電車は6両編成であり、これを8両にするだけで15分→12分ヘッドにする以上の輸送力増強が可能であったので)

また、大鉄がこれらの車両を要求した理由が快速電車の運転間隔短縮で、複々線区間の外側線を使えなかった事に起因する事も関連するかと思いますが、外側線については1966年10月に、芦屋と高槻の構内配線改良により列車線から進入が可能になった事から、この改正から列車線に快速が走り始めている。つまり、大鉄が内側線だけで快速・普通を走らせるには普通電車の性能が著しく劣っているので101系全電動車以上の高加減速性能を持った新形電車を要求したのであり、外側線を使えるようになり快速増発をしつつ内側線の普通も増発できる環境が整ったのであれば、特にこのような高価な高性能電車を作る必要は無かったと考えられます。

その後、ラッシュ時の快速はほとんどが外側線に移り、内側線は普通電車が1時間に16本近く走れるようになった事を考えると、1960年代に大鉄が求めていた高性能電車については、外側線に快速が移り始めた頃には要求する必要性は無かったと考えられます。

次に大鉄が求めたと考えられるのは1972年3月改正以後の新快速の15分ヘッド化でしょうか?旧形国電は時速95キロ以上出せませんから、時速100キロまで出せる103系によって日中の普通電車が統一され、その結果特急以上の速度で走る新快速から逃げ切れるダイヤを構築できました。

しかし、103系はもともとそんな高い表定速度で運転する事は想定されていないのは皆さんご存じの通りですので、最初の頃は高速でブレーキを掛けた際にトラブルが発生したりしていたようですが(これは改善され、その段階で明石区では高速運転に耐える車両になったと記事を出している)本来であれば、もう少し高速よりの設定の車両が欲しかったのは事実でしょう。

あと、多くの方が誤解されてるのではと思うのは、この改正で日中103系化したから新快速の15分ヘッド化が可能であったと言う点です。旧形であれば運転できなかったために日中103系化したという事ですが、103系は遅い遅いと言われながらも、低速での加速が良いので、同じ時間を走るのであれば相当遠距離まで103系の方が先行します。(103系6M4T冷房車限流値370A設定と、113系8M7T冷房車限流値350A設定がよーいどんでスタートしておおおよそ100秒後に103系は1700mほど進みますが113系は1500mほどしか進んでいない・・・旧形と比較したらもっと距離は開く)当時の主電動機は低速も高速も引張力を高めれるようなのはありませんから、高速の引張力を高めると低速の引張力が下がります。高速タイプの形式を入れても低速が遅いと駅間の運転時分はそう思ったほど短縮できないと考えられます。

ただし、新快速の15分ヘッド化により103系が限界運転を開始した事により、1960年代の欲求とは別の高速通勤形の要求が出たと私は考えるのですが、この件については明確な文献が今のところ見あたりません。この段階で大鉄が求めたと思われる形式はどの程度の性能だったのでしょうか?

これらを明確にできない以上、今、本文に書かれている105系の記述は少し不適な点があると考えます。--永尾信幸 2007年8月19日 (日) 13:31 (UTC)

本稿での仮称105系に係る記述については、『大阪の電車』P36の記述をもとにしています。要約すると、当時の国鉄本社や車両設計事務所において京阪神緩行線などの高速通勤線区向けに高速仕様の4扉通勤車を開発中であったことと、103系の投入は万博輸送の間に合わせだった、ということなどが書いてあります。少し簡潔な内容だったので、『鉄道ファン』2005年5月号の特集記事を傍証にして記述しました。ただし、資料の内容から話を膨らませることはできませんので、ややあいまいな記述になりましたが、仮称105系についてはあのような形でまとめております。

もう一点、永尾さんご指摘の105系の具体的な投入時期はいつなのか?という点ですが、資料を整理して検討しますと、まず1960年代中期に高速通勤線区向けの4扉通勤電車の設計案が出る→それを待っていたら増大する通勤需要に対応できないのでとりあえず103系を投入(京阪神緩行線の場合は万博輸送への対応もある)→1970年代前半に、103系では現場サイドで改良を施しても抜本的な改良にならないため(『鉄道ピクトリアル』1995年3月号の曽根悟氏の記事にもそのあたりの問題点が紹介されています)、高速仕様の通勤車の投入を希望する、ということがいえるのではないかと思います。具体的な投入時期を特定するのは困難な面がありますが、1960年代後半から1970年代前半にかけてトーンの強弱はあるにせよ高速通勤線区向けの4扉通勤電車の新製要望はあった、と考えられるかと思います。--彩雲館主人 2007年10月3日 (水) 14:53 (UTC)

上記でも書きましたが、大鉄局電車課の方が交友社の電車1960年2月号にて「4扉ロングシート車」を要求しているという点を考えると、クロスシートを求める動きは既に1960年代には無かったと言う事が言えます。更に、上記でも書きましたが、この新形通勤電車の要求は、近距離快速(京都-神戸)を増発したいがためであり、そのことは鉄道ピクトリアル1964年4月号にて元大鉄電車課長の寺島氏が「大阪国電の現状とその将来について」の中で下記のように述べています。
  • 新車導入希望
    • 39年度は上記の外、現在快速電車に使用している80形を一部113系に置換える計画があるが、現在相当年数を経過している緩行電車についても、早い機会に新陳代謝を希望している
    • 即ち、京阪神の本線区間は駅間が平均3kmもあり、また同一線路(内側線)上を快速と緩行とが併走しているので、103系のような高加速高減速の、いわゆる通勤型では不十分で、中間の高速性能をも適当に加味した新型を望んでいる。将来沿線の開発に伴い東京周辺のように駅間距離が短縮され、また現在工事中の線路増設が完成して、線路の使用方法が再検討される等客観情勢が変われば、在来型が適合することもあり得よう。
とあります。
それに関連する意見として、同号に仙鉄運転部長・元本社工作局の久保田博氏が「国鉄通勤形電車の最近の動き」にて下記のように記している。
  • その他の話題として、京阪神緩行線用として、快速電車との時分差を努めて短縮して快速電車を増発するため、当初計画の101系の如き高加減速・高速の新形電車の要請がある。考え方としては間違ってないのであろうが、大出力化は当初計画の101系の如く経済性の点で問題があること、京阪神の場合、なお編成増大の可能性が残されていること等の理由で、今後の研究課題として残されている。
とあり、誌面上という事もあり、体よくやんわりと否定してる意見が書かれています。
この久保田氏の記述は、電車1960年2月号で大鉄電車課の木村氏が書かれた要求内容と一致しますので、電車誌での木村氏の主張が当時一般的であった事を物語っています。
また、寺島氏についても駅新設など駅間距離の点をもう一つの条件としてあげつつも「快速電車との競合が避けれるなら在来型(当時は103系しかありません)が適合することもあり得る」と書いています。
これは、上記で私が書いたように大鉄としては内側線だけで快速と緩行を運転させられているため、快速を増発するには緩行の性能アップがどうしても必要であり、その結果として新形通勤電車の要求があったと結論付けれます。
で、大鉄の要求はとにかく増発したいが出来な為に起こった事ですから、外側線を使えるように駅改良を行った1966年10月改正以後は、そのトーンも当然下がってきて当然であったと考えられます。
正直なところ、上記で木村氏が書いてあった状況というのは、1970年代後半にはすでに解消し、ラッシュ時の快速電車はすべて外側線を走行し、内側線は立花駅で平日朝8時台に16本の緩行電車を走らせるまでに増発することができていました。
ちなみに彩雲館主人さんが参考にされたという「大阪の国電」の記事は野村薫氏が書かれていて、肩書きが併記されていないことから国鉄とは無関係の方(趣味者?)の執筆のようで非常に曖昧な言葉で綴られています。
  • 高速仕様の4扉通勤車「105系」を開発中だったと聞く
  • EXPOに対するほんの間に合わせのつもりだったらしい
など、憶測で記事を書いている事が伺えます。
木村氏や寺島氏、久保田氏などが具体的に記述しているのに対して「○○らしい」ではウィキペディア説明するには根拠不足と言えるのではないかと私は思います。
どちらかというと、趣味者が関西国電を語っているような記事に見え、関西国電は「速さ」などが引き合いに出される事が多く、それにクロスシートという点と相まって美点として関西国電趣味者にとっては自慢できる部分だったと思います。
ですので、勢いそういう話題になると力が入るし、そうではない103系などの形式に対しては「拒絶反応」を示す書き方になる傾向があるように思えます。伝記などではおもしろくてそういう記述は好きなのですが、ウィキペディアでそういう「高速指向」などの偏った意見のみを上げるのはどうかと思います。
曽根氏の記述に至っては、もともと103系を山手線用等という誤った認識で世間に広めた人ですので、103系使用方法については山手線や大阪環状線以外の線区では「不適合」と思っていたようで、そのような記述は非常に多い。かなり偏見のある文章と言えますので、そのまま鵜呑みで参考するのはバイアスがかかりすぎていると考えます。
ちなみに、福原俊一氏、前納浩一氏、私にて車両史へんさん会というところから「103系・301系通勤形電車」という本を発刊していますが、その際の編集のコンセプトの1つが103系の誤った概念(103系が山手線用であったこと)を払拭する事という事でした。
その後、福原さんは鉄道ピクトリアル2003年12月増刊号にて久保田博氏へのインタビュー形式という構成で「1960年代前半の国鉄車両計画」という記事を発表していますが、そこで久保田氏は明確に103系が山手線用では無く汎用通勤電車であった事を記しています。
それに対して曽根氏は鉄道ピクトリアル2005年8月号にて「103系はもともとどういう車両だったのか」という記事を掲載しています。
自分は昔、車両設計事務所の若手技師から103系は山手線向けと聞いたのに、当時の車両設計事務所の技師であった久保田氏は福原氏との対談で違うと言ってるが何故だ?という感じです。
当時の参考文献なども掲載されているのですが、電気車の科学や鉄道ピクトリアルの当該号をどう読み間違えたら山手線向けという結論に達するのか私にはわからない。どの記事も「103系が次期汎用通勤電車」とは書かれていても「山手線用通勤電車」なんて事はどこにも書かれていないのですから。
さらに、この話を曽根氏が聞いたと思われる時期は、設計時であったと考えられるので1962年頃と考えられます。曽根氏は1939年生まれですので、その話を聞いたのは22~24歳であったと考えられ、今のように現場から的確なヒアリングができていたかどうかも疑問です。
結局、曽根氏は自分が主張していた103系は山手線用というのが曖昧になってきたために「どんな車両だったのか」なんて自分の主張を棚に上げたような事を掲載する方ですので、とても客観的に資料を精査して記事を書いてきたとは思えません。
鉄道ジャーナル誌で常磐線の103系がスーパーひたち130キロの邪魔になってるなんて書き方までしていましたが、当時のダイヤを見ると、スーパーひたちの上野-取手所要時間は24分、この区間距離は40キロあるので、平均速度は100km/h。上野駅では時速0km/hですし途中制限もあるので、区間内では110km/hくらいは出していたと思われ、国電区間だと速い部類に属すると考えられるのだが、この状況でどこが103系が邪魔なのか・・・・邪魔と言うなら取手以北の415系にも関連する話なんだが、103系は山手線向けという思いこみが強いだけに、高速という話になるときちんと精査せずに条件反射的に「ダメ」と書いている感じを受けます。
つまり、実際にどうなのかを確認して記事にしてるとは言いにくく、先に書いたように曽根氏が103系を語る時は少し否定方向へのバイアスがかかっていると考えるとちょうど良いと考えています。(曽根氏の総ての発言が間違いという訳ではない)
なお103系の不具合については、京阪神緩行だからというわけではなく、空転などは山手線でも多発していたし、それに対しての対処も徐々にされていっています。1972年3月以降の新快速15分ヘッド化によって最高速度が100km/hに引き上げられた後は、過電圧防止装置などの誤動作が相次いで、かなり乗務員にも不評だったと言う記事はありますが、すぐに改善されて明石区の方の電車誌にて掲載しています。
以下103系電車のノートから抜粋
  • 電車1973年7月号に「103系電車ブレーキ時の過電圧防止対策」として明石電車区の方が書かれていますが昭和47年3月改正で新快速の合間を縫って緩行が走るダイヤになった関係で、ブレーキ初速度が上がり発電ブレーキ時の誘起電圧を高くしてしまい頻繁に過電圧継電器が動作するようになったとあります。
  • 同装置が作動すると事故表示灯が点灯するようなので、運転士がブレーキ操作に非常に神経を使うと言う苦情があったとの事で、それ以外にも作動時の衝動が大きいため、乗り心地に影響するとの事です。原因の1つはダイヤ改正によってスピードアップがされた(この時点で他の項で書いた「旧形車よりも速くなってる事」は証明できていますね)事で平均速度が改正前の58.8km/hから61.8km/hと上がった事でブレーキ初速が上がったためのようです。 101系についていた減圧継電器を103系では割愛してるのですがこれは95km/hからの発電ブレーキ使用でも問題ないように設計されている為です。ただ弱め界磁35%の問題でもあったように、設計通りいかないのが世の常ですので、実際に明石区の方で試験を行った結果、90Km/h以上のブレーキ初速の場合は過電圧になったとの事です。
  • そこでその対策を講じたところ、ブレーキ初速90km/h以上でも良好な結果が得られ明石区全編成に対して改造を終えたようで、〆の言葉としては「この研究により103系電車は高速運転に十分対応できるようになった。~(略)~好成績をおさめ乗務員からも大変喜ばれています。」とあります。
つまり、そういう事実はあったが、その都度改善していっている事がはっきりわかる記事があると言う事です。
伝聞などでは悪い事というのは広まったりするのですが、さてそれがすぐに改善されたのか、今もそうなのか、そのチェックをせずに曽根氏のように記事にしてしまうと、今でもそうなのか?と読者に誤知識を与えるように思えます。
例えば電車誌の記事を見る限り明石区にて良好であると書いているのに、曽根氏が鉄道ピクトリアル1995年3月号で書いた内容と比較すると曽根氏はその事実を知らなかったようですね。
私が上記で105系の事実についてききたいと書いたのは、私が調べた限り、国鉄の方が京阪神緩行線用の新形通勤電車に対しての記述をしてるのは、先の木村氏や寺島氏、久保田氏くらいなもので、それはすべて4扉ロングシート車、高加減速・高速タイプの車両です。
それに対して曽根氏などが主張している「クロスシート車」などの仮称105系というのが、国鉄の方の記述として見つける事ができないのです。
記述が見つけられない以上、ウィキペディアでは検証可能性に基づいて、それらについて記載することはできません。
私が上記で仮称105系について問うたのはそういう理由からです。
どこかに、そういう記述があればもっと具体的に当時の状況がわかるのですが・・・・--永尾信幸 2007年10月3日 (水) 18:21 (UTC)

永尾さん、ていねいな解説ありがとうございます。後にも触れますが72系や103系といった車両は果たした役割に比べると評価が低く(これは趣味的な見地からですが)、なかんずく京阪神緩行線においては51系や70系を置き換える側に回ったことから余計に悪印象に基づいた記述に出くわすことが多いのは事実です。そのために改良の事跡などはどうしても日の目を見ることが少なく、永尾さんも文中で指摘されているように悪評が先行する事態があったのではないかと思います。また、103系については曽根氏のほか川島令三氏など、鉄道(趣味)界におけるオピニオンリーダーの方がネガティブな記述を処々でされておられることから悪評が余計に人口に膾炙した側面はあるかと思います。

次項でも述べますが、京阪神緩行線への高速仕様の通勤電車の投入要望は、永尾さんが指摘されたように、1960年代前半に内側線のみで快速と普通の運転比率を1:1にするために要望されたものでありますが、1960年代中後期に複々線区間の拡大や高槻、芦屋、元町各駅の構内改良、西明石駅の移転改良などの施設改良が逐次実施されたことによってラッシュ時の快速の外側線運行が容易になったことからその要望が徐々にしぼんでいき、昭和47年3月ダイヤ改正で西明石駅の列車線にホームが設置されたことによって緩行と並走する全区間で快速の外側線走行が可能になったことから、朝ラッシュ時は外側線に快速を集中させ、内側線を緩行線専用にすることができる条件が整ったことによって当初の状況が解消されたのではないかと思います。また、新幹線の開業に伴って長距離列車が削減されたことにより、外側線の線路容量に余裕ができて快速の増発が容易になったことも大きな要因ではないかと思います。

仮称105系に関する記述ですが、骨子の部分については私が『大阪の電車』を参考にして書いておりますが、クロスシート云々に関する記述は後に別の方によってなされた加筆であります(さすがに文章にないものを書くわけには参りません)。永尾さんは「趣味的な見地だけで書かれるのはどうか?」と書いておられますが、その部分については私も同感で、趣味的見地だけで記事を書いてしまうと、例えば歴史の分野で『平家物語』や『太閤記』、『三国志演義』といった物語を見て、それだけで関連する記述をまとめるのと同じ問題があるとは思います。ただ、趣味的な見地で書かれた資料も誇張やバイアスがあるにしても、すべてが間違いではなく、執筆する側はそれを見抜いて執筆することが必要ですが、それができていない場合は今回の永尾さんのように専門誌などの情報をきちんと伝えて、修正・補強すればいいのではないでしょうか。

最後になりましたが、当方多忙のためお返事が遅れてしまいました。次項についても速やかにお返事したいとは思いますが、もう少しお時間を頂きたく思います。--彩雲館主人 2007年10月7日 (日) 01:50 (UTC)

私も阪神間に住んでいる事もあって、阪急などと少し比較したりすることはあるのですが、上品な阪急に対してイメージ的には国鉄車はあまり良くないように感じます。(偏見もあるけど)
私は昭和30年代以前の大鉄の京阪神緩行線への愛着などの部分が今ひとつわかってませんので、比較的検証のしやすい1960年代以降のみ取り上げさせてもらったのですが、まず世間で言われてる「大鉄の求めた高速通勤電車」というのが非常に曖昧なんですね。
大量の趣味誌をきっちりと検証できたわけでは無いのですが、1960年~1965年については、先に上げたように4扉ロングシート、高加速・高速タイプを求めていたと言えます。
しかし、外側線を有効に使えるようになった事から、緩行線の性能アップをする必要が無くなり(イコール大鉄が本社に要求する口実も無くなる)立ち消えになったと言う線が非常に濃いのではないかと考えています。
103系が入った時も、たぶん大鉄としては「心底望んだ形式ではない」とは思っていますが、なかなか公式の書面類ではそういう身勝手な事を書けないと思うので本音が伝わりにくいのは事実ではないかと思います。
私としては、103系の入った当時の大鉄としては、やっぱりもう少し高速性能が欲しいというのはあったと思いますが1965年に103系のギア比を1:5.6にすることやMT54の通勤車への適用なども本社サイドで研究されていたようですが、結局使用電力量が上がるが、それに見合うスピードアップが出来ないようなので立ち消えになっている点も考慮して強く言えなかったのではないかと考えています。
一旦は沈静化した大鉄の新形通勤車への欲求ですが、私としては、その後の新快速15分運転化により103系が想定外の100km/h運転などをやった所から、再び再燃してきたのではないかな?と仮説を立てています。
ただ、再燃後の仕様に関しての資料というのが今ひとつ見あたらないので、今回このような形で皆さんに問うてみました。
今までの大鉄が要求した通勤電車というのは、曽根さん曰く165系の下回りを使ってとか書いてあったりしますし、どうも人から人へ伝え聞く間に糸電話での伝言じゃないですが、かなり人によってバラバラな書き方なので、その辺を突き詰めたいという部分も大きいですが・・・
いずれにしても、京阪神緩行線に103系を投入するという記事には必ずと言って良いほど「大鉄では高速通勤車を要求していたが」のような文言が入るのですが、1960年代に求めていた高速通勤電車と103系投入時とは状況が全く違う点は明確にしておきたいです。
それと、セミクロス車につては昼間サービスとしてあったら良いなぁとは思いますが、そのサービスがどの程度乗客に受け入れられていたかがわかるようなものが欲しいですね。でないとちまたのロング・クロス論争みたいになりますので・・・(ちなみに、地方のクロス車は荷物を横に置くので1人2座席分の法則ってのがあるんで(鉄道ファンだと1人1ボックス4座席の法則)クロスだから着席定員が必ずしも増えるとは限らないんですよね)--永尾信幸 2007年10月7日 (日) 09:13 (UTC)
参考までに、電車運転理論上の各形式の理論性能を示すと
  • 101系10M 1500V 250%乗車時 限流値480A設定 時速100km/hまで 103秒(平均加速度0.97km/h/s)
  • 103系6M1T 1500V 250%乗車時 限流値370A設定 時速100km/hまで 99秒(平均加速度1.01km/h/s)
  • 113系6M1T 1500V 250%乗車時 限流値350A設定 時速100km/hまで 94秒(平均加速度1.06km/h/s)
となります。
限流値を上げれば全界磁時の加速度は上がりますので、上記で余裕のある113系(115系の限流値は420A)の設定を変えると下記の通りとなります。
  • 113系6M1T 1500V 250%乗車時 限流値420A設定 時速100km/hまで 87秒(平均加速度1.15km/h/s)
大鉄の木村氏が要求した250%乗車時での平均加速度1.3km/h/sにはわずかに及びませんが、113系6M1Tだとほぼ満足できる性能ではないかと思います。
ただ、113系は3扉セミクロスシートなので、求める4扉ロングシートへの小改造は必要だったかもしれません。
上記の試算でわかるように、このような高性能な車両を走らせるためには限流値を上げる必要があります。
限流値を上げるという事は、それだけ編成単位での電力消費量が増しますので、当時の京阪神緩行線にそれに耐えうる設備が整っていたかも問題になるのではないかと思います。
とりあえず参考資料として提示します。--永尾信幸 2007年10月8日 (月) 09:52 (UTC)
今一度、電車1960年2月号を読んでいて、私は過去に
  • 4扉縦座席(ロングシート)、250%乗車時で100キロまでの平均加速度1.3km/h/s、均衡速度103キロ、歯車比4.82程度
と読み取ったのですが「250%乗車時での平均加速度1.3km/h/s」という表現であり、どこにも時速100kmまでのという文言は無い事に気づきました。
平均加速度を時速何キロまで取るかは、車両によって違ってきて、時速何キロと注釈がある場合はその速度まで、無い場合は全界磁並列最終段の速度までが一般的だと気づきました。
今回は速度の指定が無かった事から、MT46Aで歯車比1:4.82の全界磁並列最終段の速度までと考えると、当時の401系や111系の運転性能に近い事がわかりました。
また、401系や111系の250%乗車時の平坦線の均衡速度も約100km/hを若干超えたあたりのようで、条件的には全て一致します。
ですので、当時大鉄が求めた通勤電車というのは、401系の4ドアロングシート版であったと考えられます。
そのことから、現在本文に記載している内容なども近々訂正させてもらいたいと思っています。
文章をきっちりと把握せずに加筆修正等を行っていて申し訳ありません。--永尾信幸 2008年9月27日 (土) 08:53 (UTC)

ラッシュ輸送への対応だけがサービス向上か?

『輸送力増強の影での苦難(1960~1967年)』の後段で、「何とかして「3扉クロスシートの京阪神緩行線」を維持しようとしたことと相まって、ラッシュ時の300%近い乗車効率の改善が遅れサービス低下を招いた」などの、クロスシートサービスの維持がサービス低下という記述がありましたが、この記述はラッシュ時の輸送に偏重しているように思えます。そもそも、ラッシュ時輸送だけに特化するのであれば何も一度転出した70系をかき集める必要はないわけで、当初から72系を投入して51,70系を置きかえればすむ話かと思います。また、「ラッシュに向かない70系」ともありますが、それなら各車に運転台のある51系はどうなるのでしょうか?当時の大鉄局が苦心しながら緩行に3扉クロスシート車を運用し続けたのは、現在の緩行とは異なり、当時の京都~西明石間では快速と緩行という2種別しかなく、快速の停車駅も現在の新快速より少なかったことから緩行にも中長距離客輸送の任があり、そこでは着席サービスが求められたことと、ラッシュ時こそロングシート車主体の7連運用が主体になっていたもののデータイムはクロスシート車組み込みの4連で十分対応できたことが大きいと思います。それとやはりライバル私鉄の存在もあります。広軌ロクサンで知られる山陽700形の1965年ごろの車内写真が『0からの鉄道なんでも記録』の中に掲載されていますが、京阪神緩行線を走る同じ63系あがりの72系に比べると美しく整備されています。同じ車両でも国私鉄の所有車で大きな差があり、ライバル各線の車両に比べると内装に遜色がある72系に比べると、3扉クロスシートの51.70系では他社が容易に追随できないクロスシートによる着席サービスを提供することができ、これらのことから、1960年代後半まで数を減らしつつも51,70系が京阪神緩行線に残り続けた理由ではないでしょうか。

当初の記述では72系の投入が一方的なサービス低下を招いたような記述で、この記述もやや趣味的見地が強く問題があることから、両論を併記する形で修正(脚注の移設も含む)しております。--彩雲館主人 2007年10月3日 (水) 16:12 (UTC)

上でも書きましたが、大鉄では1959年(昭和34年)後半にラッシュ輸送に4扉ロングシートは必要だと感じています。ですので1960年代の大鉄としては3扉クロスは残したい気持ちはあるが、実際のラッシュ輸送を考えたらその考えを捨てなければならない時期であったと考えられますがどうでしょうか?
改変に当たっては、それらの点を前面に出してしまおうと考えたのですが、私的には今の伝記風の方が楽しく読める点があるので、最小限の部分で3扉クロスがラッシュ輸送に向かない点をあげさせてもらいました。(編集合戦を防ぐ意味もありますが)
私的には着席サービスはありがたい話なのですが、それとラッシュ輸送をどう両立させるかが大鉄として苦心した事ではないかと思います。
少なくとも鉄道ピクトリアルの1964年4月号の塚本駅での4扉車のラッシュ時の写真を見る限りでは、積み残しまではいかないまでも、発車間際に入り口近辺で乗車出来ない方が多数いる状況を示しています。
そんな中で、1964年からは113系が入っていますので、京都・高槻-大阪-芦屋・三ノ宮・神戸などの都市間輸送に関しては、少しグレードアップしたとも言えますが、逆に80形の方が良かったと言う方もおられるでしょうから、この判断は難しいところです。
ただ、京阪神緩行用としては、大鉄が求めていた通勤電車(4扉ロング、高加速・高減速・高速)がすぐに導入するのが難しかった(というより求めているのが201系に近い性能なので、当時の技術ではM比率を上げるしか対処方法はないので、架線電圧問題も含めて実現性は低かったと考えられる)ので、古い72形などの4扉ロングシート車を大量に受け入れていく事になるんだろうと思いますが、ロングシート車がサービス低下になるというのが今ひとつわかりません。
1両あたりの着席数は確かに少ないかもしれませんが、そんなに乗客が少ないのであればロングシートでもかなりの方が着席できたのではないかと思いますし4連の3扉セミクロスと7連の4扉ロングだと7連の4扉ロングの方が着席数は多いし。。。
整備については、どことどこが違いがあるのかという点が気になります。単に私鉄の電車がキレイに見えるから国鉄の電車が整備されていないとは言い切れないからです。特に内装に遜色があると書かれていますが内装とは何を示しますか?
ただ、どの線区でもそうですが、ラッシュ輸送との両立を考えた時に、輸送人員の多いラッシュ輸送に重きを置く事は間違っておらず、その点でロングシート化が遅れたのはサービス低下であったのもまた事実であったと言えます。
つまり、日中の緩行電車をロングにしても、快速電車はセミクロス・クロスなのですから、言われる着席サービスはできていたと言えます。
そうなると、サービス低下の部分は快速電車の関係の無い駅間の利用客ということになります。その利用客数は何人ほどでしょう?
それに対して緩行電車がセミクロスのせいで300%近いラッシュに耐える利用客総数は何人でしょうか?
そう考えると優先順位はラッシュ時の輸送になるのは明白で、それをわかっていながら、セミクロスシート車を早期にロングシート車に置きかえなかったのはラッシュ輸送が後回しになったという点で全体の利用者から見てサービス低下であったとも言えます。
いずれにしても、大鉄自体が4扉ロングシート車を1959年(昭和34年)には欲しがっていた事実があった点は十分に配慮して記事構成をする必要があります。
先にも書きましたが「速い・快適」などは人を魅了する言葉としてよく使われますし、それは私とて同じく好きな言葉です。
ただ、その思いだけで記事にしてはいけないと思います。
103系の比較のところでも、モハ72形等の4M3T編成でどの程度高速性能があったかという点も、たぶんかなり美点的に広まっているのではないかと思います。
例えば高速運転できてもブレーキが効かなければ運転時間は伸びるのに、旧形車のブレーキの効きが悪い点についてはほとんど触れられていないのですね。(モハ72形など旧形車の最高速度が95km/hまでなのも、300%乗車時だと600m以内に止まるのが難しい点があったと思われます)
ま、この辺は余談でしたが、大鉄の方針が明確にわかるような記述が出てきたら、もっと正確な記事にできるかと思いますが、今のところそういう記述は少ないですね。
大鉄の方が執筆した記事が参考としてあるなら教えて頂きたいと思います。少なくともそういう直接関わっている方の記事でないとバイアスがかかりすぎる嫌いがあるので・・・
あと、気になりましたのが、私は本文を修正するのに、まずノートに意見を書いて約一ヶ月様子を見てから改変しました。
すぐに改変すると編集合戦などの可能性があるからですが、今回、彩雲館主人さんはノートにも書いてくれていますが、すぐに改変されたようですが、少なくとも何日かは返事を待ってからされる方が良いかと思います。
そうすれば、上でも書いたように曽根氏の記述自体にバイアスが入っている点や、大阪の国電の曖昧な表現、電車誌における大鉄の方の意見などを参考に出来たように思えます。--永尾信幸 2007年10月3日 (水) 19:27 (UTC)

1950年代後半の京阪神緩行線の使用車両ですが、『関西国電50年』や『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』に掲載されている車両配置表を見る限りでは、当時の明石電車区は51,70系オンリーの構成ですが、高槻電車区には、51,70系(及びクハ55)のほかに分区前の宮原電車区時代からの流れで西成線用も含めて72系が配属されており、『関西の鉄道』15号にP44に記載されている1955年4月の編成図から、緩行においても基本、付属編成に充当されていたことが見て取れます(この時点ではまだ高槻電車区の開設前ですが、宮原→高槻の配置車両は大きく変わっていないので、1950年代後半ではそれほど大きな差異はないと思います)。

このようにクロスシート主体で運転されていた京阪神緩行線のロングシート化は、インターアーバンから通勤線区への変貌によるものであったことからやむをえない面があったとはいえ、もともとが京阪神緩行線での使用を念頭において製造された51系や70系を横須賀線の輸送力増強や地方線区の電化開業用に転出させられたうえに、輸送力増強の名目で受け入れたのが玉石混淆の72系であったことから、どうしてもファンの方を中心に、「恨」(日本語の「うらみ」のニュアンスより、仏教用語や朝鮮文化における「ハン」のニュアンスのほうが近いですね)のイメージで語られることが多いのではないかと思います。

実際のところは、1950年代後半に入るとラッシュ時の混雑が激化していたことから、遅かれ早かれ京阪神緩行線に4扉ロングシート車を本格的に導入せざるを得なかったでしょう。『昭和の鉄道情景1』に掲載されている1964年当時の摂津富田駅のラッシュ時の写真では、クモハ73001先頭の7連から大量の通勤客が吐き出されており、この状況では3扉セミクロスシート車だけで対応するのは確かに困難であったかと思います。また、「3扉セミクロスシートの京阪神緩行線」のイメージが広まる裏で、大鉄局が早い時期からラッシュ対策に4扉ロングシート車の導入を要望していたという事実は、見落とされるか無視されるかのどちらかで、語られることが少なかったのではないかと思います。なお、誤解のないように申し上げておきますが、私はラッシュ時にもクロスシートサービスを提供することがサービス向上で、ロングシート車の導入がサービス低下であるとは考えておりません。ラッシュ時においては殺人的な混雑や積み残しといったほうがむしろ問題であり、その場合は立席スペースが確保できて詰め込みの効くロングシートのほうが適していることは論を待ちません。

ただ、問題は永尾さんも指摘しておられるように、当時の大鉄局はラッシュ時の大量輸送とデータイムの輸送をどう両立させるか、といったことに苦心していたのではないかと思います。現在残されている写真を見る限りでは、1960年代初頭まで基本編成に残っていた3連の4連化を実施し、同時にラッシュ時の編成を5,6連から6,7連化することで輸送力増強を行っていたことが伺えます。ただ、前回も書きましたが、現在の緩行と当時の緩行では担わされていた役割が現在とかなり異なっていたこともあり、現在の緩行と同じ役割を担わせるためには、輸送力の増強も含めて条件を整備する必要があったかと思います。

1968年10月ダイヤ改正までは、データイム快速20分(神戸以西40分ヘッド)、緩行10分ヘッド(京都~高槻間20分ヘッド)、ラッシュ時は快速15分、緩行7.5分ヘッド(京都~高槻間15分ヘッド)が基準ダイヤで、ラッシュ時にはその間に吹田~尼崎(甲子園口)、住吉~鷹取(後に西明石)の小運転が入った形で運転されていました(住吉~西明石間の小運転は1967年に高槻まで延長)。当時の緩行運転区間における快速の停車駅は、京都を出ると高槻、新大阪(1964年10月の駅開業時から)大阪、芦屋、三ノ宮、元町、神戸、兵庫、須磨、明石で、外側線走行のものは芦屋の代わりに西ノ宮停車となっているほか、ラッシュ時に鷹取に停車するものも1~2本ほどありました。また、西明石に快速が停まるようになったのは1961年の西明石駅移設後のことであり、神戸市内を除くと現在の新快速より少ない停車駅数です。この関西急電由来の快速のほかに長距離客車鈍行や客車列車を置き換えた中長距離電車(姫路、米原以遠に直通するもの)も不等時隔ながら運転されており、これらの列車も緩行運転区間では快速の役割を果たしていたといえます(客車列車は京阪間、阪神間ノンストップで元町も通過していますが)。快速と普通の運転比率が1:2であれば退避等の関係で阪神間、京阪間において後続の快速から逃げ切れる緩行もあるわけで、そういったことから緩行もある程度の都市間連絡の役割を担わされていたといえます。また、神戸以西においては快速の運転本数が大きく減ることから、都市間輸送における緩行のウエイトは他区間に比べると更に高かったといえます。更に、4連の3扉セミクロスシート車より7連のロングシート車のほうが確かに着席数は多いですが、1965年ごろの写真を見ているとデータイムは4連で運行されていることが多いです。当時の京阪神緩行線ではデータイム10分ヘッドであったことから、輸送力過剰となる7連で運行する必然性は少ないといえます。そうなると4連の4扉ロングシート車では着席数が減少してしまい、着席サービスが維持できないのは言うまでもありません。このような状況では、いきなり通勤輸送に特化してロングシート化してしまうと、併走する私鉄に対する競争力が相対的に低下してしまうことから、40系や72系の転入で輸送力の増強を図る一方で極力51系や70系を温存しようとした意図が伺えるかと思います。

こうしたことから、緩行のロングシート化は全体的な輸送力増強の一環として、構内配線の改良や複々線化の進展など施設面の改良と表裏一体となって実施されたといえます。1965年の兵庫~西明石間の複々線化や、1966年の京都~向日町間の貨客分離に伴う旅客線の複々線化及び梅小路操車場への平面交差解消によって緩行、快速の増発が容易になったことをはじめ、同年の芦屋、高槻両駅の構内配線の改良や元町駅のホーム改造工事(外側線相対式ホーム上下1面1線、内側線島式ホーム1面2線を現在の上下線島式ホーム2面2線に改良)によってラッシュ時における外側線での快速運転が可能になったことが緩行、快速の増強に大きく役立ったといえます(高槻、芦屋両駅での構内配線の改良は緩急結合運転の強化に役立つほか、元町駅のホーム改造の効果は高槻、芦屋両駅の構内改良に比べると見過ごされるきらいはありますが、同駅山側には兵庫県庁や兵庫県警本部といった行政機関があり、浜側は金融・ビジネス街の入口であったことから、ラッシュ時の快速停車は必要不可欠な条件であったといえます)。これらの改良工事が完成した後の1968年10月の「ヨンサントウ」ダイヤ改正で、快速の折り返し駅を神戸駅から西明石駅に変更して全ての快速の運転区間をを緩行と同一にできました(快速の全列車西明石以西始発終着化は、神戸高速鉄道の開業も大きいですが)。こうして、快速と緩行の運転比率を1:1にすることができ、併せて快速と緩行の役割分担を明確化することができたことによって緩行の7連化(本数が減った分、輸送力を確保する必要があるため)とロングシート化を推進することができるようになったといえます。緩行の側でも、7連化の障害になる少運転折り返し駅のうち、吹田駅の引き上げ線を延長して7連対応にしたことも見逃せません。

永尾さんは先の文中で「日中の緩行電車をロングにしても、快速電車はセミクロス・クロスなのですから、言われる着席サービスはできていたと言えます。そうなると、サービス低下の部分は快速電車の関係の無い駅間の利用客ということになります。その利用客数は何人ほどでしょう?それに対して緩行電車がセミクロスのせいで300%近いラッシュに耐える利用客総数は何人でしょうか?」という指摘をされておられますが、これらの部分については上述のような条件整備をしたことによって緩行と快速の役割分担が明確化されたことから、緩行の全面的なロングシート化に踏み切ることができたのではないかと思います(この大鉄局のやり方は横須賀線をはじめとした首都圏各線区のロングシート化に比べると手数を踏んでいますが、これに関する優劣は条件がかなり異なるために一概にどちらが上とは言い切れません)。

今後このあたりの記述を修正するについては、これらの議論も踏まえた形で行いたいと思います(事後通告より事前に議論したうえで書き直すほうがいいのはいうまでもありません)。

あと、「内装」に関する話ですが、主観的であいまいな部分があるのは事実です。それを少し整理してから「ノート」に持ち込もうと思います。--彩雲館主人 2007年10月19日 (金) 10:16 (UTC)

呼び方について

京阪神緩行線などの呼び方が一般的じゃないため、そう呼ばれてると言うような部分に「要出典」を付けようとしましたが、逆に「鉄道趣味誌において用いられる」と範囲を限定する事で、検証可能性を満たすようにしてみました。良く「本線緩行」などと言う言葉で表現する方を見受けられるのですが、だいたい「緩行」なんて使い方をしてる人はほとんど知らないですね。使ってるのは鉄道ファンだけというか。どう表現するかと言うと「国鉄に乗って行こか」みたいな感じが多いですね。東海道線などもあまり言わないです。要は阪神で行こうかとか、阪急で行こうかと同じ感覚で、普通に乗るか急行(快速)に乗るかなんてのは改札入った後の話なんで、あまり乗る前から気にして言わないです。

そんなことで、本線緩行などと呼ばれるという部分に要出典を付けようかと思ったのですが、鉄道趣味誌では良く使われてる表現である事から、趣味誌においてと範囲を狭めた感じで独自検証部分を省いた形にしたつもりです。一応、改変の説明をしておきます。--永尾信幸 2010年9月2日 (木) 08:07 (UTC)

国鉄部内で使用していると言う加筆がありましたので、要出典とさせてもらいました。このあたり検証可能性と独自研究との兼ね合いで難しい話になってきますが、京阪神緩行線と、なぜ京阪神を付けなければならないかと言うと、京阪神以外の方が呼ぶために普通に緩行線だと紛らわしいからです。大阪の人間が「京阪神緩行」なんて呼び方をするでしょうか?参考文献にピクトリアル1964年4月号が上げられていますが、ここには元大鉄電車課の方の記事も掲載されています。京阪神緩行なんて言葉はありません。快速・緩行という言葉は出てきますが、それで十分だからです。ちなみに国鉄が発行していた「数字で見た国鉄」ではラッシュ時の混雑率などを毎年掲載していましたが、東海道線(大阪付近)(緩行)という表現です。
私としては、京阪神緩行という言葉自体は良く知られているし、使ってる方も多いと思ってますので、この用語自体に不備があるだのどうだのと言うわけでは無いのですが、使われてる範囲が非常に狭いという部分はきちんと説明できなきゃならんのではないかと言う事です。
つまり、ある意味「鉄道趣味者・専門家POV」とも取れるわけですが、これをあたかも一般的に流通してるような言葉であると閲覧者に誤解を与えてはいけないのでは無いかと、まぁそう感じたので小うるさく要出典だの出して見ました。昭和53年10月の大鉄の運用表が手元にあるのですが、まぁ独自研究ですけどその中の103系の運用表のタイトルは「高槻電車区緩行電車運用」だの「明石電車区緩行電車運用」であって「京阪神緩行電車運用」なんて言葉は使ってないのです。国鉄本社や大鉄以外の方が、地区と路線をはっきりさせるために地域を示す京阪神と種別を示す緩行をくっつけた造語だと思うんですけどね。だから、国鉄がこの路線を呼ぶ際に記載が無いわけで。
そんなことで、私の方でも数点の資料は調べてみましたが、京阪神緩行と言うような言葉を見付けられませんでしたので、要出典とさせていただきました。探した資料の中には大鉄電車課が発行した関西国電略年史も含みます。--永尾信幸 2010年9月5日 (日) 08:19 (UTC)
お世話さまです、情報提供とご説明ありがとうございました。私としてもとくにこれ以上の案もありませんので、そのまま削除しておきました。よろしくお願いします。--Hanabi123 2010年9月7日 (火) 13:20 (UTC)
対応ありがとうございました。大鉄局発行の「国鉄線電車時刻表」の巻末に主要駅のポケット時刻表のような時刻表が掲載されているのですが、ここでの呼び方は単に「各停」です。この時刻表には民鉄の同じような時刻表も掲載されているのですが、民鉄の方は「普通」となっています。ちなみに、この時刻表は今の交通新聞社の携帯全国時刻表をアレンジしてJRに納入してるのと似たようなのと思うのですが、この大鉄発行の時刻表は日本交通公社の「京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表」と同じレイアウト・様式になっていますので、作成・搬入は交通公社がしていたと思われます。ま、そんなことで呼び方というのは結構難しい部分があって、鉄道ファンが「こう思う」的に加筆されるケースも多いわけで、鉄道ファンの感覚とウィキペディアの検証可能性という感覚の難しさと言うか。今回も、久保田氏の発言による出典を明記していただいていますので、検証可能性自体は満たされてます(例えば久保田氏の記述を出典として明記し「国鉄部内者もそう呼ぶ場合がある」などに変えれば何ら問題無いと思う)から「何を要出典なんて貼ってるんだよ」と言われるかもしれないとは思ってます。
が、昨今の編集合戦を見ると「僕知らないから要出典」という記述があまりにも多いような気がするんで、出典があっても議論の余地のある点を示したかったという部分もあります。
実際に「京阪神緩行」ってのは違和感があるのも事実なんですけどね。東海道線とすると東京圏と勘違いすると思われる人もいると思いますが、実際の使い方は「東海道・山陽線」なんですよ。この分岐は神戸駅ですからその部分を走ってるというのは大阪の東海道線だと言う風にわかるわけで「東海道・山陽線」だけで大阪地区とわかるのに、わざわざ「京阪神」と呼ぶ必要性が無いと言うか。
そういう意味では、すごい造語、ごく一部の方が使っていた用語ではないかと言う危険性もあるとも思ってます。--永尾信幸 2010年9月9日 (木) 00:46 (UTC)
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