ノート:内大臣府

最新のコメント:2 年前 | トピック:貞愛親王は内大臣か | 投稿者:Kodai99

内大臣と統合してもよさげですねぇ。--代言人 2006年1月3日 (火) 08:29 (UTC)返信

私が項目を立てたからではありませんが、内大臣は主に律令官制下の中で永年にわたり任ぜられた官職であり、項目の発展性を期す上でもどうしても、古代以来の系譜が中心になるかと思います。翻って、内大臣府は近代中心の内容により、より充実した項目としていくことができるでしょう。一口に内大臣といっても、その内容は非常に濃密ですし、ある程度分割されていた方がよいかと思います。--Suifu 2006年1月24日 (火) 14:21 (UTC)返信

上のコメントを書いた後に古い方の内大臣経験者を調べたので向こうに書きました。--代言人 2006年1月24日 (火) 16:10 (UTC)返信

ほそいと もうします

 だれか年号を昭和とか

明治にかえてくれませんか

せえれきだとわかりずらい

一部転記提案 編集

内大臣からの一部転記を提案します。理由は Suifu さんのコメントに準じます。Kurz 2008年10月16日 (木) 02:46 (UTC)返信

貞愛親王は内大臣か 編集

伏見宮貞愛親王が第4代の内大臣として掲載されていますが内大臣には就任していないので歴代として掲載するのは適当ではないと思います。--代言人(/) 2021年9月8日 (水) 00:43 (UTC)返信

2週間程経過しましたがコメントもなかったので変更しました。官報. 1912年12月21日官報. 1914年04月23日参照。大山巌は当初から内大臣でした。--代言人(/) 2021年9月24日 (金) 12:50 (UTC)返信
出典としている官報を見ましたが、1912.12.21の宮廷録事には、鳩彦王妃允子内親王の旅行?しか記載がありません。また、同様に1914.4.23の宮廷録事には大正天皇の青山御所への御幸李垠が帰京した旨の記載のみです。官報の記載内容からすると、たいていのものは前日分を翌日に記載していたようなので、翌日や翌々日にも見てみましたが、見当たりませんでした。該当部分を具体的なページ数で教えてください。--Kodai99会話2021年9月24日 (金) 17:48 (UTC)返信
(追記)貞愛親王以降の内大臣経験者の当該人物記事中における歴代数は変更しなくてもよいのでしょうか?--Kodai99会話2021年9月24日 (金) 17:52 (UTC)返信
官報. 1912年12月21日の18コマ官報. 1914年04月23日の14コマです。天皇や皇族・重臣に関わることは号外として出されることがあります。他の人物の代数は「貞愛親王を歴代から外す」という基準で記事を修正しましたが、別の問題に気づきました。濱尾新一木喜徳郎の辞令は「兼任内大臣」でしたが、この2度の辞令を見て「両名を歴代に加えるべきなのか」という問題と「ウィキペディアで代数を決めていいのか」という問題でした。これは他の大臣の項目にも関わるのでプロジェクト‐ノート:日本史の方で意見を募りたいと思います。--代言人(/) 2021年9月25日 (土) 03:47 (UTC)返信
ありがとうございます!下のほうにあったんですね…。見落としてしまいました。
別件については、即日辞任されているため、悩ましいですね。こういうと当人に失礼かもしれませんが、内大臣としての仕事してないですし。何か出典があるといいですね。--Kodai99会話2021年9月25日 (土) 14:22 (UTC)返信
あと、歴代者の貞愛親王の解任日と大山巌の就任日が1915年でしたので、1914年に修正しました。--Kodai99会話2021年9月25日 (土) 14:29 (UTC)返信
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