ノート:四国攻め/Log2

最新のコメント:13 年前 | トピック:輝元・信長の節題について | 投稿者:Chokorin

仕切り直しの前に 編集

仕切り直しの前に確認しておきたいことがあります。長くなりますが、御容赦を。

まず、第一に1585年の羽柴・長宗我部戦争をあらわすのに「四国攻め」「四国平定」「四国征伐」の用語はいずれも一長一短があり、それゆえに表記が定まっていないという面があるということ。この点はいかがでしょうか。「四国征伐」は惣無事令発布以前という点では歴史学的には誤りであり、中立性にも問題がある。「四国攻め」は四国以外の勢力が四国を侵攻したという雑ぱくな印象があり、現に信長の場合も「四国攻めの兵を派遣」などとして使用されており、また、原義からしてほぼ軍事行動のみに限定される用語である。「四国平定」は逆に在地勢力が四国一円に覇を唱えることも含む点で曖昧さが生じる。ただし、単に戦闘があって勝敗がついたというのではなく、四国はとにかく結果的に(地方政権であれ中央政権であれ)一つの政権に一円的に組み込まれたということは明確であり、また、用語としては軍事のみならず政治・社会その他広汎な影響を表現できる。言い換えれば、「四国平定」は四国平定戦(=「四国攻め」)と四国国分の両方を表現しうるということなわけです。用語として定まったものがないということをあえて強調するのであれば、見出しを「豊臣・長宗我部戦争」としたうえで、なぜ定まった用語がないのか説明してもよいと思いますが、3者から選ぶとしたら、なぜ「四国平定」の選択肢ははずされたのか。ここで、軍役や検地による近世石高制のことも踏み込んで説明したいのであるならば、むしろ「四国平定」の方が適切だということになると思うのですが、いかがでしょうか。いずれにしても、ベストな用語はないのであって、モア・ベターな用語はどれなのかということを前提に、名称は再検討されてよいと思います。

第二に、はたして歴史事象そのものに、あらかじめ「付属記事となるべき事象」なるものが定まっているのかという問題があります。歴史事象そのものには主記事も付属記事もないと私は考えます。この点はいかがでしょうか。先におこったから前史で、後におこったから後史だなどという馬鹿な話はないわけですし、大事件は主記事、小事件は付属記事で扱うべきだとする了解なり、規則なりがあるわけでもありません。したがって、何を主記事とし、何を付属記事とするか、そのこと自体が検討の対象になります。本項で1585年の羽柴・長宗我部戦争を主記事とするということが全員に了解されているのであれば、それはそれで構わないですが、実際には、誰がみても「四国攻め」と呼ばれる記事を並列配置した記事群になっています。それでよいかどうかは別の議論に譲るとして、仮に羽柴・長宗我部戦争を主記事とするという前提に立つとしても、信長の四国攻略計画は決して秀吉の四国攻めに「付属する」歴史事象ではありません。歴史事象として1つの独立したテーマであることは疑いないことであり、少なくとも、1585年の秀吉の四国攻めの単なる「前史」に限定し、矮小化して扱うことは正しい姿勢とは言えません。もとより、信長の計画はのちに羽柴・長宗我部戦争に引き継がれる面もあることから「前史」と称されるひとつながりの事象群のなかにふくめて考えることは確かに可能です。しかし、その場合でも、何も信長の計画のみが「前史」のすべてではないのであって、少なくとも、

  1. 信長の四国征討計画
  2. 秀吉出兵以前の長宗我部の行動
  3. 秀吉の対毛利外交の転換
  4. 毛利側の対織豊政権への姿勢の変化

の一連の歴史事象を語ってこそ「前史」を語ったことになります。「前史」という、そこに至るまでのプロセスの総体を示す言葉を使う以上、3.や4.についても、それ相応の分量を費やして説明し、また、1.~4.を相互に関連づけてトータルに述べないと「前史」を説明したことにはなりません。3年前に中断された征討計画のみを「前史」としてピックアップすることはナンセンスであり、加筆の力点はむしろ2.~4.にあるのではないかと考えます。記事の並列配置は許容されないということならば、1.は、むしろ簡単にふれるにとどめて、別記事として立てるのが妥当でしょう。そもそも、「前史」「後史」の語は、一定の歴史解釈を含んでしまうので、本文中で用いるには慎重であるべきであり、もし用いるなら、最低限、上のような用意周到さがあって初めて使用されるべき語であり、これを、一個人の中途半端な思いつきや恣意的な資料操作に委ねてしまうことは、憶測と独断にもとづく虚妄の記述をまねくことにつながりかねません。後顧に憂いをのこさないためにも、ここは、議論参加者の英知をつのる必要があると考えます。いかがでしょうか。--Chokorin 2010年3月8日 (月) 18:29 (UTC)

すみません。他の人が意見をつけやすいように、トピックごとにセクション見出しを追加します。もっとふさわしい見出しがあればどうぞご修正ください。--miya 2010年3月10日 (水) 04:35 (UTC)
コメントはあるのですが、以前から論じている立場ですし、ここは他の人のコメントを待ちたいと思います。議論活性化のためのコメント依頼、該当するプロジェクトやポータルに告知を出しては如何でしょうか?--Yasumi 2010年3月13日 (土) 05:01 (UTC)
Chokorinさんへ。広く議論を求めるつもりで在れば、呼びかけが必要な状況かと思います。当初から議論をリードされる様にお見受けしましたが、積極的に呼びかけがないようであれば更に少し待って私の方でコメント依頼等をしようと思います。よろしくお願いします。--Yasumi 2010年3月18日 (木) 12:49 (UTC)

この項目は現状では、次の5要素を含んでいます。

  1. 織田信長の四国征討計画
  2. 長宗我部元親による四国平定
  3. 羽柴・毛利連合軍による四国攻め(四国平定戦)
  4. 豊臣政権による四国国分
  5. 関ヶ原合戦時の毛利勢の軍事行動

「四国攻め」の用語でカヴァーできるのは、確実なところでは1.と3.だけではないでしょうか。5.は微妙なところです。それに対し、「四国平定」では、2.から4.までをカヴァーできるのではないかと思います。ただし、1.は微妙でしょう。

5.に関しては、鍵となるのは4.であり、1.2.3.と5.とのあいだには直接的な関係を認めることができません。したがって、5.を迷子にしないためには「四国平定」の記事名の方がマシということになるでしょう。あるいは、1.から3.までを「四国攻め」としたうえで、4.と5.を「四国国分」という別記事のなかで扱う手もあるでしょう。

で、何度もうかがっていますが、「毛利輝元の四国攻め」なる語はYasumiさんの造語なのでしょうか。そうであるなら、最低限、「本項目では以下の理由でもって『毛利輝元の四国攻め』の用語を用いる」の説明が必要かと思います。この場合は「理由」が必要になります。そうでなければ、「毛利輝元の派遣した中国勢の関ヶ原合戦時における軍事行動」というような名称に改めたうえで「毛利…(中略)…関ヶ原合戦時における軍事行動も本項目で扱う」の言葉が必要でしょう。その際、「前史」「後史」、「主となる歴史事象」「付属する歴史事象」などの説明は不要であり、むしろ有害と考えます。これらは、要するに後づけの屁理屈にすぎません。本当に説明すべきことを省いてしまっているために、率直さの欠いた、ごまかしの説明になってしまっているのではないかと考えます。「自分がどうしたいか」ということよりも、「読者にとって親切なのはどれか」を第一に検討すべきと考えます。--Chokorin 2010年3月19日 (金) 23:28 (UTC)

議論の仕切直しにあたり、議論開始前に前提を整える意見を募るつもりとお見受けしましたが問題提起のコメントが0であるまま議論を始めるのでしょうか?一番に問題提起を行って議論を主導しているChokorinさんには僭越ながら、議論活性化のためのコメント依頼、プロジェクト・ポータルのノートに意見募集の告知を出したいと思います。また、ご質問に対して輝元部分(関ヶ原の四国部分)の記事の出典は既に示した通り『関ヶ原前夜』光成準治です。加えて、出典元からダイレクトに引用した節題であったか、出典元の内容をまとめた節題(造語)であったかは思い出せないので再度出典に当たるつもりであることも表明済です。少なくともこの節題を付けるに当たっては、無から有を生み出したような節題(独自研究)ではありませんから、Chokorinさんが調査を行わずに私自身の出典再調査を望むのであれば、実施までお待ち願うより他はないでしょう。--Yasumi 2010年3月20日 (土) 21:43 (UTC)
「造語かどうか思い出せない」というのは驚くべき記憶力です。「恍惚の人」とお呼びしたいくらいです。「実施までお待ち願う」とのことですが、もう充分に待ちましたので、Yasumiさんには、お引き取りいただいてもいいかなと思います。表明したなら、とっとと取りかかればよろしい。その気がないというのなら、「造語」だと見なして話を進めてもよいのではないかと思います。--Chokorin 2010年3月22日 (月) 01:17 (UTC)

(閑話休題)過去ログ化による仕切り直しにより、多少は実のある議論になるのかなと期待していたのですが。感情論と主導権争いの体を為してきたように見受けられますので、本来言うまでも無いことなのですが、僕はこの議論から撤退する事を宣言いたします。また何らかのコメントが必要であるなら、改めてお声をかけてください。その際には、もう少し実のある議論ができる事を期待しております。--影綱 2010年3月22日 (月) 02:23 (UTC)

影綱さんへ。ご苦労様です。そしてこれも言うまでもないことですが、羨ましいことです。議論になった時には、またよろしくお願いします。
Chokorinさんへ。いったい、どういうことでしょうか?暴言ですか?五ヶ月前に読んだ本に記載されていた一語句を思い出せないぐらいの記憶力なわけですが、前からですが正にさっさと調べている状態ですのでご安心を。依存されるのでは仕方がないです。現状、出典への再アクセスの目処が付きつつあるので来週以降にまとめられそうです。しかし、付かないコメントの方を先に片付けるべきでしょうかね。--Yasumi 2010年3月26日 (金) 23:15 (UTC)

Yasumiさんへ。あなたは前々から、ウィキペディアの記事名は「各々がどう呼びたいか?」ではなく「現実にどう呼ばれているか?」で決めるべきだというようなことを主張なさっていたわけなので、当然「毛利輝元の四国攻め」なる節題もあなたの造語などではなく、専門家によってそう呼ばれているという事実を踏まえたものであったと考えるわけですよね。ところが質問してみると、どうも、そうじゃないらしい。考えてみれば、輝元本隊は関ヶ原にいるわけだから、「毛利輝元の四国攻め」なる語はそれほど適切な用語とは言えない気がするわけですよね。で、確かめてみると、造語だったかもしれないってことでしょ。ということは、それに限っては「あなたがそう呼びたい」ということを優先なさったということでしょうか。「アドホックな仮説」ではないですが、そういうダブル・スタンダード、その場その場の恣意的な解釈、後づけの理屈では困ると申し上げているのです。そんないいかげんなことでは、あなたの出典調査など全部胡散臭い代物だということになりませんか。当初はあなたの主張も真っ当なものだと思っていましたが、言っていることとやっていることとがメチャクチャでしょ。そういう自覚はおありなんでしょうか。要するにあなたは、「俺の言うことなど信じるな。けれども、俺の言うことには逆らうな」とおっしゃりたいわけですか?

影綱さんへ。議論したくないのなら、宣言などなさらずに撤退していただいて結構だと思います。問題がなければ議論する必要もないわけです。たかがウィキペディアの議論にどんな「実」を求めておられるんでしょうか。議論などなければないに越したことはないわけですよね。大切なのは記事の充実であり、議論は問題解決のための副次的なものにすぎません。ところが、現状では仮に加筆したくても、Yasumi氏によって妙なシバリがなされているわけですよね。「毛利輝元の四国攻め」なる出来事は、あくまでも「豊臣秀吉の四国攻め」の後史であり、その付属記事となるべき出来事だというような。わたしはそこに疑問を感じているので発言しているにすぎません。もし、そこに疑問を感じておられないのなら、それはそれで結構だと思います。お声はかけませんが、発言したくなったら御自由にどうぞと申し上げるほかありません。--Chokorin 2010年3月28日 (日) 15:51 (UTC)

  コメント論点を整理して着実に片づけることを目的として過去ログ化したのですよね。それなのに、「仕切り直しの前に」と銘打つ節でいつの間にか議論が再開している現状は、議論の進め方としてあまりお勧めできない状態だと思います。私も野暮用がなかなか片付かず、こちらに力を割けないのは申し訳ないとは思いますが、YasumiさんとChokorinさんのどちらかお一人でも、なし崩し的に議論が進行する前にブレーキをかけてほしかったです。
現状では第三者にとってはなかなか参加しにくい状態です。過去ログでもお二人の対論部分は量が多い上に場所も分散していて、追い切れないです。きちんと仕切り直しをするために、まず今後の記事設計について、お二人の腹案とその利点を、他案への批判を含まない形で簡潔にまとめて頂けると助かります。できれば新しい節で。
それと、「恍惚の人」みたいな表現は百害あって一利なしですので今後はご勘弁を。よろしくご配慮下さい。なお、『関ヶ原前夜』は私も確保しました。--Arawodas 2010年3月29日 (月) 13:55 (UTC)

Chokorinさんが改名投票の時と同じように前提を無視されて自己の能力と責任でどのような誤解をされようと自由ですが、。2010年3月28日 (日) 15:51 (UTC)の発言だけを見ても不実・不当で誘導的な発言が満載であり、「輝元本隊は関ヶ原にいる」「(Yasumi注:輝元本隊が不在だと、四国攻めが)適切な用語とは言えない」「「あなたがそう呼びたい」ということを優先なさった」「ダブル・スタンダード・・・」「「俺の言うことなど信じるな。けれども、俺の言うことには逆らうな」とおっしゃりたい」「現状では仮に加筆したくても、Yasumi氏によって妙なシバリがなされている」と一々の批判で枝葉へ流れて議論を撹乱されては堪らないので否定だけはしておきます。
また、Arawodasさんの指摘もあり、建設的な議論を進めるため記事設計の節を立てましたので「各自が今後の記事をどう編集するつもりなのか」を表明して頂けたらと思います。--Yasumi 2010年3月30日 (火) 12:33 (UTC)

1585年の羽柴・長宗我部戦争をあらわす用語について 編集

  コメント おおむね、Chokorin氏の指針に同意できます。分割した上で再度記事名を適正な形にすることも検討するべきでしょう。現状がベストであるとは思いません。--秋田城之介 2010年3月28日 (日) 10:50 (UTC)

  コメントコメントありがとうございます。Yasumi氏が関ヶ原合戦時の毛利軍の四国での軍事行動を執筆する際に参考になさったという『関ヶ原前夜』なる書を入手しました。それによれば、1585年の羽柴・長宗我部戦争をあらわす用語としては「四国平定」の語を使用しているようです。この本はまだじっくり読んでいませんが、一次資料にあたった、従来の通俗的な理解からの脱却を超える快著のようです。「現状がベストであるとは思いません」というのは私も同感で、もし、分割しないのであれば、「四国攻め」よりは「四国平定」の方が記事名としてはむしろ適しているのではないかと思います。分割するとすれば、どのような分割が読者にとっては最も親切なのか、また、それぞれの記事名をどうしたらよいのかということを検討していかなくてはいけませんね。--Chokorin 2010年3月29日 (月) 09:24 (UTC)
多少補足を。『関ヶ原前夜』の第三章「阿波占領」では「四国平定」、同「伊予征服」では「長宗我部攻め」の語が使用されていますが、軍事行動をさす語としては「長宗我部攻め」にウェイトがかかっているように感じました。--Arawodas 2010年4月1日 (木) 13:59 (UTC)
  コメント「ウィキペディアの記事名について」の議題であることを前提にコメントします。まず一番にはWikipedia:記事名の付け方と言う考慮すべきガイドラインがあり、それに沿った解決が図られるべきでしょう。これは前段の議論でも確認され、反対者は皆無であったと存じます。本則を無視したまま各個が独自研究の国語解釈を始めてしまえば収拾がつかなくなります。--Yasumi 2010年3月30日 (火) 12:33 (UTC)

信長の四国制圧計画は秀吉の四国攻めの「付属記事」か 編集

  コメント 現状のままである必然性がないので、ここも分割議論の対象になりえます。私自身はここも分割対象にすべきだと思いますが、ここは『毛利輝元の四国攻め』より、意見が割れるところだと思います。--秋田城之介 2010年3月28日 (日) 10:50 (UTC)

  コメント信長の四国制圧計画が、秀吉の四国攻めあるいは四国平定戦争の「前史」であり、「前史」であるがゆえに秀吉の戦闘に付属すべきだというYasumi氏の主張には肯けません。なので、分割対象として検討すること自体には異論はありません。ただし、実際に分割すべきかどうかということになると、適切な項目名に事欠くような状態なのではないかと愚考いたします。信長の四国制圧計画と秀吉の四国攻めとでは、四国を取り巻く環境も異なれば、戦闘の主たる目的も異なります。それゆえ、さしあたって、信長の事績は秀吉のそれの「前史」であるゆえに信長の計画は矮小化して構わないというような方向性、あるいはそのような臆断の生じる可能性さえ除去できれば、現状よりは相当ましになると考えます。むしろ、双方、たがいに独立した歴史事象であることを説明したうえで、取り巻く環境や目的がどう変わったのかというプロセスを加筆していった方が、読者にとっては、より有益なのではないかと考えます。--Chokorin 2010年3月29日 (月) 10:00 (UTC)

「信長」部分と「秀吉」部分について、相違点はもちろんありますが、構図の共通性・継続性を私は重視したいと思います。ですから、両戦役を一つの流れの中で説明した方が分かりやすいし、そのためには同居が望ましいと考えます。正直、同居さえできていれば形式(並列解説か? 「秀吉」を主題として「信長」を補足説明的に扱うか?)にはこだわらないというのが私の立場です。が、本記事を「秀吉」主題の記事として位置付けた結果、「信長」は補足説明だから簡略でいいだろう→削減編集とか、「信長」を前史的に扱うのは不適切だろう→分割みたいな流れになるのは困ります。--Arawodas 2010年3月29日 (月) 13:55 (UTC)

  コメント連綿としているため歴史事象に対しては必ず前史も後史も付いて回るものです。一方、ウィキペディアは百科事典ですから、特筆性のある歴史事象(トピックス)を主題に取り上げて記事としています。本記事の主題は秀吉部分であり、付属して影響を与えた関係前後史が付いて来るのが主題を理解する上で理想的な形でありましょう。
現記事に於いて、信長部分・輝元部分はそれぞれを主体とした書き方をしており、将来的・理想的には独立記事となるべきでしょう。しかし、当初より発達過程の未熟な記事であったため現状では秀吉部分の付属記事として同居状態であると考えます。
前段の議論でも述べましたが、これらを独立記事として分離・独立するか否かは今後の議論と合意を待ちたいと思います(どちらでも良いと思っています)。独立した場合は、リンク引用と共に秀吉部分を主体とした書き方で縮小表現された前後関係史を残すことがベストと思います。
(追記)2010年3月29日 (月) 10:00 (UTC)のChokorinさんの発言である「信長の四国制圧計画が、秀吉の四国攻めあるいは四国平定戦争の「前史」であり、「前史」であるがゆえに秀吉の戦闘に付属すべきだというYasumi氏の主張」のような主張などしておりません。何度も見られる行動様式ですが、今回で言えば歴史とウィキペディア記事を混同して他者の発言を利用した誤誘導を掛けないないで下さい、大変迷惑をしています。信長・輝元部分は歴史事象として秀吉部分の付属歴史では有りませんが、ウィキペディアの記事的には(現状)は秀吉部分を主題とする記事の付属記事の位置にあるのです。--Yasumi 2010年3月30日 (火) 12:33 (UTC)

「信長・輝元部分は歴史事象として秀吉部分の付属歴史では有りませんが、ウィキペディアの記事的には(現状)は秀吉部分を主題とする記事の付属記事の位置にあるのです」とのことですが、そういう「現状」を好ましいこととは考えません。「信長・輝元部分は歴史事象として秀吉部分の付属歴史ではない」とおっしゃるのであれば、それを明記すべきと考えます。明記したうえでArawodasさんがおっしゃるように、「構図の共通性・継続性」を記すということであれば、わたしとしては異論はないです。「後史」についても同様で、秀吉の四国平定・四国国分の影響ということを記すなら、Yasumiさんも説明されているような、より広汎で江戸期にまでおよぶ社会的ないし経済的な影響全般を記さないと「後史」を説明したことにはなりません。取ってつけたようなかたちで輝元部分だけを「後史」とし、秀吉の事績の付属記事にするのは、実際の歴史のありようから離れてしまっていると思います。「混同」されて困るような叙述、言い換えれば、実際の歴史からは遊離しているようなウィキペディアの叙述を、そのままにしておかなければならないという理屈がよくわからないので、どなたか説明してくださるとありがたいです。--Chokorin 2010年3月30日 (火) 22:14 (UTC) (加筆)--Chokorin 2010年3月30日 (火) 22:28 (UTC)

今後の記事設計と立場・加筆表明 編集

まずは大幅加筆を行い、次に難産でしたが出典による比較優位の「四国攻め」への改名が済み、冷却期間を取ると共に従動的な立場へ移行しようと思っていました。従って、現時点で自分自身による大きな加筆の計画はありません。
前段議論のノート:四国攻め/Log1にて「関ヶ原前後の毛利輝元による豊臣政権の名の下に行われた四国攻めについては、最終的に何処に置かれても良いと思っています。分割議論は別題別項でお願いしたいです。--Yasumi 2009年11月2日 (月) 21:12 (UTC) 」と表明している通り、今後の記事の分離独立についての主導は他者にお任せしたいと前々から表明して居り、これは信長部分についても同様です。主導なさる方にはWikipedia:分割提案等の手続きはを着実に行い、ルール通り議論と合意を経た編集をお願いしたい次第です。
また、記事が分離独立した場合は完全削除ではなく、秀吉部分を主題とした形で前史・後史の表現の仕方への縮小化が必要と思います。記事が残らない形で縮小化する方向には反対です。--Yasumi 2010年3月30日 (火) 12:33 (UTC)

前に指摘しましたが、現状では、本記事では、

  1. 織田信長の四国征討計画
  2. 長宗我部元親による四国平定
  3. 羽柴・毛利連合軍による四国攻め(四国平定戦)
  4. 豊臣政権による四国国分
  5. 関ヶ原合戦時の毛利勢の軍事行動

の5つの内容を含んでいます。「四国攻め」「四国平定」いずれも、使用頻度は増えているものの、学術語としての定着は今イチであり、学術語であると同時に一般語のような用いられ方がされています。それゆえ、学術的には問題の多い「四国征伐」の語の使用も一部許しているような状況なのではないかと思います。そしてまた、「四国攻め」「四国平定」は内容的には一部重複もあるが、原義の影響もあって、完全に一致しているということではないようです。要するに、現状では本記事は「四国攻め+四国平定」という内容になっていると思います。3.に関しては、個々の戦闘に関する記事がほんの一部しか立項されていないので、今後は充実させていくべきでしょう。1.から3.に関しては同一記事のなかで扱ってよいと思います。しかし、「前史」「付属記事」なる語は使用せず、「本項では、信長の四国征討計画および秀吉の四国での軍事行動について扱う」というような書き出しにすべきと思います。

個人的には、4.と5.を「四国攻め」という名前の記事のなかで扱うのはどうかなと思っています。「輝元の四国攻め」なる語がYasumiさんの造語であることが判明した以上、項目名「四国攻め」の記事のなかにどうしてでも5.を含めなくてはならないという必然性もなさそうですし、これのみをもっぱら秀吉の四国平定戦の「後史」として扱うのも適切ではないでしょう。合意が得られるのであれば、4.以降を「四国国分」として分割し、その影響を列記してゆき、そのなかのひとつとして5.もあるとすべきでしょう。せっかくの加筆を損なわない方向での修正ということについては異議ありません。むしろ、『関ヶ原前夜』にも記された「四国取次」のことなどにもふれ、4.を詳述してゆくのが常道なのではないかと思います。いまWikipedia:執筆コンテスト/第六回執筆コンテストにエントリーしており、執筆とその準備で忙しいので、それが終わったら加筆していきたいと思っています。--Chokorin 2010年3月31日 (水) 01:21 (UTC)

お二人ともありがとうございます。順を追っておさらいしますと、まず、加筆前の本記事は「信長の四国攻め」「秀吉の四国攻め」を並列解説し、両戦役をつなぐ形で「長宗我部元親の四国統一戦」にもごく簡単に触れていました。この状態からYasumiさんは、本記事を「秀吉」を主題とする記事として定義し直した上で加筆整備し、現状ではひとまずできる範囲のことはやり尽くした、という所でしょうか。
そしてChokorinさんは、現在の記事の定義と構成について更なる改善の余地を見出しておられ、まず冒頭文を複数戦役を並列解説する形式に改めることから始めよう、という所でしょうか。ここまでで間違いがあればご指摘下さい。
Yasumiさんにお伺いしますが、冒頭文を複数戦役を並列解説する形式に改める(本記事の主題を「信長」「秀吉」の両方とする)ことについて、許容する意思はお持ちでしょうか。それとも、あくまで本記事は「秀吉」のみを主題とすべきとお考えでしょうか。私の意見を言わせて頂きますと、各論ではいくつか意見もありますが、大筋では両戦役を共に主題とする並列解説形式にした方が良いのではないかと考えています。いかがでしょうか。--Arawodas 2010年4月1日 (木) 13:59 (UTC)

  コメント 織田部分については、この節題のような「信長の四国制圧計画」や「四国制圧計画」、あるいは「四国派兵」と題して分割しようと思えばできるはずです。是が非でも分割を推進するわけではありませんが、記事のサイズを考えれば検討はされるべきです。また毛利部分については、事実上毛利氏が戦闘に入った地域は伊予のみなので「毛利氏の伊予攻略戦」であると言うことができ、やはりこの部分に関しては早急に外すべきです。さらに言えば、実際の戦闘は三津での奇襲戦と撤退戦だけですので、「刈屋畑の合戦」「三津浜夜襲」「竹原崩れ」「三津刈屋口の戦い」などを項目名にすることも考えるべきです。元々この部分は「独自研究的な戦役の位置付け」から来ており、Chokorinさんの言われるように歴史からの乖離状態になっています。このような状態を脱するには上記のような局地戦的な項目名として分割し、そこに周辺状勢として、毛利氏が豊臣政権を後ろ盾とし、四国全域への圧力をかけた政治過程を付記しても良いのではないでしょうか?--秋田城之介 2010年4月2日 (金) 14:19 (UTC)

  コメント前々から申し上げていますが、「前史」「後史」の語は冒頭に不用意に用いるべきではないと考えます。使う以上は、単なる「事件」ではなくて「歴史」になっていなくてはいけません。たとえば、「東京大学の前史」といった場合には、江戸幕府の聖堂学問所や蛮書調所などもろもろの幕府直轄の文教政策を掲げ、西洋文化導入という明治に入ってからの国家的要請についてふれ、学制や帝国大学令にふれ、というような一連の経過のすべてを説明しないと「前史」を説明したことにはなりません。単に「先行する事件」のことを「前史」とは呼びません。「秀吉の四国攻め」についても同様のはずで、そこに至る経緯や一連の歴史事象すべてを説明して「前史」を説明したことになります。ここでは、信長の事績はそのなかのひとつではあってもすべてではありません。信長の事績に関しても「四国攻め」の呼称が用いられる、というのは本来これとは別の話題のはずで、同じ四国という地域に対して天下統一をめざす勢力が出兵したという共通性から同じ語が使われているということにすぎません。別に信長の事績が秀吉のそれの「前史」だから同じ語が使われているわけではありません。違う話題がここでは強引に結びつけられてしまっているため、結果として嘘になってしまっていると思います。今すぐできることは、「前史」「後史」の記述を消すことです。それから、倭寇領主封建領主など、多義的なことばはその多義性を説明することもまた百科事典の役割ではないでしょうか。個人的には、分割を検討するならば、焦点はむしろ、「四国国分」の内容を「四国攻め」の記事に含めてしまっていいか? ということではないかと思います。--Chokorin 2010年4月5日 (月) 21:33 (UTC)(微調整)--Chokorin 2010年4月5日 (月) 21:45 (UTC)
2010年4月1日(木)13:59(UTC)のArawodasさんのお問い合わせに回答します。まず、やり尽くしたとは少し言い過ぎな感じです。四国攻めの加筆は天正の陣の記事統合を構想してのことでもあったため、改名により統合提案が視野に入ってきたところでした(「天正の陣」が伊予に限定された名称との出典も見ましたし)。次に「冒頭文を複数戦役を並列解説する形式に改める(本記事の主題を「信長」「秀吉」の両方とする)こと」についてですが、従前の議論で論点を秀吉部分の記事と定義し、出典調査を行い、当面は四国攻めと改名することは合意済みですが、秀吉部分とは別に今回新たに信長部分を「節題から記事名に昇格させて、単に四国攻めという記事名で呼ばれる記事」として取り扱うには心の準備が出来ていません。信長部分の記事の定義は?範囲は?出典では何と呼ばれているのか?この辺の事は未議論であり、それなりの根拠を持った議論と合意が必要かと思います。つまり現状で、出典より作られた記事をまとめた「節題(記事の段落名)」と、考慮すべきガイドライン(Wikipedia:記事名の付け方#歴史的事件)があって出典呼称に左右される「記事名(百科事典の項目名)」を別の論理で同様に取り扱うことに抵抗を感じます。例えば、手元にある論文で「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵--信長・秀吉の四国進出過程をめぐって」尾下成敏・2009年でも「(主体者名)」が明記されていたり「四国」単位であったり「阿波」特定であったり、そして「攻め」なのかどうかも問題です。
地域通史の説明であれば並立や鼎立が望ましいのかもしれませんが、百科事典としては本来は一項目づつの別々の歴史事象ですし、私が編集する前の節題(「第一次四国征伐」「第二次四国征伐」)の頃から他記事から別の概念で各々リンクされていることからも、明らかだと思います。私は信長部分と輝元部分については、秀吉部分との関連から記事が派生して成長中の付属記事であり、将来加筆されて独立記事となる過程であるが故に同居状態にあった、認識をしています。なお、信長部分・輝元部分を分離するかは今後の議論次第となりますが、以前述べたとおり分離提案が提出されて独立記事となった場合、どちらも単なる「四国攻め」と呼ばれる独立記事であればWikipedia:曖昧さ回避に則った解決が必要だと思います。
(前後史について)Chokorinさんと秋田城之介さんの発言から、大きな齟齬をきたしているように思わざるを得ません。まず、私は冒頭文で「あわせて・・・」以下で信長部分だけが前史であったり、輝元部分だけが後史であるという主題の前史後史を規定するような説明はしておらず、単に百科事典の一項目の当記事内に主題の他に被直リンクを内包する前後史の副題2題が配置されていることを整理しているだけです。むしろ両氏の主張の方が「前史は○○であり、後史は××である」という独自研究に基づいた範囲設定をしているように見えます。だから、元々そのようなことの書かれていないの一々「信長部分は付属歴史ではない」などと明記するメリットがわかりません。当方は主題の他に2題があることが示せればよいので、趣旨からすると「前史後史」の文言を削除する提案の方が妥当な気がします。また、我々は記事に対する議論をしているはずなのに、独自研究による規定を交えて歴史や国語に対する議論をしていることが歴史と記事混同に見えるのですし、また記事を完成状態と見做して議論展開をしている事にも違和感を覚えます。従って、より不親切になるかも知れませんが、冒頭文から前史後史の語句を除去すことには同意可能です。しかし、記事に必要な前史後史の範囲を独自研究で規定することには反対です。--Yasumi 2010年4月6日 (火) 11:14 (UTC)

いくらかでも議論が前進したと言えるかもしれません。さしあたって、冒頭文から「前史」「後史」の語句を除去しましょう。この語があるから親切などということは決してありません。--Chokorin 2010年4月6日 (火) 13:21 (UTC)

当初予定されていた議題優先度の整理がないまま、なし崩し的に議論を進めてしまったような気がしますが、本件を片付けるのであれば、合意形成手続きを取りましょう。本件を主導するChokorinさんに、具体案と諸手続をお願いしたいですがよろしいでしょうか?--Yasumi 2010年4月6日 (火) 21:02 (UTC)

Yasumiさんのおっしゃる「本来は一項目づつの別々の歴史事象です」に関しては、全員の合意がとれていると思います。また、冒頭文から「前史」「後史」の語句を除去する件については、Yasumiさんが「同意可能」とおっしゃっているので、もし、同意まで進まれるのでしたら、他に異論がないようですのでここも合意成立とみなしてよいでしょう(もし、御異論あればお示しください)。とすれば、次は、

  1. 別々の歴史事象である「織田信長の四国攻め」と「豊臣秀吉の四国攻め」を同一記事内で扱うかどうか。
  2. 「四国攻め」のなかに「四国国分」の内容を盛りこむべきかどうか。

の2点を話し合うということでよいのではないでしょうか。 1.に関しては、Yasumiさんと秋田城之助さんが別記事で扱うべきという御意見、Arawodasさんと私、それから影綱さんも同一記事で扱った方がよいのではないかという意見だと思います。これについては、さらに議論を継続すべきでしょう。 2.に関しては、わたしは、そこの部分こそむしろ分けるべきだと考えており、これについて意見を述べているのは今のところわたしだけです。みなさまの御意見はどうなのか、広く御意見を募りたいと思います。--Chokorin 2010年4月6日 (火) 22:18 (UTC)

僕は本来客分ですので、どなたが主導されても構いません。また、Chokorinさんの言う1.については僕の位置づけは合っていますし、2.については、「分けたほうがいいだろう」という立場です。--影綱 2010年4月7日 (水) 00:25 (UTC)
Chokorinさんへ。いえ、そういうことではなく。私もよく突っ走ってしまい申し訳ないですが同じく、Chokorinさんの2010年4月6日 (火) 22:18 (UTC)のような「論題の一括化」と「他社意見の見做し行為」でなく、数多い課題のうちから具体的な合意点を明示して Wikipedia:合意形成(ウィキペディア日本語版の考慮すべきガイドライン)の手順を踏みましょう、ということです。
例えば、近々で合意が取れそうなのは「前史、後史」表記の除去ですが、これとて具体的文案を提示して賛否を募って修正を行い、合意形成期間を経てから編集する必要があると思います。
今後の論題については優先順序から話し合うとの予告でしたが現状はそのようになっていません。どうもChokorinさんの提案以外の課題と切り口がすっぽり抜け落ちており、誘導的展開に思えます。我々が来る以前からの論題も過去ログにはあるのですから、論題抽出と優先評価は平等に行っていただけないでしょうか。
また、「百科事典としては本来は一項目づつの別々の歴史事象」についても前史後史の論題のように、なし崩し的に始めるのではなく、優先採用されるべき論題と決めてから方向性の合意なり具体案の合意をするべきでしょう。そして、これへのChokorinさんの解釈経緯が不明ですが、ミスリードされて迷惑です。私は単純に「別記事で扱うべき」という主張をしていませんし、逆に単純な反対もしていません。信長部分と輝元部分の二つの独立化論題を同時発進させるのもどうかと思います。また四国国分の独立問題も論題拡散に繋がります。当初の過去ログと白紙化の前提通りに論題と優先順位を整理した後にスタートさせましょう。これらは、根拠や編集手法それから議論の場自体からして賛否の分かれそうな問題です。当面目処のついた、前史後史表記の改善に着手することを妨げませんが、再度になりますが手続き通りの実施に取り掛かっていただきたいと思います。--Yasumi 2010年4月7日 (水) 11:14 (UTC)

さしあたって、私が提示した

  1. 別々の歴史事象である「織田信長の四国攻め」と「豊臣秀吉の四国攻め」を同一記事内で扱うかどうか。
  2. 「四国攻め」のなかに「四国国分」の内容を盛りこむべきかどうか。

の2点を議論しましょう。1.に関して、Yasumiさんが、単純に「別記事で扱うべき」という主張でもなければ、逆に単純な反対もしていないというのであれば、では、どういう意見なのか。それを明快に御説明ください。2.については、「四国国分」の内容をもし本記事に含めるのであれば、現状の「四国攻め」という記事名ではなく「四国平定」の名称の方が適切だと考えます。そう考える人間がいる以上、そこを分割せずということなら、再改名も検討の対象となるでしょう。改名・統合・分割いずれにしても、この2点は骨格にあたる重要な議論になります。他の問題は、この2点が合意されないうちは、むしろ話し合うべきではないでしょう。--Chokorin 2010年4月7日 (水) 12:37 (UTC)

Chokorinさんが独自に選択した論題(しかも複数!)のなし崩し的な議論スタートは議論拡散を招くため不同意です。 代案として、Chokorinさんも賛成したはずのノート:四国攻め/Log1#仕切り直しと過去ログ化の方法についての合意と精神に基づき、「今までの議論と今後の必要性を踏まえ、A.まずは議論すべき論題の抽出と整理を行い、B.次にその中から最優先論題を選択する議論をすべき」と提案します。 拡散した論題の整理はノート過去ログ化以後の当然の筋であると思いますが、本件について合意形成を行いたいと思います。(なお、前史後史標記の削除についての処理を優先することも考えましたが、具体的合意形成の働きかけが無いことと冒頭文具体案・タグ剥がし条件等の実務議論を内包するため、やはり論題整理後の議論としたいと思います)--Yasumi 2010年4月8日 (木) 10:42 (UTC)

あなたは、今後加筆する予定がないみたいなので、何も無理して議論に加わる必要はないと思いますよ。せっかく議論が前進しているわけですから、水を差さないでいただきたい。「不同意」というのならば、上に掲げた2点についてあなた以外の方の御意見をうかがうまでのことです。それをうかがってから、「議論すべき論題の抽出と整理」をやっても一向にかまわないでしょう。「議論のための議論」など、どうでもよいことのはずですから。それこそ、後回しで結構。他に話し合ってほしいことがおありなら、それを掲げていただければいいわけだし、優先してほしい論題をあるのならば何故優先すべきなのかを筋道立てて説明してくださればいいだけのことではないでしょうか。--Chokorin 2010年4月8日 (木) 13:17 (UTC)

論題整理を優先実施する方針への合意形成 編集

前段のノート白紙化合意の精神から、各論に入る前に今までの議論と今後の必要性を踏まえ、A.まずは議論すべき論題の抽出と整理を行い、B.次にその中から最優先論題を選択する議論をする。この方針について合意形成を行いたく、賛否の表明をお願いします。

  • (賛成)
  • (反対)
    • (反対意見の方は本行削除の上、著名ください)
  • (コメント)
    • 「今後の記事設計と立場・加筆表明」ということで節を立てられたのは、ほかならぬYasumiさん御自身でしたから、まずは各自による立場表明・加筆表明が出尽くすこと、出尽くしたかどうか見きわめることが大切であり、出尽くしていないなら出すよう促す必要があります。出尽くしたと判断したなら、そこから互いの共通点や相違点を確認し、妥協できる部分は詰めていって合意を形成するのが順当であり、また、確実なやり方でもあります。自ら架けたハシゴを、途中から外すようなYasumiさんの行為は理解できませんね(笑)。投票する意味もないと考えます。--Chokorin 2010年4月8日 (木) 13:57 (UTC)(加筆修正)--Chokorin 2010年4月8日 (木) 15:19 (UTC)
    • 投票の意図が良くわからないのですが。yasumiさんは『仕切り直しの為のまとめ(案)』に沿って、そこから選抜して議論をやりたいということでしょうか?--秋田城之介 2010年4月17日 (土) 04:16 (UTC)
    • Chokorinさんへ。何れにしろ状況が実効的であれば結構なことです。また反対されているわけでもありませんしねえ。しかし、またもや暴言ですか?我田引水な他者意見の読み間違いについても合わせて善処頂きたいですね。ついでに指摘がないので言わせて貰いますが、Chokorinさんの連続投稿はWikipedia:同じ記事への連続投稿を減らすを考慮されていないように見えますし、実際に編集競合の影響は複数人に渡っていますので、これらに改善の意思を示していただきたいです。--Yasumi 2010年4月23日 (金) 12:03 (UTC)
    • 秋田城之介さんへ。投票というより方針についての意見表明です。(案)については、かつて整理を試みたものですが特に拘泥するものではありません。議論を開始するのであれば、前回の教訓を生かして、自己解釈やなし崩しで話を広げることなく、合意を先立てて前提となる共通認識や問題点を整えて(あるいは、認識差異を明確にして)、途中参加者等への間口を広げておこう、と言うことです。当たり前なことですが、「仕切り直しの前に」節がノートに設置されて以来の状況が逆走していたため再確認しているわけです。--Yasumi 2010年4月23日 (金) 12:03 (UTC)
      • 議論の主導権争いというわけではなさそうですが、議論参加人数が少ないので、これが有効かどうかと言われると疑問ですね。たしかに論点の整理は重要ですが、Chokorinさんの提示した議題が優先すべきものであること自体に意義があるわけではなく、Yasumiさんは手続きを重視しているわけですよね?意見や立場が出尽くしていないということでしょうか?--秋田城之介 2010年4月23日 (金) 13:18 (UTC)
        • その通り、手続きの明示化です。何と何を比較して優先する議題なのかハッキリさせる必要があるでしょう。議論には様々な切り口がありますが、例えば前段の議論の冒頭でも確認か為されたように、特に変更論題を含む場合は本記事の定義を共通認識とする合意はかなり重要かつ必要であると考えます。--Yasumi 2010年4月30日 (金) 18:50 (UTC)

議論すべき論題の抽出については、ほぼ終了しているものと認識しておりました。1.織田信長の四国征討計画、2.長宗我部元親による四国統一、3.羽柴・毛利連合軍による四国攻め(四国平定戦)、4.豊臣政権による四国国分、5.関ヶ原合戦時の毛利勢の軍事行動 という5つの項目をどこまで分離し、どのような項目名を付けるかが問題である・・・・・ということは共通認識であると思います。1.と3.を同一記事内で扱うべきか、3.の中に4.を含めるべきか、というChokorinさんの案はこれらを簡略化したものであると私は考えますが、Yasumiさんが 2.及び5.に関して優先的に議論すべきであるとお考えであれば、まず意見表明していただきたいです。私としては5.をまず分割すべきだと考えていましたが、本記事3の扱うべき範囲を前もって決めてからでも遅くはないかなと思います。--秋田城之介 2010年5月3日 (月) 13:37 (UTC)

GW中、ずっとネット環境になかったので、迂闊にも秋田城之介さんの書き込みを見落としておりました。申し訳ありませんでした。5.だけを切り離すというのは、関ヶ原の戦い側からフラれたとのことですし、といって単独記事にするとしても、定まった用語がない以上、適切な項目名がないという困った状況にあると思います。わたしとしては、以前にも書きましたが、4.と5.を「四国国分」という名称で切り離して、内容的には〈四国国分+四国の近世化〉にふくらませて、そのなかで毛利の軍事行動もふれるようなかたちにするのが、一番無理がなく、また無駄も少ないように思います。みなさんに賛同していただければ、「四国国分」の記事を書いてみようかとも思うのですが、いかがでしょうか。--Chokorin 2010年5月12日 (水) 14:26 (UTC)

2009年10月のYasumi編集について報告 編集

本節は過去ログ化された議論で照会を受けていた事項への報告であり、議題拡散を防ぐための「上節の仕切り直しの前の整理」が完了又は合意変更を受けるまでは、本報告を基点とした議論を行わないで下さい。
四国攻め#毛利輝元の四国攻め(関ヶ原の戦い)部分について--Chokorinさんの2010年3月7日 (日) 03:27 (UTC)より、『質問1.「輝元の四国攻め」なる語は要するに、あなたの造語なのか』『質問2.造語であるとしたら、まずは、あなたが何故そのような言葉を考え出して節題としたのか、』『質問3.関ヶ原における毛利勢の四国での軍事行動を1585年の秀吉の四国攻めの「後史」として扱った文献があるのか』等の質問を受けていました。
当面の回答として、記事の出典は光成準治『関ヶ原前夜』2009年であり、1.出典元で表現された語句をダイレクトに引用した節題でるか?あるいは出典元の内容をまとめた節題(造語)であったかを半年弱の経過時間もあって思い出せないので、再度出典に当たる旨を表明しました。長らく蔵書が見あたらず、図書館に行く機会もなかなか得られませんでしたが、ようやく実施できたので報告します。
回答1.出典元の内容をまとめた節題(造語)でした。
回答2.出典の『関ヶ原前夜』では第一章で輝元を含む秀吉死後の対立抗争、第二章では輝元を中心とした関ヶ原中央情勢への関与、第三章で輝元による西国の関ヶ原周辺戦への関与を書いています。このうち、第三章のまとめ部で「以上のように、輝元は四国から北部九州に至る広範囲で侵略行為を計画・実行している。」とあり、特に記事は四国部分についてのまとめですから今回の節題としました。他にも文中に「四国・九州の他大名領に対する輝元の行動」「四国への出兵」等の表現があります。節題については今でも妥当であったと思いますが、今後の議論で合意された比較優位の節題となっても別段構わないと思います。
回答3.同書では関ヶ原側を主体としてた前史として毛利-豊臣交渉窓口としての蜂須賀ライン、毛利から河野への浸透(婚姻と援軍)、河野家臣を温存した伊予の小早川統治が記述され、四国攻めで変容されてしまった中世的在地領主達のその後か書かれています。具体的には四国攻めで断絶した金子氏(金子元宅)の他、河野通直・出淵氏・垣生氏・能島村上氏、村上吉継、村上吉郷・平岡氏・曾根景房・西園寺公広・久枝又左衛門・宍戸景世(河野通軌?)・村上元吉・萩森元教・兵頭正言・武井宗意・宮内休意・津々喜谷氏・大野氏・正岡氏・山田氏・三瀬六兵衛・栗田宮内などの四国勢力のその後が触れられています。
回答3追記.「先におこったから前史で、後におこったから後史だなどという馬鹿な話はないわけですし、」どこが馬鹿な話なのか理解しかねます。冒頭文については、本記事は秀吉部分を主題として構成されてきたウィキペディアの記事であり、かつ信長部分及び輝元部分についての独立記事がない現状を鑑み、信長節へのリンク(例えば織田信孝丹羽長秀本能寺の変)が作られているし・作られるであろうことを念頭に、冒頭整理を行っているだけです。秀吉部分の前史や後史の定義をするものではありませんし、当時の記事で主題記事の他に副題記事が2個記載されていることを説明するのが目的であり、弊害が大きいのであれば比較有利な代案を以て議論と合意で変えれば良いだけの話しです。--Yasumi 2010年3月30日 (火) 12:33 (UTC)

ノート:四国攻め/Log1の投票者を対象とするCU依頼の準備 編集

2010年2月に実施した改名投票について多重アカウントによる不正投票が疑われるため、Wikipedia:コメント依頼/Machine gun他#ノート:四国攻め/Log1の投票者を対象とするCU依頼の準備にてWikipedia:チェックユーザーの方針#日本語版でのチェックユーザー情報公開規定の第3項を基礎とするチェックユーザー依頼を提出する方向で調整を行っていることを告知します。--Yasumi 2010年5月5日 (水) 02:45 (UTC)

Wikipedia:チェックユーザー依頼/トーク:四国攻め/Log1#改名投票者にて調査投票締切後のCU依頼を提出したことを告知します。--Yasumi 2010年5月29日 (土) 11:56 (UTC)

出典と内容の表現による修正について 編集

Yasumiさんにお願いです。この編集では「出典と内容の表現により修正」をしていただきまして、まことにありがとうございました。つきましては、Yasumiさんの造語であったという「毛利輝元の四国攻め」という用語も出典と内容の表現により修正をお願いします。また、「信長の四国攻め」が「秀吉の四国攻め」の「前史」である、「毛利輝元の四国攻め」が「秀吉の四国攻め」の「後史」であると記した出典がもし存在しないのであれば、表現の御再考をお願いします。--Chokorin 2010年5月10日 (月) 21:47 (UTC)

Chokorinさんへ。織田・徳川同盟については出典も内容(実態)も一致しており、織田信雄が主体であるために編集いたしました。「毛利輝元の四国攻め」については本節記事にマッチした直接的括りが出典になく、出典内容から主体を「毛利輝元」、対象を「四国」、形態を「攻め」とまとめて表現したものです。今でも節題は「毛利輝元の四国攻め」であっても問題ないと認識しています。ただし、特にこのまとめに拘泥するものではなく、代案として出典と記事内容に相応しい節題があるのであれば、別途比較協議と合意を以って節題改名に同意したいと思います。
冒頭文の「あわせて本項では・・・」以降の後半部(織田・毛利記述の説明)について、この件は私が仕切り直しの議題として提案している本項目の定義に関わることなので、この議題を優先して合意するのであれば一番結構なことです。そうでなく、現状冒頭文の後半部の表現の弊害が大きいということであれば、即決で同意できるのは、ひとまず後半部の「あわせて本項では・・・」以降を削除することです。私としてはちょっと不親切のような気がします。他の人の意見もあるかもしれませんが、先行処置が必要であるとすれば後半部削除ということでよろしいでしょうか?--Yasumi 2010年5月12日 (水) 12:44 (UTC)

御返答ありがとうございます。まず冒頭部分で「四国攻め」とは「羽柴・長宗我部戦争のことである」と定義しておきながら、「毛利輝元の四国攻め」というふうに「四国攻め」の用語を用いるのは、単純に矛盾していませんか。もちろん、「毛利輝元の四国攻め」と言って間違いというわけではないんでしょうが、適切か適切でないかで考えると、読み手に混乱をあたえる怖れがある(現にわたし自身混乱しました)ので、あまり適切でないように思います。出典がないのであれば、「1600年の毛利輝元の四国での軍事行動」とか「四国への出兵」とかというような表現を用いて、脚注を付して、—— 参照した『関ヶ原前夜』では「四国から北部九州に至る広範囲」な「侵略行為」、「四国・九州の他大名領に対する輝元の行動」、「四国への出兵」等の表現が採られている —— というふうに説明してやると親切だと考えます。それから、もうひとつお考えいただきたいのは、Arawodasさんのお調べになった結果によれば、「四国攻め」は何も秀吉の専売特許ではなく、信長の軍事行動にも使用するようです。とするならば、「四国攻め」=「羽柴・長宗我部戦争」という定義も、不充分な定義ということになるのではないでしょうか。こちらは、輝元の場合とは違って、出典もありますので、それが一読してわかるような書き方をするべきなんじゃないかと思います。「四国攻め」とは「信長による長宗我部元親征討計画および羽柴・長宗我部戦争である」あるいは「四国制圧を目的として計画あるいは実行された織豊政権による長宗我部攻略戦」というような定義の仕方が適切だと思います。そのうえで、ここでは「輝元の軍事行動も扱う」とすれば、混乱はないでしょう。さらに、「資料によっては四国征伐、四国征討、四国の役、四国平定、南海征伐などの呼称も用いられる」の部分は、前掲のArawodasさんのお調べになった結果を脚注で示しておくと、読者にとっては親切なんじゃないでしょうか。--Chokorin 2010年5月12日 (水) 14:03 (UTC)

冒頭定義文の後半部の「あわせて本項では・・・も記述する。」は同居記事の便宜をはかった上での紹介であり、前半部の定義と接続詞により分別されているので矛盾を感じませんが、どこが矛盾しているのでしょうか?それと後半部の一括削除提案については賛成されないのですか?--Yasumi 2010年5月16日 (日) 12:18 (UTC)

輝元・信長の節題について 編集

Chokorinさんには申し訳ありませんが、節題変更と家康の四国国分について、一度元に差し戻させていただきました。理由は1.見出しとして冗長。2.節リンク不修正のため。3.家康の四国国分一覧は削除しなくとも良さそう。などです。確認と合意ができればそのまま変更しても良いと重いのですが、特に2項は多数の記事から節リンクされているので参照不能となって困ります。かねてからの問題点でもあり、節題は合意してからの変更としましょう。他にも事前提示をしないと問題が出るかもしれませんし。
さて、理由が分かりませんが察するにChokorinさんは項目「四国攻め」に節題「・・・四国攻め」があること、それ自身を問題視しているのでしょうか?これについて当方は、それほど拘っていない点なので、それのみが問題であれば「毛利輝元の四国侵攻」(問題提起タイトル、土居聡朋「関ヶ原合戦における四国侵攻と武井宗意」2007年)や「毛利輝元の四国出兵」(文中表現のまとめ、光成準治『関ヶ原前夜』2009年)などでも良いと思っています。(後者だと四国攻め以前の伊予河野氏への梃入れ出兵にも多少力点が移るかも?)
ついでに、信長部分も重複を避けるために「織田政権の四国進出」と変更しますか?出典には論文名で尾下成敏「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵--信長・秀吉の四国進出過程をめぐって」2009年や、節題で橋詰茂「四国進出への布陣」(『瀬戸内海地域社会と織田権力』)2007年などに扱いがあります。四国攻めを限定使用することの意義が今ひとつよく理解できていないのですが、どうでしょうか?--Yasumi 2010年7月21日 (水) 13:29 (UTC)
実は、「四国国分」を以前から執筆していて、もうアップしてもよいくらいになっているんですが、その際、輝元の軍事行動にも少しふれるつもりです。しかし、Yasumiさんに紹介していただいた光成準治『関ヶ原前夜』2009年には「輝元の四国攻め」に類した表現はありませんでしたので、節題を変更させていただきました。ただ、見出しとして冗長だというのは確かにYasumiさんのおっしゃる通りで、「輝元の四国出兵」案は受け入れられそうです。信長に関しては「四国攻め」の表現は確認しましたので、現状でよいと思います。以前、話題となった、秀吉のことを扱うと定義したうえで「前史」として信長、「後史」として輝元を扱うというのは、やはり、理屈として苦しいのではないかと思います。「前史」というのは、確かに「先行する事件」という意味もありますが、それだけに限定されるのではなく、むしろ、それを引き起こす(それが成り立つ)ような一連のプロセスや状態という意味合いで受けとられることが多いのではないかと思います。本稿では、信長・秀吉について扱うとしたうえで、(四国攻め→四国国分)の影響の一つとして輝元の軍事行動があるというかたちの構成にした方が、四国国分の歴史的意義がより明確になるのではないでしょうか。「家康の四国国分一覧」は以前、わたしが加筆したものですが、新しい項目「四国国分」にあった方がよりふさわしいのではないかと考え、重複を避けるために削除いたしました。このへんは、ちゃんと説明しなくて申し訳ありませんでした。それはそうと、新しい分割提案も出たことですし、以前の議論は停滞してしまっていますから、過去ログ化してもよいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。--Chokorin 2010年7月22日 (木) 12:57 (UTC)
節題の変更と関係リンクを修正しました。織田政権の四国進出については秀吉の四国攻めとはまた別の要因で起きているので、必ずしも前史であるかというと解釈の余地あります。影綱さんも当初はプレ四国攻めであるとの認識だったようですが、後に認識を改めています。その辺の事情は関係出典をあたれば、だいたいご理解いただけるのではないかと思います。過去ログ化については特に反対ではありません。--Yasumi 2010年7月24日 (土) 21:45 (UTC)
おっしゃることは理解しているつもりですが、本文中に「前史」と書いてしまっている以上、「プレ四国攻め」という認識をむしろ読み手にあたえてしまっていると思います。なので、この記事では信長・秀吉の双方について扱うこととし、必ずしも「信長の四国攻め」が「プレ(秀吉の)四国攻め」ではないよということを説明した方が親切ではないかと思うのです。--Chokorin 2010年7月24日 (土) 22:13 (UTC)(微加筆)--Chokorin 2010年7月24日 (土) 22:19 (UTC)
ページ「四国攻め/Log2」に戻る。