過去ログ1 過去ログ2 過去ログ3

なるほど、でもこれだと、過去の議論に対してのコメントが出来ないのと、過去の議論の整理が出来ないですよね。残す必要のないボクの発言は消しちゃおうと思ってましたが。もし、これが一般的なやり方なら、過去ログリンク化する前に必要のない発言は消したい気がします。まあ、普通の掲示版では過去の発言の訂正はあまり出来ないですからこれでも良いですが。

過去ログの発言に対するコメントは、『過去ログ1の「……」に対してですが、』と一部引用して、続ける感じでしょうか?--Setu 02:48 2003年4月9日 (UTC)

こんにちは。発言を消したい場合には、次のようにすれば可能ではあります。
  1. リンクされている過去の版を一回現行版と差し替える。
  2. その現行版から取り消したい発言を消去する。
  3. 次に、差し替える前の分(今の僕の発言が含まれているもの)を履歴からたどって現行版と差し替える。つまり、このやりとりを復旧させる。
  4. 最後に、ページ上部にあるリンク先を、各種発言を削除した後の版のURLと取り替える。
僕はどちらかと言うと何でも保存しておきたい性分ですが、過去のやりとりの経過が歪曲されるなどの問題がなければ別に一部の発言を削除するのもいいのではないかと思います。(いずれにせよ履歴には残るわけですが。)
あと、個人的な批判の応酬などがあった場合には、解決した時点でそれを消すことで当事者間のわだかまりが残らないようにする、いつまでもさらし者のようにならないようにする、ということを推奨しているのを英語版のどこかで読みました。批判した点が改善されたらお礼を書き込むとか。それも一案かと思います。まあSetuさんは他人の批判はしないようなので関係ないかも知れないですが、「全てを保存しなければならないわけではない」という考え方のよい例ではあるかと思います。
Tomos 06:19 2003年4月9日 (UTC)

Sutouさん、原理主義という言葉が印象悪かったみたいですね、ごめんなさい。原典を判断基準とする宗教的立場の一つという意味で使いました。宗教を全体として見ると原典は構成要素の一つにすぎませんし。
Setuさん、「探求(世界の仕組み、倫理、超自然的なものの事だとして)」「信仰」を全ての宗教に共通とすると小規模な宗教の多くを記述できなくなってしまいます。文化の構成要素の一つとして宗教をとらえる場合ですが。snufkin 15:23 2003年4月11日 (UTC)


誰も手をつけないようなので、思い切った編集をしてみました。内容はともかく、文章としては多少わかりやすい編成になったかと思います。ただ、僕が理解できなかったもの、「この記述はどういうねらいがあってここにあるのだろうか」と思ったものなどは採り入れられなかったので、もう一度(新しいセクションなり、しかるべき場所なりに)追加して下さると助かります。

こういうのは余りいいやり方ではないと自分でも思うのですが、余りに散漫な記述、不自然な流れなどが目立ったので。。

Tomos 00:58 2003年4月14日 (UTC)


ああ、既に変更されてる! Wiki化不完全な没原稿、僕の個人ページに載せましたので参考までにご覧ください。一応、可能な限り原文を残して、そのためあんまりまとまっていない文章です。i_t 15:51 2003年4月14日 (UTC)


Tomosさんの勧めに従い個人ページから移設しました。気になった点を何点か。
まとめるとき、一段落に2~3の話題が混在しており、それぞれの話題について別の個所で言及されていると、編集が難しいです。例えば

  • 『また、宗教は価値観や世界観、思想的な傾向を提示する』だけではなく、『物事の概念を明確化する働きもある』。

のような書き方です。自分で書いた文なんですが。 書いたときには前後の分のつながりを持たせるために必要だったものが、付け足しが加えられていくうちに前後のつながりが無くなり、編集を難しくする原因になります。 今回上書きしてしまいましたが、、、直前のTomosさんのように、小見出しをつけて話題をばっさり区切るようにしたほうが、修正も編集もしやすいですし、話題が膨らんだ時に別項目を立てやすいので良いでしょう。(僕は、一文を分解しながら再構成しました。)

snufkin さん、i_tページへの書き込みありがとうございました、、のに、あの場での話題が、うまく反映できてません。ところで「安易」の件ですが、「民族宗教」と「世界宗教」は、たいがい対で類型化されていますけれども、「新宗教」は既存宗教なり伝統宗教なりと類型化されていると思いますので、毛色の違うものを一くくりにしないほうがいいと考えたからです。特に、一見するとsnufkin さんの指摘のとおりにしたほうが文章が綺麗になりっますから。i_t 17:22 2003年4月16日 (UTC)


I_tさん、ありがとうございます。

話題を切る方が編集がしやすい、という感触は僕も持っています。 特に、後から誰かがちょとした記述を付け足したい場合などは、短い文やリストから構成されている記事 の方が楽にできる、という印象があります。ちょうどWikipedia:短い文とリストを使用というファイルがあるので、そこに書き足そうかと思ったぐらいです。

本文についてですが、一番気になる点についてひとつだけコメントさせて下さい。 「宗教を広義にとらえるならば、社会や文化や生活、思想や道徳など、全てが含まれるといえる。」 という発想は
宗教は「信仰の内容を構成する思想」なり「信仰の対象となる思想」なり「人間の様々な営みの背後に見られる思想」だという発想とちょっと齟齬をきたしているような気がしています。
僕は素人考えかも知れませんが、宗教は思想(ものの考え方)の一種だろうと思っていました。そして、思想は社会ではないように思います。社会は、ある地域・時間の人間の活動の総体を指したり、それによって成立しているひとつのシステムを指したり、あるいは(経済や政治と区別された)人間の一部の活動を指したりするとされることが多いように思いますが、社会とは思想の一種である、社会とは宗教の一種である、というような命題はかなり成り立ちにくいと思います。(勘違いだったら済みません。)
宗教の定義として「思想の一種」という位置づけがよいのか、「様々な活動と、その背後にある思想を指す」という考え方がよいのか、たぶん僕よりもうまく判断できる方がいると思うのですが、統一するなり、あるいは狭義に宗教と言うと思想の一種になるが、広義にはその思想に裏付けられた実践も含む、というような説明があるといいんじゃないかと思います。いかがでしょうか?

何だかあわただしい書き込みですが、とりあえず今回は以上で。今後もみなさんの編集が続くのを楽しみにしています。

Tomos 04:14 2003年4月17日 (UTC)

  • Ltさん、編集ありがとうございます。ボクも途中サブタイトルが入って欲しいと思ってました。とりあえず不完全でよいのでサブタイトルを入れてみてはどうかと思います。タイトルを入れた後、また適当に文章を動かしても良いかと思います。
思想と宗教ですが、ボクは逆に宗教の方が思想よりも大きな概念かと思います。また、思想には宗教に含まれないものもあったり、宗教から思想として分離したり、宗教から発生した思想などもあると思います。思想が考えることだとすると、宗教はもっと生きることだと思います。当然、生きることには考えることも部分として含まれます。
また、宗教には考えずに直接生きることも含まれます。以前「わたしゃ、かんかえない(勘、変えない)よ」という浄土真宗の太母さんの言葉を聞いて「なるほど」と思いました。宗教の師匠が「哲学なんかするな。生きろ。」と言うのも聞いたことがありますし(その人は以前、哲学の教授をしていたりするのだけど)。
--Setu 05:42 2003年4月17日 (UTC)

Itさん、新宗教の扱いわかりました。ただ現代の宗教を考えるときに新宗教が不可欠なこと、従来の宗教観では扱いきれていないことなどから便宜上、大項目にしたら理解しやすいのでは、と思ったのです。今は引っ込めますね。
あと「宗教を広義にとらえるならば、社会や文化や生活、思想や道徳など、全てが含まれるといえる。」←社会は削除した方がいいのでは。snufkin 06:05 2003年4月17日 (UTC)

  • 日本では宗教は社会ではなくなっていると思いますが、世界的には宗教は社会であったり、社会的な生活や活動に影響が大きいと思います。とくに、ヒンドゥ教やイスラム教では社会という性格が強いように感じます。すくなくとも、インドではヒンドゥ社会とイスラム社会があり、住み分けがあるように感じます。シーク教徒やジャイナ教徒、ゾロアスター教徒はヒンドゥ社会に溶け込んで生活しているようです。
投票があれば宗教的な影響の多い票の動きになるとおもいますし、インドとパキスタンが分裂したのも、数の少ないイスラム教徒がヒンドゥ教徒に支配されることを恐れたためだし、こうなって来ると、宗教は社会そのものにも見えるときもあります。今、ヒンドゥ教の記事でカースト制度の関連の事を書いていて、ここの会話を思い出したので来ました。カースト制度などは社会以上のものにも見えないこともないです。
日本でも、戦中や戦前は宗教は社会を動かしていたというか、政治家が宗教を利用して動かしていたと思います。そこまで行かなくても、季節毎に決まった祭をしていた神社などは生活のリズムであったり、農業社会の大切なことだったと思います。「社会」という言葉の「社」は神社を指す言葉で、中国では「社会」とは言わないという話しも聞いたことがあります。
--Setu 07:43 2003年4月18日 (UTC)

Setuさん、僕あての質問に答えていただきありがとうございます。特に、インドにおける実情実感、参考になります。概念ばかり論じると空論になってしまいますし。

TomosさんとSnufkinさんが社会を宗教に含めるべきではないとのようですが、現在の社会学では含んではいけないのでしょうか?(Tomosさんは社会学関連の記事を書いているようですし、Snufkinさんは社会学を学んでいるようなので。)宗教が社会だというようなことは、社会学者のデュルケームが言い出したと聞いています。含めるべきではないという考えがあるならH根いさせるべきでしょう。(経済や政治との区別に対する疑問はイスラーム研究あたりから発生したと記憶しています。少し記憶が怪しいですが。)ただ、日本社会が宗教によって成り立っているわけではないので、「強く影響を与える」「関連している」くらいの表現にしたほうがいいのかもしれませんが。もちろん、強引に考えれば、(形式的だとしても)日本国家は天皇を中心とする。その国家の中で成立している日本社会は、宗教に含まれる・宗教によって成り立っている。とか、イエとか世間などの日本的社会を表す概念が日本人の自然宗教的考え方によって成り立ってなりったっているので宗教に含まれる、などといえないことも無いですが。

あとTomosさん、どちらかというと広義と狭義があべこべだと思います。狭義の宗教といえば、教典なり思想なりがあって、信者団体があって、その団体で守るべき戒律があって、儀礼がある、思想や個人個人の信仰心に明確に裏付けあられた活動一般を宗教と呼ぶと思います。ただ、そういう明確なものだけが宗教かというとそうとも言い切れない。宗教が、社会や文化や生活、思想や道徳のなかで、儀礼だとかものの考え方だとか人間関係だとか行動の中に断片的に顕在化する宗教もあります。顕在化した断片をたどれば、社会や文化や生活、思想や道徳は、ぼんやりと(あるいは明確に)宗教にくるまれてると言えてしまうと思います。

宗教は現状では「思想の一種」と限定できるものでは無いと思います。宗教の中に思想の一種という側面もあると思いますが。ただ、以下のような事情もあるはずです。

  • 明治時代に、事実上国家神道という国教のようなものがあり、一方対外的には日本は信教の自由を認めている事になっていました。そのため、政府が「個人の信仰心は自由。(だが社会的には自由ではない)」「神道は儀礼を行うが宗教ではない」という立場をとったそうです。この、神道を宗教としない定義の影響をを受けている。
  • 「教え」や元となる教典こそが宗教だとする、プロテスタント成立時の考え方。明治維新前後、つまり宗教という言葉が成立したころにはプロテスタント系の国の影響が大きかったため、その影響を受けている。

Snufkinさん、新宗教を大項目に切り出すのは賛成です、何をどう書くべきか難しそうですけど。「民族宗教」と「世界宗教」のほうはセットじゃないと意味ないですが。(個人的には今現在の日本で「世界宗教」「民族宗教」って分類がどれだけ意味があるのか疑問です。)

  • 見出しつけてないですね。明日から一週間、出張につき離れます。i_t 06:07 2003年4月19日 (UTC)
'社会'・・・やっかいな言葉です。宗教⊃社会、だと社会学は宗教を扱えません。あと、デュルケムは集団(ある意味社会)そのものが宗教的対象となる例を記していますが、あくまで宗教から見た社会の側面を指摘した上だと理解しています。宗教は信仰、思想の問題じゃない、という事を主張するために。
Itさんのお考えはよくわかりますし日本こそデュルケムが活写した宗教的社会のように感じるのですが、ずばんっと一語'社会'と書くと舌足らずな印象をもちました。いらぬ誤解や波紋を招くと思ったのであって、お考えを否定するものではありません。出張いってらっしゃいませ。snufkin 06:59 2003年4月19日 (UTC)

社会と宗教、狭義と広義の件

宗教が社会活動に影響を与えるとか、社会の具体的な様態を規定する、という意見については僕は全然違和感を感じないです。ただ、宗教が社会である、社会を含む、という表現の意味はよくわかりません。

例えば宗教は考え方の一種である、と僕は考えたわけですが、それと同じような形で、宗教とは社会の一種である、とは言えないように思います。ものの考え方の中にはマルクス主義やら新カント主義があり、仏教やイスラム教などの諸宗教もそれらと並んで考え方のひとつだと言えると思います。

それに対して、社会の中には日本社会だとかoo町の地域社会だとか国際社会だとかがありますが、キリスト教やヒンズー教はそれらと並ぶ社会のひとつだとは言えないと感じます。

ただ、宗教とは考え方の一種である、人の信仰の対象なり内容を構成している、という考え方は、「宗教をその教義と同一視していて、宗教活動が宗教の重要な構成要素だと考えていない」という点で問題があるような気もします。そこで、「信仰の対象なり内容を構成している考え方」および「そうした信仰内容と結びついている諸活動」という風に考える場合を広義の宗教と考えればいいのかな、と思いました。

何の考えや信仰もなく、単に生活環境上の理由である活動が継続している時(家から近いので歩いて学校に通っているとか、他の人が日本語という言葉をしゃべっている社会に生まれたついたからそれを習い覚えて使うようになったとか)にはそれが宗教になる可能性はなく、ある活動が宗教である場合には必ずそれが何かを信じることに結びついていると言えると思います。

また、仏教が何かとか、イスラム教が何か、という時に、「それはこういう教えのことだ」と説明することはできてもそういう「考え方」の部分を省略して「それはこういう実践のことだ」と説明することは不適切なのではないか、ということも考えました。つまり、宗教というのは第一に考え方であって、実践はそれと結びついている限りにおいて意味があるのだ、と。

で、何かを信じる時に、それが具体的な思想的決断だとか意識的な選択のような形をとらなくてもいい、もっと感覚的、直感的な形になっていてもいいと思います。(にもかかわらず「宗教は思想の一種」と書いたことは、僕のミスでした。思想というとどうしても考え抜かれた、体系化された考え方という含みを感じるので。)例えば「国家を信じていない人」が必ずしもあれこれ考えた末に国家を信じないことに決めるわけではなく、何となく不信感を感じつづけていてそれが言動の端々に反映されている、というようなことはありふれたことだと思います。僕は教義として体系化されている考え方だけを宗教として想定しているわけではなく、ぼんやりと感じられているだけだがその人の言動や発想を規定しているアイディアのようなものでもどうように宗教だと言えるのではないかと思いました。

この体系化vsぼんやりを軸に狭義と広義をわけてみてはどうか、というのがItさんの考え方だと思うのですが、そのアイディア自体はよいと思います。その場合には「宗教は狭義には考え方の一種で、広義にはそれと結びついた実践」という僕の図式は採用できないことになりますが、他のみなさんもそれでいいと考えるようなら僕は特に異論や不満などはないです。(あるいはもし後になってやっぱりおかしいと感じたらまたここに相談に来ることもできますし。)

ちょっと急ぎ足で書いたのであわただしい感じですが、以上です。Tomos 04:06 2003年4月20日 (UTC)


社会だけじゃなく、宗教も思想もやっかいな言葉です。非常に回答が難しいですね。 Tomosさんへ。Tomosさんの「宗教は考え方の一種である」とする考えは、どこで身につけられたのでしょうか。信仰や思想が先にあり、その付属物として諸活動や現実の宗教活動や人々の集まりをみなす考え方ですね。宗教の中には教典や信仰心をたいへん重んじるものもあり、そのような考え方を基準にしたものもあり、それらの視点からはTomosさんの考えが導き出せると思います。創唱宗教といわれる宗教ではこのような解釈もできない事はありませんが、自然宗教では思想が行為に先行すると考えることは難しいでしょう。(環境や行為が思想に先行することも多いと思います。)創唱宗教でも、実際には、思想と社会集団・行為は相対的なものです。「宗教は考え方の一種である」とする問題は広義・狭義の問題ではなく、どの定義を採用するのかという問題だと思います。Wikipediaとしては、並列に書くべきでしょう。

宗教が社会と切り離せない事例はそれなりにあります。例えばイスラームは社会や行動を含むでしょう。イスラームを説明するときに、「こういう教えのことだ」とするのはたいへん問題があります。また、インド(共和国)はたぶんにヒンドゥー教社会ではないでしょうか。また、神道、仏教を「教え」に限定するならば、日本の宗教のあり方は歪んでしまいます。

ですから、宗教そのものは必ずしも考え方ではありません。考え方は宗教に含まれるでしょうが。同じようなことは社会と宗教にも言えますね。

それで、僕自身が述べたい事は、「個々人の信じる宗教の定義に過度にこだわるべきではない」です。広く使われている宗教の定義には、おおよそ以下の三つがあると思います。(もっと他にも別け方があると思いますが。)

  1. 社会学や民族学・人類学、心理学や哲学などの学問研究による宗教の定義
  2. 国家による宗教の定義
  3. 思想や所属教団や育った環境の常識などによる、組織や個々人による宗教の定義

1番目は、コロコロ変わります。日本と欧米でも違うようです。今後も、有名な論文が新たに出る度に新たな定義づけがされていくでしょう。2番目は、国家神道との絡みで、明治時代に特殊な形で定義され、今に至っています。僕個人の予想では、Tomosさんはこの影響を強く受けているのではないかと思います。3番目は、、、人それぞれですし、宗教団体ごと、アンチ宗教団体ごとに定義されてますよね。宗教の定義を、この三つの中の、さらに特定の考えに限定するべきではないでしょう。一般的に信じられていること、それと、なるべく広い範囲を含む例をはじめのほうに提示し、あとは個別に記述するのがいいのかな。i_t 16:50 2003年4月27日 (UTC)


i_tさん、丁寧なお返事ありがとうございます。
「個々人の信じる宗教の定義に過度にこだわるべきではない」というご意見、もっともだと思います。
僕は知識も断片的で、偏りもある上、自分がどうして「考え方の一種」という定義に至ったのか自分でもいろいろわからない点があったので少し資料をあたってみました。
結果、宗教を簡潔に定義しようとすると、英語、日本語共に、信念とかbeliefというのが来るケースが最も多いように思いました。
ただ、僕個人としては、宗教活動の一部には、個々人による実践や、集団での儀式や、ひいては社会全体での特定の統治の形式や特定の政策の採用などが含まれる、という点についてはもちろん依存はないです。
それから、創唱宗教と対置されるところの自然宗教が宗教の一種であり、この宗教においては、何か明文化された考え方に基づいて実践が行われているのではなく、また、そもそも何かの考え方が時間的に先にあり、実践はその後からついて来るわけではないのだ、という点もその通りだと思います。
どこですれ違ったのかと考えてみたのですが、僕は「宗教とそうでないものをどう区別するか?」を考えていた(マルクス主義は宗教なのか、和食を食べることや日本語を話すことは宗教なのか、などなど。)ので、「宗教の主要構成要素は何か」という点についての注意が足りなかったのではないかと思います。

以上から、次の2つの対処法を思い付きました。但し、どちらかでなければならない、という意味合いのものではなく、前に書いた通り、これまで議論に携わって来られた他の方々の見解が一致するようなら僕としては恐らく異論はないと思います。あくまで参考までに書いているものだと考えて下さると助かります。

  • 対処案1.次のような点を明記する。(順序などは不問)(a)ほぼ全ての宗教に共通した特徴で、かつ、宗教ではない類似の物事には見られない特徴として、「神などをめぐる考え方で、信じることを伴っている」(より詳しくは既に記事にある通り)が挙げられることが多い。これにより、非宗教政治思想や非宗教慣習(日本で生まれた者が日本語を習得することなど)と宗教とが区別される。(b)個別の各宗教は教義などの考え方だけによって定義されるものではない。「考え方」は各宗教の一構成要素であり、その重みや実践との関係などは宗教毎に大きく異なっている。
  • 対処案2.次のような体裁をとる。(a)宗教はしばしば「神などをめぐる信念」などと定義される。これは宗教をものの考え方の一種として定義するものだが、他に個人の態度(超越的なものとの関係)、活動(礼拝など)、制度(寺社、教会など)の一種とされることなどもある。法的には(?)と定義される。一般に定義は困難である。(b)宗教の多様性に注目すると、定義が難しい理由がわかる。(以下、様々な宗教形態についての説明が続く)


それから、宗教と社会についても、似たようなことを考えました。僕は「宗教を広義にとらえるならば、社会や文化や生活、思想や道徳など、全てが含まれるといえる。」という表現が何を意味するか汲み取りかねていたのですが、それも「宗教は考え方の一種であり、習慣の一種である」などと「宗教とそうでないもの」の区別を念頭において読んでいたから「宗教は社会の一種だとは言えないのではないか?」と疑問を持ったのですが、(イスラム教社会を考え、社会の一種だとすることはできそうですが、イスラム教が社会の一種と考えようとすると違和感を感じました)i_tさんはむしろ宗教の構成要素について書いていたのだと思えば納得が行きます。
つまり、「あるひとつの宗教の構成要素として、ひとつの社会全体、文化、(以下略)などが全て含まれる場合もある」というようなことでしょうか。だとするとこれはよくわかりますし、僕のつたない知識で考えられる限り、よい指摘だとも思います。
議論の進展に貢献できるものになっていることを願いつつ、とりあえずは以上です。
Tomos 09:07 2003年4月29日 (UTC)

最近、肝心のページの更新がおろそかになってますね。Tomosさんへ。何を書くべきなのか見えず、的を外した回答かもしれませんがご容赦ください。また、僕が公正中立な視点を持っているわけではありませんので、何が正しいのか解答を求められても答えられません。あしからず。

「宗教は思想である。」と制限する定義は、構成要素と全体を混同するものであり、僕は間違いであると思います。(活動や団体や儀礼や体験や信仰を含まない、思想だけを取り出し、それを「宗教」とみなすのでしょうか?)宗教との区別でも、「宗教は思想の一種ではない」となると思います。一般的な解釈を書く辞書の一項目としてならばともかく、百科事典の説明には向かないでしょう。(これはあくまで僕の考えです。)(一方で、例えば明治時代、政策として「信教の自由」を「内面的信仰の自由」としたようなので、宗教を信仰・思想に限定するのも間違った定義とは言えないでしょう。)(ちなみに、あなたの個人ページを見て気になったのですが、過去の学者の意見の抜粋は、参考にはなりますが、あまり真にうけないほうがいいと思います。前後の論文などで主張したいことを定義するための定義であったばあい、一般化できるものではありません。)

ちなみにWebで公開されている国語辞典の「宗教」の定義を見ると、「心のはたらき。また、神仏の教え。」「信念・行動・制度の体系。」「教え」「人間の営み」「信念の体系」だそうです。神・仏・超越的存在・聖なるものなどにかかわるというようなことは大概の辞典にのっていますが、定義そのものはバラバラですね。ぼくは、これこそが宗教の定義の実情だと思います。(国語辞典は一般に信じられている用法を書くものであり、その定義は百科事典に使えるものではないですが、参考まで。)

beliefは、いわゆる「信仰」ですね。宗教を信仰と同義とするような考えは、ここ十数年は流行っていない(実情にそぐわない場合が多く使いにくい)定義だと思います。ただし、明治以降、比較的重要視されていた考え方でもあると思います。Tomosさんはどのような定義を参照したのでしょうか。情報源をまとめれば傾向が見出せると思います。その傾向を踏まえた上で、

  • 宗教はしばしば「神などをめぐる信念」などと定義される。(具体例を記入)(傾向を記入)。しかし実際に宗教という場合は、個人の態度(超越的なものとの関係)、活動(礼拝など)、制度(寺社、教会など)や信者同士の社会などの総体をさして使用されることが一般的である。
  • (関連項目として、宗教の定義に関する問題・様々な宗教形態についての説明を別盲目で作成し、リンクする。)

などとするのはどうでしょうか。

ところで「マルクス主義は宗教なのか、和食を食べることや日本語を話すことは宗教なのか」、などなどを厳密に区別する必要があるのでしょうか? 例えばマルクス主義は、「革命によって社会主義・共産主義が実現され、理想郷が実現する」などの未来観に注目した場合、そこに宗教的終末論(の変形)・宗教的超越的世界観を見て取る事ができます。また、非合理的な理想像を理由に宗教と同等であるとみなすこともできるでしょう。和食などの食についても、「残してはいけない・命を粗末にしてはいけない」というような食習慣を含めれば、あるいは、和食に限らず宗教的に禁止されている食品を扱わないようにしていれば、その行動の体系は宗教に含まれるでしょう。切り口、注目する所によって変わるべきであり、厳密な定義を行うのは無理があると思うのですが。
あと、一点。Tomosさんは「イスラーム」ではなく、「イスラム教」と言う表現にこだわっているようです。理由があるのでしょうか? 僕が大学生の頃(もう5年以上前ですが)、イスラム関連の研究を行っている人は「イスラム教」という表現を嫌っていました。「イスラム教」という言葉は実情に則さないイメージを伴うからだったと記憶しています。この、「イスラーム」「イスラム教」の表記の問題も、宗教の定義が近年においても移ろっている実例のひとつかと思います。i_t 16:10 2003年5月5日 (UTC)

■「宗教はしばしば「神などをめぐる信念」などと定義される。」
神という言葉の定義自体すさまじく議論百出なのと、精霊のように神とは言い切れないのが中心になっている宗教の存在、仏教での神の扱いなどから、 宗教全般の説明に神という言葉を使うのは適切ではないとおもいます。

また、宗教にあった超自然的という語は、儒教など、不可知な世界の真理の発見を目的としないと考えられている宗教があるので削除・修正しました。

「マルクス主義は宗教なのか、和食を食べることや日本語を話すことは宗教なのか」
これについてのItさんの返信は、宗教についての議論ではなく宗教をWikipediaに記述するための議論なのですよね?snufkin 17:46 2003年5月5日 (UTC)


i_tさんとSnufkinさんの意見を参考にしつつ、更に考えてみました。
まずは一番重要だと思う点についてi_tさんにお返事します。i_tさんが提案されたまとめ方でよいと思います。
ただ、「傾向」について記述する際に、僕がどういう文献なり学説なりに基づいて「宗教は考え方のひとつ」ということを考えるに至ったかを参考にするといいのではないか、と提案されていますが、その部分は自分で考えてみてもよくわかりません。宗教と科学、宗教と哲学の違いについていろいろ考えたことがあるから、という理由のような気がします。(自信はないですが。)
特に意味のある理由もなく僕の発想が偏っていただけなら、自分の考えを撤回する方がいいわけで、そのせいもあってあれこれ調べたわけです。結果、宗教を信仰のことだと定義する説は少なくないようですし、僕としてはいろいろ迷ったのですが、あれこれ調べてみた結果を総合すると、「宗教は信仰のこと」とする説を誰か特定の研究者が唱えてそれが広く受け入れられているというのとも違います。
あと、明治期の政府による定義についての件は、僕は全然門外漢なのでお任せします。
冒頭の定義部分を次のように変えるというのでどうでしょうか。

’’’宗教’’’は神、超越的存在、聖なるものなどについての信仰を何らかの形で含むものであり、その信仰と結びついた個人の態度(超越的なものとの関係)、活動(礼拝など)、制度(寺社、教会など)や信者の形成する社会などの総体を指す。
但し、神の定義は宗教の定義同様困難である上、宗教とされるものの中にも神に相当する存在が含まれないものがある。(例えばアニミズムにおいては自然の諸霊が信仰の対象とされ、仏教の一部においては自己の内にある仏性を目覚めさせるための修行が重視され、超越的な存在に対する祈りや服従などが含まれない場合がある。)そこで、より慎重には、自然物、過去の人物、先祖、人格神、因果などの象徴的存在などについての信仰を含むものが、宗教であると考えることが有効であろう。
また、宗教の信仰内容には、通常、科学で検証の対象とならないような世界の秩序、人間の存在の意義などについての考え方が含まれている。

(Snufkinさんの「象徴的存在」について僕は自分がよくわかっていないような気がするのでうまく扱えていないかも知れません。済みません。)

「一般に神などについての信仰の体系とされることが多いが、そのように定義する特定の学説があってそれが支持されているわけではない」という上に述べた点は、冒頭の定義部分には含めないでもいいのではないかと思います。例などを引用すると長くなってしまいそうなので。あるいは、あえて入れるとすると次のような一言を第1パラグラフの最後なり、第2パラグラフに入れるのもいいかも知れません。

一般には、宗教は神などについての信仰の体系とされることが多い。但し、そのように定義する特定の学説があってそれが広く支持されているというよりも、数多くの定義に共通する部分や一般に宗教という語の持つ意味を考えた場合にそのようになる、という状況であり、研究者の間では多くの定義があり、意見の一致を見ていない。

僕の関心が宗教とそうでないものを区別するための特徴にあったことは既に書いた通りですが、上のような説明には次のような含意があるので、対処になっているように思います。

  • 宗教には信仰が含まれる
    • (信仰の含まれない日本語の使用や、信仰を伴わずに和食を食べることなどは、宗教とは区別される)
  • その信仰のあり方は、科学や一部哲学において論理や実証が重んじられることと対照的である
    • (宗教が科学や哲学一般から区別される)
  • 信仰は神、超越的存在などにまつわる部分を含んでいる
    • (単に自分の母校が「日本一だ」などと信じているような場合などとは区別される。)


ところで、イスラム教とイスラームという2通りの表記の仕方については、特に考えたことがありませんでしたが、考えてみると「イスラム教」の方が「ある宗教の名前」であって「イスラーム」はひとつの生き方や社会のあり方などを指している感じがするからイスラム教という表記を用いたのだと思います。僕が「宗教=教義」という発想を持っていることが反映されているような気がします。。

Tomos 01:39 2003年5月6日 (UTC)

定義問題もさることながら、全体としての体裁をもう少し整えたほうがよいと思ったので、どういう見出しをつけるかを中心に考えて、記事を再構成してみました。

希望的観測かも知れませんが、セクションがあると、宗教に関するいろいろな話題をどこに記せばよいのか、多少判断がつけやすくなるのではないかと思います。もちろん、読む側としてもわかりやすいと思います。

素人読者としての感想ですが、「定義」「由来」に記述が集中している冒頭部分に、「著名な宗教」「宗教の諸形態」「現代社会と宗教の役割」などについての非常に簡潔な記述があるといいと思いました。(簡潔でない記述は後の方にあれこれあるので)

それから、「顕著な例外」のセクションに移動した文章は特にうまく書けていないという印象があったのであれこれ手を加えましたが、うまく行っていない気がします。誰も手をつけないようならまた後でやってみようと思います。 Tomos 02:33 2003年5月6日 (UTC)


数日前ですが、勝手に宗教について再定義してしまいました。趣旨説明していません。すみません。
変更の理由は次の3つです。

  • 原文では「信仰」という言葉が使われているが、本文のどこにも信仰についての定義がされていないため、「信仰」を定義とするのは避けるべきだと考えた。
  • 2文より1文の方が望ましいと考えた。
  • 単に内的側面のみならず、行動をも含む用語として「信念」が適切であろうと考えた。

記事と議論を読んでみて気になった点。

  • 「顕著な例外」の中の「教団をもたないまま活動している宗教」について、そのような宗教が完成した形であるとみるべきか。それとも宗教の発展段階と見るべきか。およそいかなる宗教も、その発生から教団化までは一定のタイムラグがありますので、これを例外と見るべきか。

Falcosapiens 04:52 2003年5月6日 (UTC)


。。。まず、Snufkinさんへ。「宗教についての議論ではなく宗教をWikipediaに記述するための議論なのですよね?」。申し訳ないがあなたの質問の意図がよくわかりません。一応言い換えると、「抽象的な概念の意味は、文脈の中でのみ意味をなすものです。権威のある記者や辞典以外なら、ある程度以上の長文では、単なる語の定義で判断しても情報として役に立たない。」ってことです。(筆者の自己満足どまりになってしまいます。)例えば自分の信念と異なる定義がされていた場合、それなりの説明が無ければ「デタラメな文だ」と思われて信用がが減るだけです。(あ、ライターは増えるかもしれないですね。)
Tomosさんへ。僕は記述が遅いので、落ち着くまで記述は控えます。様子をみさせていただきます。
Falcosapiensさんへ。文中の、「教団を持たないまま活動している宗教」は、本文を読む限り「見えない宗教 現代宗教社会学入門」(トーマス・ルックマン)などの、現代社会における宗教の個人化(だったかな)のことをさしているようです。「発展段階」と捕らえるべきではないでしょう。(例外なの? とは思いますが。)(宗教社会学系の話題だと思うので、間違いがあったらSnufkinさん訂正していただけると助かります。)i_t 03:31 2003年5月13日 (UTC)

冒頭部分を書き換えました。「信仰」と「信念」の件については判断がつきかねたため併記しました。いろいろ問題はあるでしょうが、「神」の概念が曖昧であること、宗教は信仰なり信念を含むものであるけれども、他にいろいろな構成要素があること、などの点は一応盛り込めた形になっていると思います。Tomos 20:31 2003年5月28日 (UTC)

内容がバラバラの部分が多かったため、大項目を変更、構成しなおしました。宗教の構成諸要素の特性・定義、および定義をめぐる諸問題・日本および世界における宗教の広がりが主な再編部分です。また、定義の困難さにつおての記述を追加しています。 元の文意は僕ができる限りは残したつもりですが、僕が意識できず消してしまった部分もあるかと思います。適宜修正お願いします。i_t 23:18 2003年6月22日 (UTC)

「顕著な例外」の項目が「定義および定義をめぐる諸問題」に吸収された点、宗教年鑑などを参考にした追記部分などは特によいと思いました。Tomos 00:13 2003年6月23日 (UTC)
ページ「宗教/過去ログ2」に戻る。