初版と、その中でリンクされている公式サイト内の案内ページを見比べてみましたが、表記などは違うものの、どうやら選択した事実は外部ページの冒頭部分からの借用であり(但し全てを利用したわけではない)、記述の順序などもほぼ同じ、表現も似たものがあります。

ノート:全日本民主医療機関連合会に書いたのと同じく、残念ながら著作権侵害になっている可能性が否定できないように感じました。Tomos 02:31 2004年3月9日 (UTC)

これはノート:エディアカラ動物群とも関連したコメントなのですが、確かに”全日本民主医療機関連合会”の記事の方は、語尾部分が異なるだけで、同一とみなせる文章が複数存在し、問題ありと思うのですが、”益富地学会館”の方は、類似した表現ですが必ずしも同一とは言えません。ただ、文章を見る限りこれが挙げられたオンライン記事が基となっていることがほぼ間違いないというのも事実です。ただそもそも元の記事は、当該会館の案内という、これも基本的には事実のみからなる文章と考えられます。従って、本記事が本当に著作権を侵しているのかもう少し慎重に検討す必要があるのでは?、と思います。
(1)参照、参考にした文献を自分なりに再構成して新しい文章として記述し直すこと。(2)要約、(3)翻案、(4)文章の改編などは、お互いを区別する境界がはっきりしない部分があり、(1)によって作られた文章は、考えようによってはどれも要約とみなすことが出来てしまうのではないでしょうか?。ここら辺の、区別の基準なり指針なりを可能ならどこかで提示する必要があるかと思います(既にそのようなものが明示的に示されていた場合はご容赦ください。断片的にそのようなものが複数存在することは確認しています)。219.108.7.159 14:18 2004年3月10日 (UTC)
ご意見ありがとうございます。慎重な検討が必要という意見、その通りだと思うのでいろいろと考えてみました。わからないところも多い上に、考えが整理しきれないので長くなってしまいますが。
まず、明示的な基準は今のところないと思います。法的にも、要約の明確な定義などはないようですし、仮に定義があったとしても、その定義を具体的な事例にどうあてはめるかについては曖昧さが残ってしまいそうな感じもします。
何かウィキペディア独自のガイドラインのようなものを設定するといいのかな、と考えることはあります。井戸端BBSの方でも最近提案したことですが。(このスレッドのこの投稿です。)
ちなみに、単一の文献のみに依拠して、その文献にある事実の選択を踏襲した場合は、著作権上問題がある場合もあるのではないかと思います。事実の選択に全く創作性が認められない場合は別かも知れませんが。
明らかに安全だろうと思うのは、次のような条件を満たすものです。
  • 単一の資料に依拠していないので、事実の選択が参照した他のどの資料とも異なる。
  • 話題の切り分け方や論の運びなど、全体の構成についても、どの資料とも異なる。
  • 表記、形容、表現などが異なる。
  • 特定のセクションや特定の話題など、部分についても、事実の選択、配列がどの資料とも異なる。
ちなみに、要約の合法性に関する問題についてよく聞く話に、元の文献を読まなくても同じ内容がわかってしまうなら問題があり、単に文献の存在を指示するだけであれば問題がない、というものがあります。もちろん、その境界線は明確に引けると考えているわけではないですが。
以上を踏まえると、では作品のごく一部だけを転用した場合はどうか、ということが当然気になると思うのですが、例えばノート:マクロビオティックに紹介した最高裁判決(本のプロローグがドラマのナレーションとして利用されたケース)などを見ると、ある著作物の一部分だけを転用した場合でも、その表現上の特徴がわからないぐらいに改変されている、他のオリジナルな文章などと組み合わされているなどの事情がない限りは、著作権侵害になる可能性は残るようです。
じゃあ一文だけの定義のようなものでも駄目なのか、というようなことも気になるわけですが、ノート:お笑いタレントのギャグ一覧で書いたように、短くても著作権侵害が認められたケースはあります。(他に、こちらの判例も。[1]
ただ、ギャグや標語、単語の語呂合わせなどは、明らかに創意工夫を凝らしたものであって、誰がやっても同じような表現になる定義文とは違うのではないか、という気もします。
誰がやっても同じようになる表現について参考になりそうなのは、ひとつは、ノート:日本十進分類法でとりあげられた城の定義をめぐる裁判ですが、ここでは一文だから問題ない、ということではなく、特定の立場に立った場合に必然的にある特定の表現に行き着いてしまうので、それを複製しても問題ない、ということでした。
ちなみにここで「立場」をどう解するかが非常に難しいと思います。どのような表現についても、その表現を必然とするような立場を想定することは理論上可能ですが、そのような事情を持ち込むと、分量などに関係なく全ての複製について、「この立場から必然的に導きだされた表現なので問題なし」という理論が当てはまってしまいそうです。が、実際にはそういうことにはならないわけで、どこかで線を引いているようですが、僕にはよくわかりません。数学上の概念の定義だとか、ある哲学者による哲学上の概念の定義だとかを説明しようとすると、恐らくそういう同一性が頻繁に発生してしまい、著作権ではそのような複製を禁止することはしない、という風には言えるのではないかとは思います。
もうひとつ、誰が書いても同じような表現になるものの扱いについて、アイディアが凡庸であればあるほど、類似品が禁止される度合いが低い(多少似ていても問題にされない)という判断も見ました。(こちらの判例から[2]
誰がやっても同じになるわけではない、という程度のものであれば、そのままの複製だけが禁止され、多少の改変を加えたものは構わない、ということになる可能性もある、というような記述もあります。
そうすると、「誰がやっても同じになる」と断言できるような場合には、それを削除しなくても問題がないはず、ということになるのではないかと思います。
(これは定義文が必然的に一致してしまうのと似ていますが、前者は特定の考察や創意工夫を重ねると同じになってしまうのに対して、こちらの件は、特に創意工夫をしない凡庸性故に似てしまう、という問題のようです。)
一般論を離れて今回の件はどうか、というと、簡単な紹介文であることや、表現の細部が異なっていることなどから判断が難しいと思うのですが、とりあげている事実の選択に関しては、誰がやってもこうなるというものではないでしょうし、会館の重要性を特定の形で強調するべく選ばれた事実群だろう、という風に思えます。(=思想の表現になっている)。例えば、http://www2.odn.ne.jp/~aab06570/index.htmlにも同じ博物館の記述がありますが、かなり異なるものになっています。
そうしたあれこれを考えると、どうも、創作性がない、思想を表現していない、といった断言ができず、偶然の一致とも言えなさそうな類似性があることや、初版を投稿した方が他にもかなり多くの転載とおぼしき投稿をされていることなどから考えても、著作権上問題がないはず、という風に言えず、削除する方がいいかな、と思いました。Tomos 21:11 2004年3月23日 (UTC)
上に書いた219.108.7.159です。丁寧なご説明ありがとうございます。当初は、いわゆる単なる引き写し、コピペと異なりもう少し検討が必要と思いコメントしましたが、上記の指摘等を見て、(イ)当該する記事とオンラインの文章は、一段落分に相当する文章量として互いに類似していること、(ロ)Tomosさんが最後の部分で指摘されているように、当該文章を書いた方の他の記事の執筆状況、及びこの文章同士の類似性から見て、当該文章はオンライン文献を基に書かれており、偶然の一致の可能性が乏しいこと、(ハ)加えてご指摘にあるように他のオンラインの文章で同じ事象に対して異なる表現によるものがあること、などから判断して、やはりこの記事には問題があり、削除は止むなしと自分も思いました。
ウィキ上での著作権絡みの話は、自分自身も読んでいますが、何分全体として相当な量なので完全に追いきれていません。ご提示いただいた、記事において著作権的に安全と思われるための条件は大変参考になります。これに関して一つ指摘することとして、最後の条件での”部分”に関しての一致、類似性において、その”部分”の量、質について考える必要があるかと思います。ごく断片的な部分の一致、類似までは通常問題にならないとしても(これも例外があるかもしれません)、一文章、複数の文章、一段落、、、とどの程度の規模で問題となるか、或いはするべきか考える必要があると思いました。61.198.255.183 14:22 2004年3月24日 (UTC)
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