ノート:聖霊

最新のコメント:9 年前 | トピック:全面的改稿に取り掛かります | 投稿者:Kinno Angel

出典の明記テンプレ付与につき 編集

非常に神学的に繊細な項目につき、一冊の文献も、一箇所の外部リンクも、出典が示されていないのはやはり問題と思われます。出典の明記テンプレを付与しました。これについては自分自身、ウィキペディアに不慣れな頃に加筆編集した部分につき外部リンクも出典も付与しなかった事があり、反省しております。先ほど、裏づけとなる外部リンクを補充させて頂きました。--Kliment A.K. 2009年6月4日 (木) 16:41 (UTC)返信

要出典範囲付与部分を削除したことにつき 編集

自分で加筆した部分につき恐縮ですが、削除致しました。関係者・専門家の間ではよく聞く話なのですが、文献上の根拠が(関連情報としても)見付からなかった為です。見付かればまた復帰しようと思います。こうした加筆を過去行ってしまっておりました事を反省しております。深くお詫び申し上げますと共に、ウィキペディアにまだ不慣れな最初期(編集履歴最初の利用者ページ作成)の加筆であった事を申し添えまして釈明とさせて頂きたく存じます。平に御容赦を賜りたく…。--Kliment A.K. 2009年6月4日 (木) 16:55 (UTC)返信

概略の変更について 編集

概略の変更をとりあえず程度行いましたが、現時点であまりにも拙い内容です。 ものみの塔の理解については、概略にのせるべきものではないと考え、どうしても載せる場合には、別項目としてあげるべきだと考えます。 概略だけでなく、その他の項目も修正すべき部分が多くあると思います。例えば、「人間観への影響」は独自研究的ではないでしょうか。 英語版wikiの[Holy Spirit] [Christian Doctrine]程度の内容を記述すべきと考えます。特に問題がなければ、後で追加するか、構成の変更を行いたいのですが、よろしいでしょうか。--木人 2010年4月29日 (木) 14:58 (UTC)返信

「人間観への影響」「聖霊の時代」の項目を、「その他」の上位項目にまとめました。また、「聖霊の定義」「聖霊の働き」の項目を新たに追加し、英語版wikiなどを参考にしながら内容の編集を行いたいと思います。異論がなければ、継続します。--木人 2010年5月6日 (木) 07:51 (UTC)返信

「聖霊の定義」は削除させて頂きました。信仰内容につき「定義」は馴染まない術語です。この項目、かなり慎重に扱わなければならないと考えます。拡充は必要だと思いますが、量を大幅に拡充するよりも、大半の教派が認める内容を書き加えていくにとどめるべきだと思います。キリがなくなります。--Kinno Angel 2010年5月6日 (木) 08:50 (UTC)返信

 上述のように、英語版wikiを参考にし、記述を行うつもりなので、「大半の教派が認める内容」となるはずと考えています。英語版が絶対ではありませんが、少なくとも日本語版よりも多くの人の目に触れ、編集が行われていると考えます。ちなみに、私が考える、キリスト教における「大半の教派」というのは、ニケア信条を受け入れる教派、と考えますが、よろしいでしょうか。--木人 2010年5月6日 (木) 14:53 (UTC)返信

木人さんの認識でよろしいかと存じます。--Evangelical 2010年5月6日 (木) 14:56 (UTC)返信

出典 編集

出典タグが付けられましたが、教父アウグスティヌスの著書は、出典として有効であると考えます。--Evangelical 2010年5月6日 (木) 09:36 (UTC)返信

アウグスティヌスはフィリオクェを認めているので、西方の神学者であるというなら、これは東方との決定的な相違であるとして、東方の見解を加筆することによって対応していただきたいと思います。--Evangelical 2010年5月6日 (木) 09:39 (UTC)返信
取り敢えず。出典タグを貼り付けたのはアウグスティヌスに対応したものではない、もっと前のものです。アウグスティヌスに対応したものは、観点タグです。--Kinno Angel 2010年5月6日 (木) 09:42 (UTC)返信

観点タグにつき 編集

聖書を出典として神学の説明をするのは事典に於ては危ういです。聖書の解釈は教派によって大幅に異なるからです。ペトロを岩として云々の箇所を根拠に教皇首位を導き出す教派とそうでない教派があるという事例は、挙げるまでもないとは思いますが念のため申します。聖書を出典として書いている時点で、何らかのバイアスを疑わざるを得ません。一体誰がある聖書の箇所を根拠に言っているのかを明示する必要が必ずあります。少しずつ書くほかないでしょう。
また、アウグスティヌスの解釈については、確かに正教でも聖人とはされているものの、位置づけが大幅に東方と西方で異なる聖人の言葉をそのまま用いるというのは、やはり危うさが伴います。
教派・思潮につきどのような出典の範囲を私が要求水準としているかについては、十人の処女たちのたとえを御覧下さい。正教についての文献は用意して頂くのは難しいのでそこまで要求するような無茶は申しませんが(呼ばれれば参ります)、せめてリベラル系、福音派系、カトリック系の文献位は網羅して頂きたいものです(図書館にありませんか?)。--Kinno Angel 2010年5月6日 (木) 09:42 (UTC)返信
アウグスティヌスが引用する聖書箇所としてあげました。もちろん、この聖句を根拠とするのはアウグスティヌスだけではありません。アウグスティヌスの神学は、後の世代に若干の神学的修正がかかっている場合があるものの、西方の代表的な立場として認められているものです。--Evangelical 2010年5月6日 (木) 09:47 (UTC)返信
「聖書を出典にすれば教派中立性を担保出来る訳ではありません。」とありますが、たとえば使徒教父文書のディダケーは冒頭から、「二つの道がある」根拠の聖句にエレミヤ21:8をあげ、隣人を愛せよの根拠にマルコ12:30-31とマタイ7:12をあげてます。この調子で聖書を出典としての記述が続きます。これが初代教会からのキリスト教文書のスタイルなのであって、教理、教義、神学、の根拠としてあげられている聖書箇所を入れることによって、中立性が損なわれるとは考えられません。誰もwikiにおいて聖書を根拠として特定の神学的見解を論証しようとする者はいないはずです。--Evangelical 2010年5月6日 (木) 10:00 (UTC)返信
教文館のエキュメニカルな立場の『キリスト教大辞典』も出典に付けました。ご確認下さい。私は聖霊の働き節の前半には多くの教派で承認されていると判断したものを加筆しました。私が加筆したことで、多くの教派で認められていないことがあれば具体的にご指摘ください。聖書を脚注に入れるだけで観点タグが付くのは疑問です。福音派の強調点についてはわずか2行です。--Evangelical 2010年5月6日 (木) 15:00 (UTC)返信
話が噛み合っていないようです…「書籍・論文等であれば」当然聖書を根拠にしても構いません。ですがこれは「百貨事典」です。繰り返しますが聖書の解釈は教派ごとによって大きく異なるのであり、「○○である<ref>□□による福音書X章Y節</ref>」と述べる事は超教派の事典に於ては出来ないのです。--Kinno Angel 2010年5月6日 (木) 23:26 (UTC)返信
具体的に私が一番気になっていましたのは「聖霊は神と人とを繋ぐとりなし手」の部分です。…フィリオクェを無意識の前提にした、あるいはフィリオクェが生まれる土壌となる無意識の前提が感じられたのです(確信は無いのですが…、どうしても引っ掛かりました)。少なくとも「繋ぐ」の文言は聖書原文にありません。訳語「とりなす」は口語訳聖書にあるものですが、日本正教会訳では「求める」となっています。が、「とりなす」については相対的に問題は小さいと考え、一旦そのままにしました。この編集において、「繋ぐ」の文言を撤去し、「執り成し手」に限定する誤解を生みかねない表現を訂正しました。これを以て一旦、中立的観点タグは外しますが(確かに疑わしく思っている箇所はあるものの、現時点では具体的指摘が出来ないためです)、なお精査を続けたく思います。--Kinno Angel 2010年5月7日 (金) 00:24 (UTC)返信

原語について 編集

へブル語の「ルーアハ・カデシュ」は旧約聖書における使用個所がひとつも注記されていませんね。今手元の『新共同訳』を参照したところ、やはり「聖霊」にかんしては旧約の使用個所が明示されていませんでした(編集者らが同義語と認める「神の霊」は多数の使用個所あり)。一般に旧約聖書では単に「霊」や「神の霊」というかたちで使用されているようです。キリスト教の立場から見れば、こうした「神の霊」は新約の「プネウマ・ハギオン」と同じもの、ということになるのでしょう。

  • 現状ではやや記述の正確さを欠くように思います。「ルーアハ・カデシュ」の使用例が見つからなければ、ヘブライ語の原語表記を「ルーアハ」とし、上記の事情を加筆することを提案します。--さんしろ 2011年3月28日 (月) 15:28 (UTC)返信
  • 本文にも書きましたが、詩篇51篇11節に「ルーアハ・カドシュ」の用例があります。おそらく、新共同訳が大多数の翻訳聖書と異なり章節区分をヘブル語聖書と同じとしたため、わからなかったのではないでしょうか。新共同訳聖書では51章13節です。その他イザヤ書63章10節と11節(これは章節同じ)にも用例があります。--木人 2011年3月31日 (木) 14:44 (UTC)返信
  • しばらくログインできない状況が続き、遅くなってもうしわけありませんでした。また、木人さんには私の誤りを指摘してくださってありがとうございます。
  • さて、今手元の新共同訳と旧約聖書翻訳委員会訳を参照して、木人さんのご指摘が正しいことを確認しました。
  • ですが、一点だけ補足をさせてください。旧約聖書翻訳員会の松田伊作氏によると、「ルーアッハ・カドシュ」の用例は上記3か所にすぎないそうです。あまりくわしく突っ込むと独自研究になってしまいそうですが、原語での使用個所が3つだけという事実は記事に反映してもよいかと思います。--さんしろ 2011年4月28日 (木) 16:38 (UTC)返信

再び観点タグ。また改善されない出典の問題→抜本的修正を検討中です 編集

3年経っていますが、今一度観点タグを貼りました。

  • 現状、西方教会に出典が偏っています。…もちろんこれについて「正教会の出典を揃えて書かなかった編集者を非難する」意図は全くありません(というよりそんな無茶な非難は致しません)。ただ、今後の記事に必要な方向性としては、フィリオクェ問題やグリゴリイ・パラマ関連のキーワードがまさしく聖霊なのであり、東西教会分裂において聖霊論は無視出来ないのですから、そろそろ記事のブラッシュアップが図られても良い時期かと思います。これまでの編集者の御尽力にまずは深く感謝します。お疲れ様でした。
  • 他方、東西教会の観点以外にも問題が多々あります。
    • まず、カトリックの観点とプロテスタントの観点が節ごとに偏向しているのが問題です。「聖霊の働き」節はプロテスタントの出典と観点に偏っています(アウグスティヌスを引用すれば西方教会一般の観点かと言えばそうではなく、アウグスティヌスに対する評価において、東西教会の分裂、また宗教改革において見解の違いが顕在化しています)。「聖霊の賜物」節はカトリックの出典と観点に偏っています(私も訳語を日本語版カテキズムに則ったものに補正しましたが)
    • 「ユダヤ‐キリスト教における聖霊」については、その節名に関わらず、ユダヤ教からの出典が見当たりません。旧約聖書を引用したり旧約聖書にちうて語ればユダヤ教かと言えばそれは間違いで、ユダヤ教内部にも様々な観点・派がありますし、旧約聖書からのみユダヤ教が成り立っているわけではありません。
    • イスラームについても同様で、イスラームからの出典が全くありません。

また、出典の問題もあります。

  • 「英語版ウィキペディア参照」となっている脚注が3か所もあります。ちょっとあれです。

以上の問題を改善するために、1か月間反対が無いか、もしくは合意が成れば、現行の記事を抜本的に大幅に修正する作業に取り掛かって行こうと考えております。その際にはキリスト教(正教、カトリック、聖公会、プロテスタント)、ユダヤ教、イスラムからの出典を確保し、記事全体の中立的観点に配慮していくことを想定しています。--Kinno Angel会話2013年3月22日 (金) 14:45 (UTC)返信

今一つ、予め申し上げます。抜本的加筆の際は、やはりキリスト教をトップに持ってきます。理由は以下の通りです。

  • 一般の辞典には限界も時には誤謬もあるのは事実ですが、大辞泉でも大辞林でも、「キリスト教で」しか書かれておらず、ユダヤ教、イスラームについては一切書いていないのです。内容は幾つか気になる点があり、細かい所では出典には使えませんが、「聖霊と言えばキリスト教」という点においては、両事典に目立った欠陥を私からは見出せません。
  • もちろんユダヤ教、イスラームについて書くことは必要です(私の知見では限界はありますが、Holy Spirit - search - JewishEncyclopedia.com等を活用して出来る限りのことはします)。しかし「聖霊と言えばキリスト教」というのは否定出来ないと思われます。聖霊を神とするのは、三位一体を奉じるキリスト教だけです。
  • 以上二点の状況と、Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点とはにあります「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す。」が、キリスト教をトップに持って来て、分量的にも中心的に扱う根拠となります。「三位一体の神の一位格として崇拝の対象とし、文献も数多ある」というのと、そうではない宗教とを同列に並べるのは不適当です。--Kinno Angel会話2013年4月3日 (水) 13:44 (UTC)返信

全面的改稿に取り掛かります 編集

  提案 異議が無ければ、抜本的全面的改稿に近日中に取り掛かります。

  • 5年以上、まとまった形での出典追加が殆ど無く(注釈的なものが幾つかと、部分的には出典追加がありましたが)、また上節のような問題が全く解決されてきていません。
  • そもそも本記事で、第一全地公会議と第二全地公会議において何が議論され何が決議されたのかに一切触れていないのは異様です。
  • 聖書やクルアーンからの直接的な引照が目立ちますが、「聖書に書かれている物語はこのようなもの」といったような単純な物語の概容を示す場合以外、解釈が節ごとにすらも派によって分かれる聖書やクルアーンは、直接「出典」として使えないものです。

上の節に、以上の理由を加えて、抜本的全面的改稿の理由として申し述べます。--Kinno Angel会話2014年9月2日 (火) 15:42 (UTC)返信

  • 「前提:共通点と相違点の存在」において、(PCの画面サイズにもよりますが)フィリオクェについての言及が3行(東西教会間問題)、宗教改革期についての言及が4行(西方教会内の問題)、メソジストのゴンサレスによる論評が2行なわけですが、どの辺が「東方に寄って居る」のか分かりかねます。大バシレイオスが第一全地公会から第二全地公会にかけての間に活躍したことは東西両教会が認める功績です(というかカッパドキアの三教父全員が東方の人です)。なお今後、フィリオクェ問題については様々な東西両教会からの論評を書き、決して「正教会の言い分のみ」にする予定はありません。--Kinno Angel会話2014年11月12日 (水) 04:47 (UTC)返信
  •  「東方に寄りすぎ」というのは言いすぎでした。訂正します。フィリオクェ問題についても、西側で削除・再考の動きというのはその通りで、こちらで資料提供も出来ると思います。--木人会話2014年11月21日 (金) 02:06 (UTC)返信
  •   報告 この取り消しについて。呼び名・働きについては、教派ごとに微妙な解釈のズレがあり、これらを総合して記述しませんと、簡潔な書き方のみでは中立的観点を満たせません。一旦取り消しました。「名」「働き」については、いずれ加筆する積りです。--Kinno Angel会話2014年11月26日 (水) 05:07 (UTC)返信
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