ノート:鳥羽・伏見の戦い

最新のコメント:2 年前 | トピック:背景が冗長に過ぎるのでは? | 投稿者:水野白楓

--記述が新撰組に偏ってませんか?例えば井上源三郎云々の話などはこの戦いの記述としてはどうでもよい内容なので削除すべきだと考えます。また、旧幕府軍が小銃火力で負けた云々というのも正しくなく、火力で言えばむしろ歩兵隊を抱える旧幕府軍の方が優勢でした。敗北の原因は指揮命令系統の混乱と戦闘準備が不十分だったことでしょう。218.45.215.130 2007年7月19日 (木) 03:26 (UTC)返信

新選組に偏っているというか、旧幕府軍の視点での記述内容になっていますね。とりあえず井上源三郎の話は、井上源三郎の個人頁に移動しました。--六拾壱式 2008年2月20日 (水) 08:09 (UTC)返信

「戊辰役東軍西軍激戦之地碑」の建立者 編集

京都競馬場の駐車場脇に建てられているということから、中村勝五郎氏は中山競馬場近くに住んだ馬主の方でしょうね。中山市名誉市民中村勝五郎氏(163)|馬主詳細|KEIBA-DB.COM鬼越の中村勝五郎氏邸/鬼越駅/レッツエンジョイ東京--上海炒面 2008年11月2日 (日) 23:32 (UTC)返信

背景が冗長に過ぎるのでは? 編集

--Tast会話2021年10月23日 (土) 05:45 (UTC)『鳥羽・伏見の戦い』という項目の説明において、幕末史を最初から一通り説明するのは適切ではないと思われます。前史については他の項目を参照するべきで、四侯会議あたりから記述するのが適切ではないでしょうか。以前の記事でもペリー来航から記述されていましたが、「背景」があまりにも冗長なのでは?その調子だと関ヶ原あたりから記述しなければならず、百科事典的ではないと思われます。返信

その後、背景部分が分割されたようですが、大政奉還など本来は四侯会議の後に説明がないといけない記述までが除けられてしまい、中には戦闘本編と密接する記述までが切り離されておりました。 取り敢えず、大政奉還の後の記述については位置変更を行って一部整理(あと、Wikipedia:スタイルマニュアル (見出し)#見出しの中でリンクはしないに反する見出しも修正)しましたが、全ては仕切れておらず、適宜時系列に沿った整理が必要であると思われます。--水野白楓会話2022年4月30日 (土) 02:24 (UTC)返信

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