鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日))は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。
鳥羽・伏見の戦い | |
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![]() ![]() ![]() 上段:小枝橋の戦い。左側:旧幕府軍、右側:薩摩軍 中段:高瀬川堤での戦闘。左側:桑名藩などの旧幕府軍、右側:長州・土佐軍 下段:富ノ森の遭遇戦。左側:旧幕府軍、右側:薩摩軍 | |
戦争:戊辰戦争 | |
年月日:(旧暦)慶応4年1月3日 - 慶応4年1月6日 (グレゴリオ暦)1868年1月27日 - 1868年1月30日 | |
場所:山城国鳥羽・伏見(現在の京都市南区・伏見区) | |
結果:新政府軍の勝利、戊辰戦争の勃発 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
約5,000 | 約15,000 |
損害 | |
約110 戦死 | 約280 戦死 |
背景編集
幕府の威信低下編集
幕末の慶応2年(1866年)、幕府は長州藩に対し第二次長州征討を行うも、敗北を重ねて失敗に終わった。この長州征討の失敗は、幕藩体制の限界と弱体化を白日のもとに晒し、幕府の威信を大きく低下させた。
四侯会議編集
慶応3年(1867年)5月、薩摩藩は政治の主導権を幕府から雄藩連合側へ奪取し、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革しようと図り、四侯会議を主導する。しかし、将軍・徳川慶喜との政局に敗れて失敗すると、幕藩体制下での主導権獲得策を見限り、徳川家を排除した新政権の樹立へと方針を転換するようになる。薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟る。
薩土討幕の密約編集
薩摩藩と土佐藩は、慶応3年5月21日(1867年6月23日) 夕方、京都 室町通り鞍馬口下る西入森之木町の近衛家別邸(薩摩藩家老・小松帯刀の寓居[1]「御花畑屋敷」)において薩土密約を結ぶ[2]。
翌5月22日(太陽暦6月24日)に、土佐藩・乾退助はこれを前土佐藩主・山内容堂に稟申し、同時に勤王派水戸浪士を江戸藩邸に隠匿している事を告白し、土佐藩の起居を促した。(この浪士たちが、のちに薩摩藩へ移管され庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦・江戸薩摩藩邸の焼討事件へ発展する)
乾退助は山内容堂の許可を得て5月27日(太陽暦6月29日)、中岡慎太郎らに大坂でベルギー製活罨式(かつあんしき)アルミニー銃(Albini-Braendlin_rifle)300挺[3]の購入を命じ、6月2日(太陽暦7月3日)に土佐に帰国。弓隊を廃止して銃砲隊を組織し近代式練兵を行った。中岡慎太郎は乾退助の武力討幕の意をしたためた書簡を土佐勤王党の同志あてに送り、土佐勤王党員ら300余名の支持を得る。薩摩藩側も5月25日(太陽暦6月27日)、薩摩藩邸で重臣会議を開き、藩論を武力討幕に統一することが確認された。
討幕の密勅編集
慶応3年10月13日(1867年11月8日)、公家・岩倉具視らの盡力により、討幕及び会津・桑名討伐を命ずる討幕の密勅が薩摩藩に下る。翌14日、同様の討幕の密勅が長州藩に下る。
大政奉還編集
10月14日、かねてより前土佐藩主・山内容堂より建白のあった大政奉還を将軍・徳川慶喜は上表。これは薩長による武力討幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという策略だったと見られている(公議政体論)。諸国の大名は様子見をして上京しないまま諸侯会議が開かれず、逆に旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。
討幕の密勅は江戸の薩摩邸にも伝わり、討幕挙兵の準備と工作活動が行われていたが、大政奉還により「討幕の密勅」はその名目を失い『討幕実行延期の沙汰書』が10月21日に薩長両藩に対し下された。
武力討幕の大義名分を延期された薩摩藩の西郷隆盛は、土佐藩・乾退助より移管された勤王派浪士を使い江戸市中を撹乱させ、旧幕府を挑発することによって旧幕府側から戦端を開かせようと戦略をたてた。
土佐藩兵の上洛編集
10月18日(太陽暦11月13日)、武力討幕論を主張し、大政奉還論に反対する乾退助を残し、土佐藩(勤皇派)上士・山田清廉(第一別撰隊隊長)、渋谷伝之助(第二別撰隊隊長)らが兵を率いて浦戸を出港。しかし、この時「もし京都で戦闘が始まれば藩論の如何に関わらず、薩土討幕の密約に基づき参戦し薩摩藩に加勢せよ」との内命を乾退助より受ける[2]。
10月19日(太陽暦11月14日)、大政奉還論に反対したことにより乾退助が、土佐藩仕置役(参政)を解任され失脚[2]。
王政復古の大号令編集
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇は王政復古の大号令を煥発あらせられ、1.徳川慶喜の将軍職辞職を勅許。2.江戸幕府の廃止、摂政・関白の廃止と総裁、議定、参与の三職の設置。3.諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣された[4]。
同日夕刻開かれた小御所会議で徳川慶喜の辞官と納地の返還を命じられたが、討幕・佐幕藩両陣営が激しく意見を対立させた。
徳川慶喜の反旗編集
翌10日、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は「謹んで受ける」としながらも「配下の気持ちが落ち着くまでは不可能」と曖昧な返答を行い[5]、12日深夜には「朝廷に恭順の意思を示すため」と称し京都の二条城を出て、翌13日に大坂城へ退去。春嶽はこれを見て「天地に誓って慶喜は辞官と納地を実行するだろう」という見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告する。ところが大坂城に入った徳川慶喜は連絡を断ち、12月16日、徳川慶喜は大坂城黒書院にフランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロイセン、オランダの公使を集め「各国との条約の締結や外交の権限は、今後、天皇陛下ではなく慶喜が掌握する」と宣言。朝廷に対し公然と反旗を翻した[6]。
旧幕側で高まる主戦論編集
大坂城では、会津藩士と桑名藩士だけでなく幕閣にも主戦論が高まったため、12月中旬に旧幕府軍は京坂の要地に軍隊を展開した。西国街道の西宮札の辻に小浜藩兵500人、京街道の守口に伊勢亀山藩兵200余人、奈良街道の河堀口に姫路藩兵200余人、紀州街道の住吉口に紀州藩兵若干名を配した。また、枚方と淀には注進に備えて騎兵を置き、真田山と天王寺に陣営を築き、大坂、大坂城外14カ所の柵門、十三川の渡口、守口、枚方、山崎、八幡、淀を幕府陸軍で固め、伏見には幕府陸軍と新選組を配して臨戦態勢を整えた[7][8]。
12月23日と24日にかけて政府において、大坂城に移り音信不通となった慶喜について会議が行われた。参与の大久保は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとした。これに対し春嶽は、旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度春嶽と慶勝が使者に立てられ、慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。近日中に慶喜が上京することも合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた[9]。
鳥羽伏見開戦の前哨戦編集
これら徳川慶喜復権に向けての不穏な動きを感じた討幕派は、薩摩藩管理下の勤王派浪士たちを用いて幕府に対し江戸市中で挑発作戦を敢行。12月23日夜、三田の庄内藩屯所を銃撃した。さらに同日、江戸城二ノ丸附近で炎上があり、これらに堪りかねた旧幕府側は薩摩藩上屋敷の浪人処分を決定した。12月25日に薩摩藩に浪人たちの引き渡しを求めたが薩摩側が拒絶したため、庄内藩等による江戸薩摩藩邸の焼討事件が勃発した。
12月27日(1868年1月21日)、薩摩・長州・土佐・安芸四藩、天皇陛下観閲の下、京都御所・建春門前で軍事演習を披露。
旧幕側の動静編集
28日(1868年1月22日)、江戸薩摩藩邸の焼討事件の報が大坂に届くと、慶喜の周囲では「薩摩討つべし」の声が高まる。
薩摩が薩土密約の履行を促す編集
同日、土佐藩・山田喜久馬、吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩へは既に討幕の勅命が下ったことを示し「薩土密約に基づき、乾退助を大将として国許の土佐藩兵を上洛させ参戦」させるよう促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年1月1日(1868年1月25日)、谷干城はこれを伝えるため、下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立し早馬で土佐へ向う。
朝廷に対する威圧編集
慶喜は武力を背景に朝廷を威圧し、京都の新政権と交渉を続けていくつもりであったが、ついに主戦派を抑えきれなくなり[10]、慶応4年(1868年)元日、「討薩表」を発し、朝廷への訴えと薩摩勢討滅のため、2日から3日にかけて京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の軍勢を進軍させた。慶喜としては、天皇の側の奸臣を除くための軍事行動であり、あくまでも「徳川家と薩摩藩との私戦」という認識であった。アメリカ代理公使ヴォールクンバーグの問い合わせに対しても老中・板倉勝静と酒井忠惇の連署でそのように説明しているが[11]、武備を鞏めての進軍は明らかに朝廷に対する威圧行為であった。
旧幕府軍主力の幕府歩兵隊及び桑名藩兵、見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。旧幕府軍の本営は淀本宮(淀姫社)[12]に置かれ、総督は松平正質、副総督は塚原昌義であった[13]。
慶喜出兵の報告を受けて朝廷では、2日に旧幕府軍の援軍が東側から京都に進軍する事態も想定して、橋本実梁を総督として柳原前光を補佐につけて京都の東側の要所である近江国大津(滋賀県大津市)に派遣することを決めるとともに、京都に部隊を置く複数の藩と彦根藩に対して大津への出兵を命じた。だが、どの藩も出兵に躊躇し、命令に応えたのは大村藩のみであった。渡辺清左衛門率いる大村藩兵は3日未明には大津に到着したが、揃えられた兵力はわずか50名であった[14]。
経過編集
鳥羽方面での戦闘編集
3日午前、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒が接触した。街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答、交渉を反復しながら小枝橋付近で両軍は対峙した。通行を巡っての問答が繰り返されるまま時間が経過し、大目付の滝川具挙の家臣が騎馬で駆け抜けようとするも阻まれ断念、業を煮やした旧幕府軍は午後5時頃、隊列を組んで前進を開始し、強引に押し通る旨を通告した。薩摩藩側では通行を許可しない旨を回答し、その直後に銃兵、大砲が一斉に発砲、旧幕府軍先鋒は大混乱に陥った。旧幕府軍としては、薩摩藩との戦闘は入京後に行うという認識であり[15]、入京するまでは平穏に行軍するよう命令されていたため[16]、この時、歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず、不意の攻撃に狼狽し、滝川具挙は砲撃に驚き乗馬したまま前線から逃亡。奇襲を受け指揮官不在の形になった旧幕府軍の先鋒は潰走し、見廻組など一部が踏みとどまって抗戦していたところ、後方を進行していた桑名藩砲兵隊等が到着し反撃を開始した。日没を迎えても戦闘は継続し、旧幕府軍は再三攻勢を掛けるが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やし、ついに下鳥羽方面に退却した。具挙は前線を去り淀城に逃げ込もうとするが淀城側に拒まれて断念。戻って幕府軍の指揮をとるが再び敗れ、大坂を経て江戸に向けて敗走した。
伏見方面での戦闘編集
伏見でも昼間から通行を巡って問答が繰り返されていたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれた。旧幕府軍は陸軍奉行竹中重固を指揮官として旧伏見奉行所を本陣に展開、対する薩摩・長州藩兵(約800名)は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖し、奉行所を包囲する形で布陣していた。奉行所内にいた会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛けると、高台に布陣していた薩摩藩砲兵等がこれに銃砲撃を加えた。旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返したが、午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し奉行所は炎上した。新政府軍は更に周囲の民家に放火、炎を照明代わりに猛烈に銃撃したため、旧幕府軍は支えきれず退却を開始し、深夜0時頃、新政府軍は伏見奉行所に突入した。旧幕府軍は堀川を超え中書島まで撤退して防御線を張ったが、竹中重固は部隊を放置したまま淀まで逃げ落ちた。
この時の京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15,000名を擁していた。鳥羽では総指揮官の竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで、優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれた。
3日、朝廷では緊急会議が召集された。大久保は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗が必要」と主張したが、春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と反対を主張。会議は紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。
山内容堂は在京の土佐藩兵に「此度の戦闘は、薩摩・長州と会津・桑名の私闘であると解するゆえ、何分の沙汰ある迄は、此度の戦闘に手出しすることを厳禁す[17]」と伝令を通して告ぐが、伏見方面では土佐藩・山田喜久馬、吉松速之助、山地元治、北村重頼、二川元助らの諸隊は藩命を待たず、薩土討幕の密約に基づき戦闘に参加し旧幕府軍に砲撃を加えた。これが効を奏し幕軍は敗走。(渋谷伝之助隊は迷った末、参戦せず)土佐藩兵は勝利を挙げるが北村重頼率いる砲兵隊は妙法院に呼び戻され、厳しく叱責を受け切腹を覚悟する中、錦の御旗が翻り、藩命違反の処分が留保される。
近江方面編集
一方、旧幕府軍では伊勢方面から京都に向けて援軍として騎兵1個中隊と砲兵1個大隊が発進していたが、3日夜になって大津に潜入していた偵察から既に大津には新政府軍が入っているとの報告が入った。これは大村藩兵50名のことであったが、旧幕府軍の援軍は大津に新政府軍が結集していると誤認して大津から京都を目指す事を断念し、石部宿から伊賀街道を経由して大坂に向かうことになった。4日になると、朝廷から改めて命令を受けた佐土原藩・岡山藩・徳島藩の兵が大津に入り、彦根藩もこれに合流した。これによって5藩合わせて700名となり、6日は更に鳥取藩兵と参謀役の木梨精一郎(長州藩)を大津に派遣するも、新政府側が危惧したこの方面からの旧幕府軍の侵攻は発生しなかった[14]。
近江方面の戦況について、大久保は5日付の蓑田伝兵衛宛の書状で、井伊直弼などを輩出した譜代の大藩である彦根藩の旧幕府からの離反に皮肉を込めつつも、彦根藩が味方に付いたことで背後(近江側)の不安がなくなり、旧幕府軍支配下の大坂から京都への物資の流入が止まったとしても、近江から京都への兵糧米の確保が可能になったと記している。また、東久世通禧も後になって大村藩が素早く大津を押さえたことで、旧幕府軍からの京都侵攻とこの戦いで未だに態度を決しかねていた諸藩部隊の新政府からの離反を防いだこと、同藩が大津にある彦根藩の米蔵にある米の新政府への借上げを交渉したことなどをあげて、大村藩の功労が格別であったことを述べている[14]。
淀の戦い編集
翌4日は鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すも、指揮官の佐久間信久らの相次ぐ戦死など新政府軍の反撃を受けて富ノ森へ後退した。
錦の御旗が上がる編集
同日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦の御旗と節刀を与え、新政府軍を官軍として任じた[18]。
また朝廷から薩摩藩に、黒谷にある会津藩邸の制圧の命が下る。薩摩兵は大砲を以て黒谷を攻撃した為、洛中は一時騒擾が起きた。尾張藩の徳川慶勝には二条城接収の命が下り、6日に接収している。入京していた因幡藩や柏原藩などの諸藩の兵も参戦を表明し、官軍となった薩長側に合流を始める。
5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃した。一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで現職の老中でもあった稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。旧幕府軍は、新政府軍を足止めするため伏見の町一帯に放火すると、淀城へ向かった。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、城門を閉じ銃口を向け旧幕府軍の入城を拒絶した(ただし、藩主である正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒まれた旧幕府軍は、さらに大坂寄りの男山・橋本方面へ撤退し、旧幕府軍の負傷者・戦死者は長円寺へ運ばれた。また、この戦闘で新選組は古参の隊長であった井上源三郎ら隊士7名が戦死した。
橋本の戦い編集
5日夜、勅使四条隆平は西国街道上の山崎関門(梶原台場)へ赴き、山崎一帯の津藩兵を指揮する藤堂采女を説得して寝返らせ、これらの津藩兵を官軍とした[19]。
6日、旧幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方率いる新選組の主力などを擁する旧幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川、南に小浜藩が守備する楠葉台場を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。
しかし、山崎の一帯を守備していた津藩兵が官軍に転じていたため、淀川対岸の高浜砲台(高浜船番所)から旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなった。楠葉台場からは西岸へ向けて反撃の砲撃が行われたが、東岸にも官軍が現れた。陸路からの攻めに弱かった楠葉台場も放棄され、幕府軍は淀川を下って大坂へと逃れた。また、この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(後に死亡)を負ったとされる。
結果編集
6日、大坂城にいた慶喜は、緒戦での敗退の報とともに、薩長軍が錦の御旗を掲げた事を知った。これにより「徳川家と薩摩藩の私戦」という慶喜が描いていた構図は崩れた。開戦に積極的でなかったといわれる慶喜は自身が朝敵とされる事を恐れ、表では旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説いたが、裏ではその夜僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。
総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。際して会津藩軍事総督の神保長輝は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして将軍慶喜と主君容保に恭順策を進言したとされ、これが慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。だが長輝にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。陣営には長輝が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。
7日、朝廷において慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵とされた。 9日、新政府軍の長州軍が空になった大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍の支配下となった。 1月中旬までに西日本諸藩および尾張・桑名は新政府に恭順する。 25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府は国際的に承認された唯一の日本政府としての地位を失った。2月には東征軍が進軍を開始する。
旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら5000人の新政府軍に緒戦にして敗れたが、旧幕府軍の敗北の原因について『会津戊辰戦史』では、統一した命令を出す将帥がいなかったため各部隊がバラバラに戦闘して勝手に退却してしまったこと、丹波口や西国街道など複数の方面から進軍しなかったため、大軍が狭い鳥羽街道に密集して混乱し烏合の衆となってしまったこと、京都の情勢をよく理解していなかったため、戦わずに入京出来るつもりで行軍したが、その前に戦闘を仕掛けられて狼狽してしまったこと、の3点を挙げている[20]。 また同書では、もしも一部の兵を割いて丹波口や西国街道からも進軍していれば、旧幕府軍の混乱を回避し、新政府軍の兵力を分散することができ、津藩の寝返りも防止できたはずであると指摘している。
両軍の損害は明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑』によると、新政府軍112名(薩摩藩72名、長州藩38名、土佐藩2名)、旧幕府軍278名(徳川家100名、会津藩123名、桑名藩11名、大垣藩10名、浜田藩5名、新選組29名)となっている。
史跡編集
- 長円寺
- 京都市伏見区。淀の戦いの中、新選組をはじめとする幕府軍の野戦病院になる。
- 正門前に榎本武揚書の「戊辰役東軍戦死者之碑」、境内に「新撰組ゆかりの閻魔王」「戊辰役東軍戦死者埋骨地」を残す。京阪本線淀駅より徒歩十分。見学可能。
- 伏見奉行所跡
- 京都市伏見区。新選組をはじめとする幕府軍が駐屯した。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩七分。京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。跡地は陸軍工兵第16大隊の基地となり、戦後は市営桃陵団地となった。現存は石碑のみ。
- 御香宮神社
- 京都市伏見区。新政府軍が陣所とし、眼下の伏見奉行所を攻撃した。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩四分。京阪本線伏見桃山駅より徒歩七分。現存。
- 東本願寺伏見別院
- 京都市伏見区。会津藩の陣所。京阪本線伏見桃山駅より徒歩十分。近鉄京都線桃山御陵前駅より徒歩十三分。現存は石碑のみ。
- 文相寺
- 京都市伏見区。「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑を残す。京阪本線淀駅より徒歩十五分。現存。見学可能。
- 淀城
- 京都市伏見区。譜代大名稲葉氏の居城。桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水路の要所として、徳川の信任厚い稲葉家が陣取った。鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍の入城要請を拒絶した。京阪本線淀駅より徒歩一分。現存は城壁、「淀城址」の碑、「田辺治之助君記念碑」のみ。敷地内は公園になっている。見学可能。
- 妙教寺
- 京都市伏見区。元淀城本丸があった場所。境内に「史跡淀古城戊辰役砲弾貫通跡」の碑と「戊辰役東軍戦死者之碑」、本堂に「東軍戦死者の位牌」を残す。砲弾が貫通した壁も現存。京阪本線淀駅より徒歩二十分。見学可能。
- 楠葉台場
- 大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目にある。京阪本線樟葉駅と、橋本駅間の車窓から望める。今は楠葉台場跡史跡公園として整備され地元の人の憩いの場になっている。
- 戊辰役東軍西軍激戦之地碑
- 府道124号線脇。京都競馬場から京阪本線を隔てた、住宅地の一角。かつては淀の千両松と呼ばれる堤に沿った松並木であり、工事で現場にあった幕軍戦死者の埋骨碑を工事で撤去しようとしたところ、事故が相次ぎ戦死者の祟りとの噂まで出た。そのため撤去を中止し、横に慰霊碑を建てることにした。慰霊碑の碑面には以下の文面が記されている。
「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争でもあり 幕軍・官軍のいずれもが正しいと信じたるままそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により或るは官軍となり又或るは幕軍となって士道に殉じたので有ります ここに百年の歳月を閉じ 其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る 在天の魂依って瞑すべし 昭和四十五年春」
脚注編集
- ^ 薩長同盟が結ばれたのと同じ場所にあたる。
- ^ a b c “『板垣精神』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年9月10日閲覧。
- ^ ベルギーからの直輸入ではなく、米国南北戦争で使用され、戦争終結後に余剰となった武器類が日本へ輸入されたものと言われる。
- ^ 百科事典 王政復古 (日本) (コトバンク)
- ^ 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の兵糧方を務めた坂本柳佐は、慶応3年(1867年)12月12日夕方から夜の二条城内の様子について、「彼の夕などは二條城に於きまして、今 丸太町通で薩藩を會津の藩が、五人一時に殺した とか何とか云ふ注進が参りました、それで其夜になつて慶喜公が出立となりました、それを會藩が 慶喜公御下坂とあれバ此處で残らず屠腹して仕舞ふ と云ふので、夫れから容保と云ふ人が涙を流して諫めた、其處で又 薩藩を何人斬つた と云ふ注進がありました、慶喜公も會津や桑名を留めましたら内部で軍さが起る勢ですから少し斷念したと思はれます、其丈の策畧は無くして、唯一時に早る者ばかり多かつたです、」と述べ、慶喜が二条城を出る直前、会津藩士や桑名藩士は暴発寸前であったことが分かる。 「」内の引用元は、『史談会速記録 合本 五』(編著者:史談会 発行所:原書房 発行:昭和46年(1971年)12月10日 復刻原本発行:明治27年(1894年)) 94~95頁。 (原本は『史談速記録 第23輯』「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(一次)附四十九節」九十~九十一頁。)
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第1冊』300~302頁 (著者:太政官 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)10月5日) 復古記 巻十 慶応三年十二月十六日 (2018年9月26日閲覧。)
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『徳川慶喜公伝 巻四』253~254頁 (著者:渋沢栄一、監修者:萩野由之 出版者:竜門社 出版年:大正7年(1918年)) (2018年9月21日閲覧。)
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第1冊』317~318頁 (著者:太政官 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)10月5日) 復古記 巻十一 慶応三年十二月十八日 (2018年9月26日閲覧。)
- ^ 土佐藩は、乾退助(板垣退助)主導のもと、軍制近代化と武力討幕論に舵を切ったが、後藤象二郎が「大政奉還論」を献策すると、藩論は過激な武力討幕論を退け、大政奉還論が主流となる。退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と予見する意見を述べたことで全役職を解任されて失脚したが、その予見通りになりつつある危機に直面していた。「大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。乾退助」(『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年))
- ^ 『昔夢会筆記』
- ^ 『大日本外交文書 第一巻』
- ^ 当時の淀本宮(淀姫社、與杼神社)は淀小橋の西の桂川の対岸(現在の京都市伏見区淀水垂町)にあった。 国立国会図書館デジタルコレクション『都名所図会 巻4-6』286頁(著者:秋里籬島 (湘夕) 発行者:葵文會 発行所:吉川弘文館 発行:明治44年(1911年)3月29日) 「都名所圖會 巻五」 淀姫の社 (2018年9月20日閲覧。)
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『徳川慶喜公伝 巻四』263頁、271頁、272頁 (著者:渋沢栄一、監修者:萩野由之 出版者:竜門社 出版年:大正7年(1918年)) (2018年9月20日閲覧。)
- ^ a b c 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P274-277
- ^ 『慶明雑録』
- ^ 『村摂記』
- ^ 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
- ^ なお、この錦旗となる旗は岩倉と薩摩藩が事前に作成しており、戦闘の際にその使用許可を朝廷に求めた事から「薩長が錦旗を偽造した」とする説もあるが、朝廷の許可を得て掲げられた事は確かであり、天皇の許可を経たのかは定かではないものの朝廷はそれを錦の御旗であると認めている。
- ^ * 国立国会図書館デジタルコレクション『岩倉公実記 下巻 1』234~235頁 「勅使四條隆平山崎関門ニ至リ津藩ヲ暁諭スル事」 (著者:多田好問(岩倉具視秘書)ほか 出版者:皇后宮職 印刷者:印刷局 発行:明治39年(1906年)9月15日) (2018年9月21日閲覧。)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『維新の大業と藤堂藩』4頁~5頁 (著者・発行者:大道寺慶男 印刷者:河田貞次郎 印刷所:西濃印刷 発行:昭和5年(1930年)9月25日) (2018年9月21日閲覧。)
- 『たかつきDAYS(広報たかつき)平成27年6月号』 53頁 「たかつき歴史アラカルト10 幕末の京都を守る 梶原台場」 (大阪府高槻市 文化財課) (2018年9月21日閲覧。)
- 大阪・高槻の「しろあと歴史館」で「梶原台場」の素顔に迫る資料展 産経新聞 平成27年(2015年)6月5日 (2018年9月21日閲覧。)
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『会津戊辰戦史』123~ (著者:会津戊辰戦史編纂会 編)